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第二十八話 闇の試験会場 その2

「本当にあのころは若かったな。


 あんな話で驚いてしまうなんて」


 俺は暗闇の試験会場に座りながら、思い出し笑いをした。


 まったく、あの少女に関しては、驚くことばかりだった。


 しかし、今となっては遠い昔の思い出だ。


 もう会うことも出来ない。


 俺はあのマウス臭に満ちた世界を懐かしく回想していた。


 臭いというのは記憶と深いつながりがあるというが、あれは本当のことかもしれない。


 現に今、マウスの臭いが……って、こんな試験会場で?


 俺は、犬のように鼻をひくひく蠢かせた。


 明らかに嗅ぎなれた、あの動物臭が回りから漂ってくる。


 背後からだ! 


 振り向いたとたん、俺の机と同じく、橙色の灯火が、淡い光をこちらに投げかけているのが目に映った。


「お久しぶりね、こんなところで会うなんて」


 その懐かしい声は、忘れるはずも無い。


「早百合ちゃんか!」


 俺は漆黒の中を、気にせず駆け出そうとする。


 だが、足がまるで根が生えたように動かない。


「駄目、試験中に他人の机に来るのは、いくらなんでもカンニングよ。


 ここではそれが最低限のルールなの」


「ここって……どこなんだ!?」


 俺は、つい叫んでしまった。


 試験中だけど、会話はOKなのかな? 


 でも、声が出るんだし、少しぐらいはいいんだろう。


「試験会場よ、もちろん」


 早百合ちゃんの声は、昔と変わらず冷静そのものだ。


「今日は試験監督が優しいから、特別に会話も許されているようね」


「相変わらず言っていることがよくわからないよ、早百合ちゃん」


「あなたも相変わらずぶしつけね。


 試験はお手の物じゃなかったの?」


「そりゃ、毎晩毎晩受けてますけどね。


 こんなパターンは初めてで……」


 俺は彼女に、今まで見た様々な試験の悪夢について語った。


 下手なホラー映画も真っ青の、夜毎の試験たち。


 これは一体何を意味しているのか?


「あなたもやっとお医者様になれたっていうのに、そんなことも知らないの? 


 フフッ」


 姿の見えない彼女が、俺を小ばかにし、闇の奥で笑っている。


 なんとも非現実的だが、不思議と心が楽になった。


 そうだ、俺はまだ何も知らない。


「そもそも試験の夢っていうのは、試験というものがこの世に存在して以来ずっと、人間が良く見る代表的な夢でもあるの。


 古今東西問わずね。


 例えば中国では、隋の時代から科挙という官僚登用試験が開始されたけれど、10段階を越える試験で、超難関として知られているわ。


 何千、何万人もの人間が挑んでは夢破れ、中にはカンニングがばれて打ち首になるものもいた。


 そんな過酷な試験だから、その夢を見るものも多く、様々な逸話が残っているの」


 奇妙な話が好物の俺は、興味深く拝聴した。


「科挙の試験会場には通常試験監督が回ってくるんだけど、夢の中で、『三国志』の関羽が試験監督をしているのを見たものもいる。


 彼は公正無私な性格で知れ渡っていたから、彼が試験監督をしている場合は、現実でも試験が、不正なく、実力どおりに受かるといわれるようになったの。


 中国では、夢が、現実の試験と相対しているという考え方だったのね。


 ちなみに張飛が巡回してくる場合もあって、その時は、問題用紙に文句を言って、怒ってびりびりに破いてしまったと言うわ」


「へぇ~、そりゃ面白い。


 中国人も大変だったんだな」


 三国志マニアの俺も、そんな話は初耳で、興味深かった。


 さすが四千年の歴史は伊達じゃない。


「また、関羽と試験に関しては、こんな逸話もあるわ。


 清の時代、とある科挙の受験資格をもった男性が病気で寝込んでいるとき、何者かに連れられて立派な街の役所に行き、高貴な服装の役人たちの前で試験を受け、見事合格したの。


 すると試験官の役人たちは彼を誉めそやし、地方神に取り立てようとしたため、彼は、これは神の登用試験であり、居並ぶ貴人たちの正体が神々である事を悟った」


 早百合ちゃんは乗ってきたのが、不思議な昔話を滔々と語りだした。


「ほ~、神様ってのも人材不足なんだな」


「彼は、老いた母親がいるため、赴任までの猶予期間を下さいと必死で懇願した。


 神になることとは、即ち死ぬことですからね。


 試験官の中に列席していた関羽の取り成しで申し出を許され、ひとまず帰宅すると、なんと棺桶の中で目が覚めたの。


 仮死状態だったってわけ。


 そして数年後、彼の母親が亡くなった直後、予言通りに彼も息を引き取ったの。


『聊斎志異』の中の『考城隍』という話よ。


 作者の蒲松齢は一生科挙に合格できなかったという人物だから、個人的な鬱屈した思いが詰まったストーリーのように感じるわね」


「う~む、試験に受かるのも良し悪しってことかな」


「それが西洋になると、だいぶ考え方が違ってくるわね。


 夢判断で有名な、かのフロイト先生は、試験の夢を、幼年時代にしてはならないことをして受けた罰への、消し去りがたい記憶の暗喩だとしているの。


 彼自身は非常に優秀な学生だったんだけど、それでも試験の夢は良く見たらしく、この意味についてはだいぶ悩んでいたようだわ。


 それで、この試験とは、日常生活における不安の表れだとか、罰してくれるものがいなくなった大人に対する非難や自己批判だとか、または、目覚めたときに安堵を与えてくれる、一種の逆説的な慰めじゃないかとか、色々な仮説を立てている。


 また、彼は、『試験の夢は、その試験に合格した人間にかぎって現われてくるものであって、それに失敗した者はこの夢を見ないというのである』という珍説も披露しているけれど、それは明らかに間違いよね」


「そりゃそうだ! 


 俺は受かる前から見続けてきたぞ!」


 俺も声高に、このときとばかり反対した。


「ま、さすがのフロイト先生も、科挙のことは良く知らなかったんじゃないかしら。


 科挙の夢を見るのは、むしろ落ちた人が割合から考えて圧倒的に多かったでしょうから、今でも語り伝えられているんでしょうに。


 ちなみにフロイトも法医学だけは試験に落ちたそうよ」


「なるほど、しかしいろんな解釈があるんだな」


 俺は、試験の夢で悩んでいたのが自分だけじゃないと知って、ちょっと嬉しくなった。


 しかし彼女は、本当にいろんなことを知っている。


「でも、夢の中で知り合いと、夢について話し合ったのは初めてだよ。


 フロイト先生はなんていうかな?」


「フフッ、そうね。


 じゃぁ、回りを眺めて御覧なさい」


「えっ?」


 彼女がふと、妙なことを言う。


 俺は、言われたとおり、暗黒の世界を見回した。


 いつの間にか、あちらこちらに、オレンジ色の明かりが灯っている。


 闇夜に瞬く蛍の光のように、明滅を繰り返しながらも、皆、列を成している。


「こ、これは一体……」


「まだわからない?」


 彼女の声が、急に氷点下まで下がったかのように冷たく木霊する。


「俺は……」


 何か大事な記憶が抜けている気がする、何かが。


 俺は必死で回想の続きを脳内からダウンロードする。


 右手の下で、白紙の答案用紙が、ひらひらとお札のように揺れていた。

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