第二十五話 違和感
「成長ホルモン分泌不全性低身長症とは、下垂体から分泌される成長ホルモンの分泌低下によって成長障害を来たし、身長が著しく低い状態をいう。
知能は正常で、身体均整のとれた低身長が特徴的である。
特発性は男児に多く、続発性は頭蓋咽頭腫、生殖細胞腫、下垂体腺種、頭部外傷などが原因とされる。
診断には成長ホルモン刺激試験が用いられ、治療法は成長ホルモンの投与である。
合併症として、甲状腺機能低下症、性腺機能低下症、副腎機能低下症、尿崩症などがあり……」
「なんかよく分からんな~、要するに小さいままって病気なのか?」
俺は手にした国家試験の参考書をパタンと閉じた。
ここは雲州大学医学部の図書館で、こういった医学関係の本がいろいろ置いてあり、調べ物や試験勉強に役立つ。
もっとも俺は今まであまり訪れたことが無かったが。
何故なら、ここではあまり会話はできないし、声に出して覚えることもできないし(俺は音読して記憶する派なのだ)、何より、留年生にはあまり見たくない、「死者の書」コーナーというものがあったから。
まぁ、それはどうでもいい。
外からは黄金の日差しが差し込み、杉材のテーブルに、柔らかな影を落とす。
あくびが出そうなほどよい天気だ。
俺はもう一度本を開くと、ざっとそのページに目を通した。
「成長ホルモン分泌不全性低身長症」について書かれた箇所だ。
あまりにも専門用語が多すぎて、めまいを覚えるが、どうやらこの疾患は、成長ホルモンが少なくて、身長が伸びず、小さいままという恐ろしい病気らしい。
蛇池早百合が、彼女自身の言うとおり、この疾患であるとするならば、あの大人びた態度も、年齢が十五歳で、義務教育は既に終わったという話も、納得がいく。
彼女は時の止まった妖精なのだ。
しかし何故そんな少女が、高校にも行かず、大学の片隅でマウスの世話をしているのか、何故助手が、いくら教授の娘とはいえ、執事の如く傅いているのか、新たな疑問が次々に湧いてくる。
そもそもこの本によれば、成長ホルモンを注射すれば、普通に成長すると書いてあるではないか。
親が医学部の教授の癖に、治療も受けていないのか?
うーん、分からん。
寝よう。ぐー。
「図書館で寝たらあかんがいっちゃ、ボケェ!」
いきなり後頭部に衝撃を食らい、一気に眼が覚める。
今のは激しく痛い。
振り返ると、分厚い参考書を手にした雪嵐聡子が、にこやかに微笑みながら仁王立ちしていた。
俺は、とっさのことで、息が詰まりそうになった。
なんで1号……もとい、彼女がここに!?
「お久しぶりですー、先輩。
めずらしいですね、こんなところにいるなんて」
「あ、ああ……ええ……おお」
駄目だ、言葉がうまく出てこない。
突然失語症になったかのように、あ行ばかりが途切れ途切れに口元からこぼれ落ちるばかりで、思考回路は消灯寸前だった。
「居眠りなんかしちゃ駄目ですよー、ここって皆、勉強に使っているから、いびきなんかかいたら叩き出されますよー」
「あ、そぉなの……」
彼女は、携帯でのあの日の諍いなど、まるでなかったかのように話しかけてくる。
対する俺は、声が完全に裏返っている。
今こそ、あの時言えなかった、「ごめんなさい」を言うチャンスだと、脳では分かっているのだが、体がいうことを聞いてくれず、非常に歯がゆかった。
こんなにナチュラルに接してくれる彼女に対し、自分だってちゃんと話すべきだ。
普段の横柄な俺はどこへ行った!
だが、言語中枢が、謝罪の言葉を組み立ててくれず、しどろもどろの言葉だけが、あぶくのように空間に消えていった。
「最近ちゃんとやってますかー?
先輩はレポートなんてあまりないからいいですけど、私は大変なんですよー」
「ああ、そ、そうか……」
彼女の言うとおり、3年次はレポートが多く、3教科しかない俺は、まだ少ないからいいものの、3年次初心者(?)は、まず大量の提出物に苦しめられる。
そして秋口の中間試験もあり、徐々に体力を奪われていく。
10教科近くがひしめくこの学年は、医学科の峠の一つでもあるのだ。ちなみに医学科は教養部終了後の二年次以降はすべての科目が必修であり、単位を一つでも落とすと即留年となる。
それにしても、彼女は何一つ変わらなかった。
大人っぽくは無いが、整った顔立ち、くりくりとよく動く大きな瞳、活発な喋り方や態度。家に寝転がっている2号なんぞより、よっぽど可愛かった。
いくらラブドールが技術の粋を極めた人工美を誇ろうとも、自然の生み出した身体が持つ、内から輝く若さとはつらつさの前では、太陽の前の月の如く、金メダルの前の銀メダルの如く、東大生の前の京大生の如く(?)、霞んでしまう。
同じショートカットでもえらい違いだ。
久々に見ると、よく自分がこんな美人さんと付き合っていたもんだと思う。
しかし、何かが以前と異なるように感じられた。
違和感の正体は分からなかったが、俺と一緒にいたときにはなかったものだ。
これが、違う男と身体をかさねた効果なのか?
俺は急激に自分の中のモヤモヤがマックスゲージを越えるのを自覚し、すっくと立ち上がった。
「お、俺、もう、行かなくちゃ」
「えっ? せ、せんぱ……」
明らかにとまどう彼女を残し、俺は本も置きっぱのまま、そそくさと出口へ向かって小走りで急いだ。
嫉妬でどす黒く汚れる自分の心が、目に見えるようで、吐気がした。