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第二十七話 遠い日

「何回か成長ホルモンを打っているうちに、あの子の皮膚が徐々に赤くなり、掻痒感も出現した。


 医者に相談しても、『一時的な反応かもしれないので、もう少し様子を見ましょう』といい、アレルギー薬を処方されるだけだった。


 成長ホルモンの影響によって、白血球が様々な炎症サイトカインを放出したり、マクロファージに異常をもたらすとも言われるが、とにかくやがて日焼けのような赤みが注射していない部位までに広がっていき、このままでは生命にさえ関わるほど、一気に発赤が全身に浸潤したため、私たちは急いで病院に行き、治療を受けた」


「スティーブンス・ジョンソン症候群……」


 思わず呟いてしまった。


 薬理学で習ったことのある病気だ。


 皮膚粘膜眼症候群ともいい、ウイルスや、薬剤の副作用などによって、紅斑、水疱、びらんが皮膚や粘膜に広く出現し、最悪失明や、死に至ることもある、恐るべき疾患。


 薬を使い続けるうち、進行していき、それを治そうと更に同じ薬を使用して悪化させることもあるという、医者にとっては忌むべきトラップ・ディジーズだ。


「ほぅ、よく知っているな。


 ま、そんなわけで、我々一家は、彼女の回復と共に、医療機関にかかることを一切やめた。


 早百合の父親、つまり私の元夫は、これまでの過程で、医師への信頼感をすっかり失っていた。


 やがてその感情は妻の私にまで及んだ」


「それで、別れたというわけですか? 


 大事な娘さんがいるのにも関わらず?」


「早百合の存在は夫婦間の絆とは、また別なことさ。


 そもそもことの始まりの交通事故も、私がもっと注意深くすべきだったという負い目もあった。


 彼は私をののしり、喧嘩が絶えなくなり、関係は悪化し、ついには離婚に至った。


 協議の結果、早百合は私が育てることとなり、うちはいわゆる母子家庭となった」


 そこまで話すと、教授は白衣のポケットからもう一本タバコを取り出した。


 額に手を当ててうめいていた明星が、はじかれたように起き上がると、火をつけたライターをすかさず差し出す。


 なんなんですかこの性奴隷は!


「私は彼女を連れて、昔からよく訪れていた母方の実家のこの地に移ってきた。


 そして寄生虫学に講師として入局し、徐々に上り詰めていった。


 やがて早百合は小学校に入学したが、相変わらず成長が止まっているため、段々といじめられるようになった。


 子供ってのは残酷なもので、自分たちと違う者に対しては、何の落ち度が無くても徹底的に排除しようとする。


 無邪気で愚かな生き物さ」


「まぁ、確かにそうですね」


 むしろ大学生でもそうなのだが、と俺は心の中で呟いた。


 多留生は、最早存在そのものが異物であり、学年の中から浮き上がっている。


 目に見えたいじめなどはさすがにないが、情報が回ってこなかったり、学年の集まりに誘われなかったりなどは日常茶飯事だ。


 俺は、早百合ちゃんの気持ちが、なんとなく理解できた。


「彼女の成績が、非常に優秀で、よく出来た子だったのも、子供たちの嫉妬を招いたのだろう。


 筆箱に『こびとづかん』と落書きされたり、教科書を隠されたり、体育の授業で集中的に攻撃されたりと、徐々にいじめはエスカレートしていったが、こんな田舎じゃ教育委員会など糞の役にも立たなくてな。


 彼女が不登校になるのに時間はかからなかったってわけさ」


「うっ……うっ……」


 いつの間にか明星が、声を殺して嗚咽している。


 室内は重苦しく、悲嘆に包まれていた。


 しかしなんでそこまで泣くんだ、こいつ?


「俺は愛娘にこう言った。


『あんな非人間的な暗殺教室には無理に行かなくてもいい。


 保健室登校でもしてのんびり暮らし、出席日数だけ足りればいい。


 だが、将来のため、勉強だけは続けろ。


 そして、時間が余って暇なら、お母さんの職場で、時間でも潰していろ。


 人間、若いうちに遊んで過ごすのだけは良くないからな』」


「要するに、俺たち留年生に言ったようなことですね?」


「そういうこった。


 彼女は俺の言いつけを守り、この建物に入り浸るようになった。


 そしてマウスに興味を示し、世話のやり方を覚え、やがてあの部屋の主と化した、というわけだ」


 そこで彼女は、深い溜息を一つついた。


 魂の底から響くような、人生の全てが詰まったような溜息は、俺が授業中についたそれよりも、はるかに重みを感じさせるものだった。


「そうか、それで彼女は若いのにあれだけのマウスに対する知識を持っているんですね。


 でも、何故、早百合ちゃんに対して、そこのにくど……じゃなかった明星さんは、執事みたいに仕えているんですか?」


 俺は、この際だから、疑問に思っていることをずばっと吐き出した。


「あなたは教授の話を聞いていなかったんですか?」


 急に明星が、えらそうな態度に変わると俺を睨み付ける。


「え、全部聞いてましたけど?」


「じゃぁ、そのマウス以下の脳みそで、少しは想像力を働かせなさい。


 小生は先程の悲劇の中に、ちゃんと登場していますよ」


「嘘だ、どこにも名前出なかったぞ!」


「だから想像しろといってるんですよ、この腐れカボチャ頭君。


 小生は、教授親子に対し、償っても償いきれないほどの罪を背負っているのです」


 俺はぼろ糞に言われて腹が立ったので、記憶の糸を辿ってみた。


 ま、まさか……。


「そう、小生こそが、雪道で、横断歩道を渡っていた早百合様を引いてしまった、バカ野郎だったのです」


 五月にも関わらず、季節はずれの寒風が、教授室に吹き込んできたように感じ、俺は一瞬身を竦めた。

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