第二十四話 時を失くした妖精
「と、いうわけで、今度保健所に受講しに行くことになったわけよ。
まったくボトムズの奴ら、俺に押し付けやがって……」
俺は、へらでケージ内のマウスの糞をこそぎ落としながら、愚痴を垂れ流し続けた。
「へぇ、でも、海水浴場のバイトって面白そうじゃない」
アルビノのマウスよりも白く輝く横顔を向けながら、早百合は明るく答えた。
俺たち二人は、相変わらず、午前の陽光差し込む動物実験室にて、マウスの世話をしていた。
時はいつしか五月になり、俺は慣れてきたせいか、だいぶ手際よく仕事をこなせるようになってきた。
朝の早い時間に素早くプラグチェックを終えると、妊娠マウスを分別し、水遣りと餌遣りをしながら、同時進行でケージの掃除もこなしていく。
最近はそれら全てを午前中に終わらせるほどスピードアップし、自分が修練を積んできたのが実感できた。
早百合は、俺と一緒に仕事をするか、ネズミをじっくり観察するかしていたが、ふらっと部屋からいなくなることも多かった。
その時は、必ず影のように明星が現れ、彼女を抱えて連れて行く。
最初のうちは驚いたが、徐々に気にもしなくなってきた。
彼女はおそらく体力があまりなく、まだ子供だし、そうした移動方法が好きなのだろう。
相変わらず学校に通っている形跡は無さそうだったが、通信教育というものも、世の中あるそうだし、他人の家庭の事情をあまり詮索するのもよろしくないかと思って、触れないことにした。
それにしても彼女は、幼いのにマウスのことを本当に熟知していた。
例えばメスのマウスは、出産しても、まったく自分の子供を育てようとしないものもいるのだが、そんな時早百合は、同時期に子育てをしている他のメスマウスのケージに、ネグレクトマウスの子供たちを全て移すことがあった。
すると、移転先のメスマウスは、他者の子供であるにもかかわらず、その子ネズミたちを引き受け、全てまとめて世話をするのだった。
「結局人間と同じことなの。
子育てをしない母親は一切しないし、する母親は、たとえ他人の子供だって引き受ける人もいる。
それを見極めるのが私の仕事でもあるの」
「そうか、マウスもいろんな性格の奴がいるってわけだな」
俺はピンク色の生まれたてのマウスが、義母に当たるメスマウスのおっぱいを無心に飲む様を、彼女と一緒に眺めた。
早百合は如何にも愛おしそうに、無事親子関係が成立した姿を見つめている。
つられて俺も、なんだかほかほかした気持ちになっていき、つい素手で赤ん坊マウスに触りそうになった。
「だめ!」
急に彼女の表情が険しくなり、小さい拳で、俺の顔を殴りつける。
「うごぁっ!」
もろに鼻の頭にヒットし、俺は蠢いた。
生暖かいものがどろりと鼻腔から垂れ落ちる。
「な、何するんだよ、いきなり!」
「あっ、ごめんなさい、つい……」
彼女は手を引っ込めると、実験室の奥からティッシュを持ってきて、俺の鼻を強く押さえた。
「本当にごめんなさい。
でも、素手で赤ちゃんに触れて欲しくなかったの。
今、センダイウイルスが話題になっていて、子供のマウスは特にかかりやすいから。これに汚染されると、大変なことになるし……」
真紅に染まる鼻紙を見つめるうちに、徐々に落ち着いてきた俺は、彼女の言い訳を聞くともなしに聞いていた。
どうやらそのウイルスは、人間に感染しても症状を起さないが、マウスやラットに感染すると、肺炎に似た症状を起こし、赤血球を凝集させ、最終的に溶血を起こし、死に至らしめることもあるという代物で、感染力も高く、実験室のマウスを全滅させることもあるという。
「そんなウイルス、聞いたことも無かったよ。
一応、ウイルス学受けてるのになぁ」
「あら、だから落ちたんじゃなくて?」
「うっ」
相変わらず口の減らないおガキ様だ。
だが、一つ勉強になった。
この手のウイルスは、同じ哺乳類でも、症状を起こす動物と起こさない動物がいるのだ。
確か、インフルエンザウイルスも、似たようなグループのウイルスだったはずだ。
俺は、机上の知識が役に立つ様を、初めて目の当たりにした。
「わかった、以後気をつけるよ。
この鼻の痛みがある限り」
「あら、もっと強く殴ればよかった?
フフフ」
彼女が、まるで大人の女性のような、妖艶な笑みを浮かべる。
思わずドキッとした俺は、急に気まずくなり、壁に張りっぱなしの、数年は経過していると思われるカレンダーの方を見て、ごほんと咳払いをした。
「俺も、近所の喫茶店の犬をよくなでるから、気をつけないとな。
あいつ、豚みたいにブクブク太っているんだけど、よく喫茶店の前で日向ぼっこしていて、俺が通りかかると、『ワンっ』て吼えて、人間様に、わざわざドアを開けさせて、中へ入れてもらうのさ。
まったく、賢いんだか、ものぐさなんだか、よく分からん犬だよ」
「へぇ、そんな店があるの。
面白いわね、ちょっと行ってみたい」
彼女の瞳が、やけにきらきらと輝いていた。
どうやらマウス以外の動物もお好きと見た。
「行けばいいさ。
今、場所を教えてやるよ。
駅の前の道を真っ直ぐ行って……」
「いいわ、私、あまり遠出出来ないから。
時々耳鳴りもするし。
大学じゃあまりしないんだけどね」
彼女が急に、寂しげに眉をひそめる。
心なしか、声の調子も沈んでいた。
「お、俺、何か悪いこと言っちゃった?
すまん」
「いいえ、あなたが謝ることは無いわ。
私は実は、重い病気にかかっているの」
彼女の白い肌が、一瞬、より一層透き通って見え、まるでアラバスター製の優美な花瓶を髣髴とさせた。
「私、何歳だと思う?」
いきなり早百合が妙な質問をしてくる。
「レディーに年を尋ねちゃいけないって、俺の死んだお祖母ちゃんが言っていたんで……」
「今は私が聞いているんじゃないの!
あなた、散々私を子ども扱いしてきたけど、もう中学校は卒業したんですからね」
「へっ?」
俺は、どう見ても10歳以下にしか見えない彼女を見下ろした。
何を言ってるんだ、こいつ?
「私の病気は成長ホルモン分泌不全性低身長症。
こう見えてももう十五歳よ。
義務教育は今年の春で終わったの」