第二十六話 天国のドア
「ああ……いい……」
「どうですか、教授?」
「もっと……そこ……」
「こうですか?」
寄生虫学の教授室の中からもれ聞こえるあえぎ声に、俺は肝を潰された。
早百合のことについて、ちょろっと聞いてみようかなと思い、図書室からそのまま足を向けたのだが、まさか中から破廉恥極まる桃色吐息が奏でられるとは想像だにしませんでしたですよ、はい。
聡子との唐突な会合によって、俺の受けたダメージは深く、正直ここまで来るのも大変だった。
しかし更なる精神的汚染のため、俺は思考能力を奪われつつあった。
今日は厄日か?
だが気を取り直して考察してみよう。
室内の二人は、女性と男性のようであるが、さて、誰と誰でしょう?
って教授と助手しかいねぇよ!
声聞きゃ分かるし!
それにしても、だみ声だとばかり思っていた教授も、女性らしい声を出せるもんだな、と俺はいらんところで感心した。
確かに彼女は、助手の明星のことを、「肉奴隷」と称していたが、あれって真実だったのねん……。
そりゃ明星も疲れるわなぁ、ごくろうさん。
回れ右して帰ろうかと思ったが、二人の反応を見るのも面白かろうと邪念がムラムラと湧いてきたため、俺は教授室のドアを小さくノックした。
これが本当の天国のドアか?
ドアを叩いた瞬間、内部の物音が急に停止し、完全な静寂が訪れた。
きっかり10秒後、「誰だ?」という、おなじみのだみ声が聞こえてきた。
腐っても教授、いかなるときも冷静沈着。
「錦織です。
ちょっと教授にご相談があって……」
てっきり「帰れ」と言われるかと思ったが、ちょっと間が空いた後、「分かった、ちょっと待て」とのお言葉。
その後なんだかがさごそがさごそ騒がしくなり、三十秒も待っただろうか、「入れ」という命が下されたため、俺はようやく「失礼します」というが早いか、ドアを開けた。
予想通り、教授室の応接セットのソファーに、蛇池教授と明星助手が、向かい合って腰掛けていた。
二人とも白衣を着ているため、服装の乱れはちょっと分かりづらいが、教授の長髪が明らかに乱れている。
セットする時間はさすがになかったようだ。
それでも、「おぅ、何の用だ?」といつも通りの調子で聞いてくるのはさすがというべきか。
ここは大人の対応でいこう。
と思ったが、「今、何してたんですか?」と、根が正直で好奇心旺盛な俺は、開口一番、ずばり核心を突く質問をしてしまった。
我ながら何たる意志の弱さ。
「ああ、明星にちょっと犯されていた」
「きょぅひゅっ!」
根暗野郎が、喉を締め上げた鶏みたいな奇声を発する、って実際聞いたこと無いけど。
顔が一段と青く、チアノーゼ寸前だ。
「冗談、冗談。普通にレイプされていただけだ」
「よけい悪いわ!」
いかん、教授に対しても突っ込んでしまう。
でも明らかにこれは俺のせいじゃないよな。
「な~に、某卓球漫画にもあったけれど、『親しき仲にもレイプあり』って言うだろ。
いくら知り合いとはいえ、油断は出来ないっていうこった。
レイプ犯って親戚のおじさんとかが多いんだぞ」
「なるほど、なんか辻褄が合っているんで、思わず納得してしまいそうになりましたよ」
「それを言うならレイプじゃなくて礼儀でしょう!」
今まで黙りこくっていた明星も、こればかりは突っ込んできた。
そのとき俺は、彼の首筋から、どこぞで見たような、銀色の卵形をしたペンダントが掛かっているのをちらっと見つけてしまった。
どうやら白衣の前ボタンを留め忘れていたため、いつもは見えない箇所が曝されてしまったのだろう。
うわ、ひょっとしてお揃い?
「で、用件はそれだけじゃないだろ?」
「ああ、そうでした。実は、早百合ちゃんについてなんですが」
俺は、謎のペアルックには遭えて触れず、ここに来た目的を思い出した。
「ん?
うちの可愛い可愛いさーちゃんがどうしたか?」
「なんかどこぞの女子卓球選手の掛け声みたいな愛称ですね。
ま、それはおいといて……」
そして俺は、彼女にマウスの世話についていろいろ教えられた話をした。
教授は学内禁煙にも関わらず、タバコをくゆらせながら、ぼーっと聞いているようだった。
ひょっとして、オーガズムを迎えちゃったので、倦怠感に包まれているだけなんだろうか?
「というわけなんですが、教授、聞いてました?」
「ああ、さーちゃんは本当にかわいいいねぇ。
さーちゃんかわいいよさーちゃん」
「……」
まぁ、いい。
一応聞いていたことにしとこう。
「で、彼女は自分を成長ホルモン分泌不全性低身長症の15歳と言っていましたが、いくら義務教育が終わったとはいえ、高校も行かず、日長一日ネズミの世話ばかりしていていいんですか?
もっと勉強したり、友達と遊んだり、いろいろとすべきことがあるでしょーに」
「勉強?
友達?
プッ」
教授が小ばかにしたように、鼻で軽く笑う。
「さーちゃんよりもウイルスの知識の無いお前が、どの口で勉強などとほざく?
留年し続けて、かつての友達とやらに白い目で見られるお前が、友達と遊べだぁ?
冗談も休み休み言え」
「うっ」
口の悪いところは親譲りだったんだな、と俺は改めて認識した。
とても勝てそうにない。
「だが、お前の疑問もある意味まっとうだ。
よし、親として、話せるところは話してやろう」
教授はタバコを明星の額に突き立てると、彼の絶叫をバックミュージックに、娘の過去を物語り始めた。
「私にまだ夫という存在がおり、早百合が4歳になったときのことだ。
ある冬の日、彼女は交通事故にあい、重傷を負った。
都会では珍しい雪の日で、スリップ事故だった。
彼女には何一つ悪い点が無かったが、横断歩道を渡るとき、私が手をつないでいなかったのが、唯一の過ちだった」
彼女にしては、珍しく静かな落ち着いた口調で、俺は緊張しながら聞いていた。
「入院は二ヶ月以上に及んだ。両足の骨が折れていたが、手術とリハビリでどうにか回復した。
頭も強く打ったが、CTやMRIでも特に異常なしと言われた。
しかし、退院後、私と夫は、奇妙なことに気付いた。
それまで順調に成長していた早百合の身長が、殆ど伸びなくなったのだ。
慌てて小児科を受診し、様々な検査を受けた結果、先程お前が言った、あの爺の小便のように長い悪魔のような病名と確定診断がなされた」
彼女の視線が、俺を突き抜け、どこか遠くをさまよっている。
恐らく10年以上前の悪夢を思い出しているのだろう。
「で、でも、成長ホルモンを注射すれば、正常に発達すると、本で読んだのですが」
「んなものもちろんやったさ。
でも、中断せざるをえなかった……アレルギー反応が出たんだよ。ハハッ」
「えっ……」
俺のおろかな考えなど、とっくにお見通しだといわんばかりに、教授はあざけるように笑った。




