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第二十話 食殺

「や、やっと終わった……」


 結局二時間以上もかかって、ようやく作業を終えた俺は、手袋を脱ぎ捨てると額の汗を手の甲で拭った。


 目が異常に疲れている。


 まるでヒヨコのオスメス鑑定士になったような気分だ。


「はい、お疲れ様」


 彼女は俺が選んだビッチマウス(俺命名)を、数匹ずつ小型のケージに入れながら、まったく心のこもっていなさそうないたわりの言葉を口にする。


「何のためにこんなことするんだよ」


「妊娠したマウスは、なるべく静かな環境で飼育するのがいいの。


 ストレスが溜まらないし、赤ちゃんたちが喰われる可能性が少ないから」


「く、喰われる!?」


 衝撃的な台詞に、つい疲労もぶっとんでしまった。


「あら、ネズミの食殺を知らないの? 


 彼らはよく、自分の子供を食べるのよ」


「し、知らんかった……そんなの」


 俺は素直に答えた。


 いくら畜生といえども、仮にも哺乳類である以上は、そんな異常行動をしょっちゅうするとは考えたこともなかった。


「ストレスによるものか、栄養不良によるものかは、私にも分からないけど、本当のことよ。


 私も妊娠を見逃していて、ある朝気付いたら、出産した形跡はあるのに赤ちゃんは一匹もいなかったなんて経験がよくあるの。


 さすがに妊娠末期になって、お腹が膨らんでくると、触っても分かるけれど、偽妊娠という場合もあるし、確実ではない。


 だから早めに確実に分別した方がいいの。


 妊娠中のメスは気が立っていて、オスと殺し合いにまでなりかねないし、餌や水分もゆっくり取れたほうがいいし、実験によっては、妊娠中の胎児を使う場合もあるの」


「そ、そうか……」


 相槌を打つことしか出来なかった。


 まったく恐ろしい世界だ。


「ま、なるべく元気のいい子たちを沢山産んでもらうためにも、これは大事な仕事なの。


 こうやって実験室で交配させて繁殖させたマウスは、業者から買ってくるよりも、若干体力の劣る場合が多いけれど、研究費だっていっぱいあるわけじゃないしね。


 寄生虫もいろいろ集めなきゃいけないし」


 そういえばここは寄生虫の教室だったっけ。


 俺は眠い頭で聞いていた、去年受けた寄生虫学の講義を思い浮かべていた。



「寄生虫の中には幼虫時代と成虫時代で宿主が変わるタイプのものがいる。


 例えば肝臓ジストマで有名な肝吸虫は、最初マメタニシに卵が食べられるとその体内で孵化する。


 そしてしばらくするとマメタニシの身体から外に出て、鯉などの淡水魚の体内に潜り込み、成長する。


 この魚を犬や猫や人間が食べると、その体内で肝臓の胆管まで行き、そこでようやく成虫となる。


 ちなみにこの場合、マメタニシを第一中間宿主、淡水魚を第二中間宿主、そして犬や猫や人間を終宿主という。


 これらの宿主を移り変わるプロセスを一つでも飛ばすと成虫になれず、子孫を残せないのだ。


 だから魯山人がタニシを食べて肝臓ジストマで死んだっていうのは大嘘だ。


 理由は分かるな? 


 説明しろとテストに出すかもよ」


 暗闇の教室で、スクリーンに映ったスライドの光だけが、延々と話す蛇池教授の豊満な胸元を照らしている。


 教室内は気だるげな午後の空気に満ちていた。


 俺は睡魔に打ち勝つため、以前大学病院からくすねてきて隠し持っていた消毒用の酒精綿で目の下を拭いた。


 たちまちのうちに刺激臭と冷たさに包まれ、意識がはっきりしてきた。


 後藤先輩に教えて貰った眠気対策の必殺技だが、効果が5分ぐらいしか持続しないのが欠点だ。


「さて、次のスライドを映してくれ」


 教授が合図をすると、スライドがカシャッと音をたてて切り替わった。


 シャーレに入った白く長い紐状のものが映る。


「この寄生虫はマンソン裂頭条虫といい、宿主の脂肪を主食とするが、かなり変わった特徴を持っている。


 サイクルとしては、まず動物の糞便と共に排出された虫卵が孵化し、コラシジウムとなる。


 これが第一中間宿主であるケンミジンコに食べられ、そこでプロセルコイドとなる。


 プロセルコイドは宿主ごと第二中間宿主である蛙や蛇に食べられ、そこで更にプレロセルコイドへと発育する。


 そしてプレロセルコイドはやはり宿主ごと終宿主である犬や猫や狸や狐に食べられ、そこでようやく成虫となる。


 そして虫卵が再び糞便へと排出されるわけだ。


 食物連鎖を巧みに利用しているということだな。


 しかし本題はこれからだ。


 おい、次のスライドを頼む」


 カシャッという音と共にスクリーンに映ったのは二匹のマウスだ。


 大きいマウスと小さいマウスが並んでいる。


 教授のだみ声が眠気を誘う。


 もうだめだ、瞼が自然と下がってくる。


 なんだか面白そうな話ではあるが、最早身体が言うことをきかず、酒精綿を目に持って行くパワーすら出ない。


 いっそボールペンで身体を突き刺そうか……。


 俺の授業の記憶はそこまでしかない。


 その後呼び出され、こっぴどく教授に絞られたことはよく覚えているが。

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