第十七話 桃色試験
「疲れた……」
アパートに帰るなり、俺は、即、ベッドに倒れ込んだ。
結局、あの後全てを終えるのに4時間もかかってしまった。
容器の古い水を実験室の隅にある洗面台に捨て、中をタワシで洗い、水を充填して、元に戻す。
その後、袋からボールでざっと掬った餌を、ざらざらと容器の側のスペースに流し込む。
たったそれだけの単純な作業なのだが、さすがに百回も繰り返すと、腕が上がらなくなった。
早百合と名乗った少女は、その間何をしているかと思えば、ケージの蓋を次々と開けては、中でひしめき合っている白いマウスたちを、次々と空のバケツに移した後、ケージにこびりついたマウスの糞を、へらのようなもので擦り取り、きれいに雑巾で拭いて、新聞紙を折り曲げて敷き詰めていた。
彼女は作業をてきぱきとこなしながら、「慣れてきたら、ケージの掃除も、あなたに頼むことにするわ」などと、恐ろしいことをのたまう。
「勘弁してくれよ、時間がいくらあっても足りねーぜ!」
「あら、今のあなたにとっては、時間ほど有り余っているものはないでしょう?」
「……」
図星を突かれた俺は、ふて腐れながら蛇口を捻った。
時計の針が五時を指し、ようやく作業が一段落しかけた時、急にドアが開き、幽霊のように生気の抜けたロン毛頭が滑り込んできた。
「おお、何とか終わりそうですね。
ご苦労、ご苦労、ふわ~っ」
明星の馬鹿野郎は、頭上にはねっぱなしの寝癖と、頬にインクの汚れを付けたまま、大きなあくびを盛大にかました。
まったく、口に手ぐらい当てろ。
「あなた、また研究室で寝ていたの?
しょうがないわね」
「誠にすいません、お嬢様。
最近雑務が多くて、あまり寝てないんですよ。
それより、この留年男はものになりそうですか?」
「そうね、まだ未知数のところはあるけれど、ぶつくさ文句を垂れながらも、ちゃんとやった点はえらいわ。
褒めてあげる」
「はぁ……そりゃどうも」
まったく嬉しくなかった俺は、何か言い返したかったが、疲れ過ぎていたので、最大級に適当に返事をした。
「じゃぁ、明日の朝は七時にここへ来てね。
電気は付けちゃ駄目よ」
「し、七時だって!?
そんなの早すぎるぞ!」
「どうせ明日の午前中は授業が無いんでしょ?
あなたのスケジュールは全て把握しているわ。
では、御機嫌よう。
明星、頼むわよ。
今は耳鳴りがしないけど、また悪くなったらいけないしね」
「はっ、お嬢様」
俺に有無を言わせず会話を打ち切ると、なんと早百合は明星にお姫様抱っこされ、部屋を出て行った。
「まったく、何なんだ、あのこわっぱは!」
さすがに腹を立てた俺は、大袋に手を突っ込むと、中のペレットを握り締め、ケージ目掛けて叩き付けた。
「プシューッ!」
カンカンカンという金属音と共に、まるでヤカンが蒸気を吹き上げるような異音がした。
俺が慌ててケージを覗くと、マウスが全身の毛を逆立て、こちらを見つめていた。
「マウスって、こんな声を出して怒るんだ……」
てっきりネズミとはチューチューと鳴くものだと思っていた俺は、意外な新事実に、少しだけ好奇心を刺激された。
ここ数年、上から強制的に教えられる、意味不明な言語の専門用語ばかりで、知識欲というものが干からびかけていたのだ。
「ま、どうせ家にいたって、昼まで天井を眺めて呻いているだけだしな……」
最後のケージにペレットをてんこ盛りにして載せた後、俺は小声で呟きながら、実験室の電気を消した。
その夜も、また試験の夢を見た。
しかし今日はだいぶ勝手が違う。
試験会場の俺の回りは、どれもとびっきりのボインで美女のお姉ちゃんたちで、男は何故か俺一人なのだ。
ありえん。
さすがに夢の中でもおかしいと思った俺は、知り合いのボトムズたちを求めて、きょろきょろと周囲を見回した。
「あーっ、先輩、また女の子見てましたねーっ!」
非常に聞き覚えのある易怒性を含んだ大声に、俺は心臓が口から飛び出すかと思った。
恐る恐る声のした方向を見ると、想像通り、雪嵐聡子が、般若のような形相で、ねっとりとした怒りの視線を送っていた。
「どうせあたしが子供っぽくって、オタンコナスで、ペチャパイだから、巨乳の人たちをガン見してたんでしょーっ!」
「ち、違うんだ、いや、違います、聡子さん。これはですね、そのね、友達を探してですね」
しどろもどろになった俺は、今にも死にそうだった。
このままだと視線の魔力で石化するかもしれん。
「嘘付かないでください!
そんなハレンチなことしてるじゃないですかーっ!」
「えっ? って、うわっ」
気付くと、回りの女性たちは、何故か全員一糸まとわぬ姿になり、俺の方にわらわらと向かってくる。
こりゃなんてステーシーですか?
しかも女体たちは次第に形を変え、乳房が数十個に分裂するだの、乳首が触手のように伸びるだの、体中の穴という穴から白色の液体を噴出しながら溶けていくだの、人外の魔物と化していった。
「先輩の馬鹿、アホ、留年野郎、人間の屑―っ!」
聡子の絶叫が轟く桃色魔界の光景の中、俺は、何で別れた彼女にここまで言われなきゃならないんだろうかと自問自答していた。




