表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/80

第二話 絶望の追試 その1

 階段教室を利用した広い試験会場は、空気が凍りついたかのように、誰一人微動だにせず、試験が始まって5分近く立つというのに、物音一つしなかった。


 これは極めて異常なことだろう。


 普通の試験ならば、開始した瞬間に鉛筆のカリカリという音が、会場中に木霊するものだ。


 でなければとても時間中に終わらない。


 だがこれは、普通の試験ではない。


 俺が生まれてから受け続けてきた試験の中でも最も過酷な難関、ウイルス学の追試なのだ。


 三月も半ばというのに、ここには春めいた雰囲気は欠片もなく、雲州大学医学部医学科三年生の、ウイルス学の追試受験者46名は、皆、恐怖と絶望に打ち震え、生きた心地もしなかった。


 目の前に広げられた問題用紙には、英単語がびっしり書かれており、一見何の試験だか分からないぐらいだ。


「問1、HBV、enveplope、host cell、soap 上記の単語を使って英文を完成させよ」


 はい、まったく分かりません。


 お手上げです。


 とりあえず用意してきた自分のノートをぱらぱらとめくるが、HBVがB型肝炎ウイルスの略だということぐらいしか書いてない。


 くそっ、授業中に居眠りなんかしてるんじゃなかった!

 

 ちなみにこのウイルス学の試験は、ノート持ち込みが許されるという、温情措置がある。


 しかし直筆のノートに限る、という規則があり、他人のノートは原則許されない。


 しかも試験監督が、怪しい奴のノートは一々チェックするという念の入れようなので、不正行為は出来ない。


 過去に、この掟を破って先輩のノートを持参したつわものがいたが、見つかった時点で即、留年決定となった。


 あまりにも書体が彼の字と違っていたし、何しろ内容が全て昨年度のもので、弁明の余地も無かった。


 しかも留年決定後は、その年度の他の試験を受けることすら許されないという徹底振りで、傷心したそのつわものならぬ大馬鹿者は、その後ウイルス学に受かることは無く、数年後に目出度く退学となった。


 それ以来、わざわざ危険を冒そうという者は誰もおらず、皆、閻魔大王の前の罪人の如く、恐怖におびえながら、神妙に答案用紙に向かうのだった。


 このウイルス学の教授、夜見教授は、天下に名高い東大理3出身であり、一学年につき約三十人もの大量留年者を出すことで有名であった。


 この雲州大学医学部には、同様に、学生を多く落とすことで有名な四人の名物教授が存在し、人は彼らを、「雲大四天王」と呼び、恐れ敬った。


 四天王は、ウイルス学、病理学、法医学、薬理学の四教科で、中でもウイルス学の難しさは頭一つ飛びぬけており、「最狂のウイルス、最強の病理、最凶の法医、最恐の薬理」という言い伝えまであった。


 こういうことは、是非とも赤本に書いておいて欲しかった、俺としては。


 俺は右隣に座った留年仲間の田原を盗み見た。


 答案は新雪のように白く、鳶色の瞳孔は開きっぱなしで、坊主頭は緊張のためか震え、彼の二つに割れたいわゆるケツ顎も、同じく小刻みに振動している。


 野球部に所属しピッチャーを勤め、我々留年チーム「ボトムズ」のリーダー格というのに、ここぞというときに思考停止してしまう、意外と情けない男だ。


 普段は情に厚く、豪快な行動で感心させられることもあるのだが。 


 前に座っている、同じく「ボトムズ」の一員、松本も地蔵と化して、先程からびくともしない。


 眼鏡の蔓に溜まったフケまで、地蔵に積もった雪のように張り付いたままだ。


 囲碁将棋部に所属する彼は、勉強以外のあらゆる負の知識に精通し、我々の知恵袋的存在だが、医学知識は欠片も興味が無いため、試験では何の役にも立たない。


 何故医学に興味が無いくせに医学部に入ったのかと聞いてみたら、「医学部に入るのに医学知識はまったく必要なかったから」という、一見分かったようでその実まったく理解不能な返答を返してきた。


 ちなみに「ボトムズ」と命名したのは彼である。


 俺はマクロス派だったのでガンダムもボトムズも見ていなかったが、何でも同名のアニメの中で、「底辺の人々」を指し示す差別用語らしく、「医学部底辺の我々にぴったりだ」とのこと。


 誰も言い返せず、というかどうでも良かったので、いつしか正式名称となった。


 後ろの席の内藤からは、早くもいびきが聞こえてくる。


 頭を茶髪に染めた、自由人でロケンローでアナーキーな彼は、何よりも束縛を嫌い、突拍子も無いことを思いつくのが好きだった。


 例えば彼主催の「1週間チキチキ麻雀大会」では、1週間連続麻雀をぶっ続けで行い、最後はチョンボの嵐で、起きているものが勝つというルールになっていた。


 更に、彼は全国に彼女がいることを自慢しており、何故か携帯電話を数個所有していた。


 一応弓道部に所属しているが、あまりまじめに参加している様子は無い。


 我々4人は入学年度はそれぞれ異なるも、度重なる留年の絆によって結ばれた同志であり、ライバルであり、つまりは腐れ縁だった。


 賽の河原で石を積むごときループする時間の中で出会い、「こいつらを差し置いて抜け出してやる」と足掻くも、泥沼のように同じ学年に留まり、無限に続く試験を繰り返すうち、いつしか一緒に遊んで暮らすようになった。


 まったく堕落しきった関係だったが、「医者になる」という望みだけは一応全員捨てておらず、授業や実習はなるべくサボらずこなしていた。


「答えが分かったら、こっそり紙を回すように」と全員で協定を結んでいたが、この調子では誰も使い物にならないだろう。


 しょせん最後に頼れるのは己の力だけなのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ