第十六話 妖精
敢えてもう一度言おう、俺は、大学構内の動物実験室の中で、少女と出会った。
妖精、という言葉がまず頭に浮かぶ。
それほど彼女は小柄で、透き通るように白かった。
年の頃は10歳程度だろうか、身長はせいぜい130センチ程しかない。
純白のゆったりとしたワンピースを身に纏い、そこから伸びるすらっとした手足が、部屋の隅の暗がりの中で、そこだけ光を発しているかのように見えた。
肩口で切りそろえられた亜麻色の髪は軽く波打ち、暗緑色の丸い瞳は、幼さと言うよりも、太古の女神の神秘を感じさせる。
なんとも不思議な少女だった。
彼女は背が低く小柄なため、ドアを開けたときちょうど隠れる形になって、俺の視界に入らなかったのだ。
「あなたが明星が言っていた、例の留年生ね」
彼女の声は、その容姿から想像するよりもずいぶん低音で、落ち着いていた。
俺は焦った。
「な、なんでこんなところに子供が居るんだよ!?
迷子なら家に帰れよ!」
「あら、失礼ね。何年も留年して、未だに未練たらしく学内をうろついているやからに言われたくないわ」
「うっ」
何だか心の一番柔らかい部分をぶん殴られたような衝撃を受ける。
俺は心臓を抑えたが、なんとか耐えた。
「とにかく誰なんだよ、お前は!」
「静かにして、この子たちが目を覚ますわ」
急に彼女の口調が厳しさを増し、ケージの一つを指差す。
中で、もそもそと何かが動く物音がした。
隙間から覗くと、洗い立てのシーツのように真っ白なマウスたちが、何十匹も顔を寄せ合い、あたかも扇のようになっていた。
猿が冬場に団子状に集まって暖を取るというのはニュースで知っていたが、ネズミがこのような格好で寝るとは、まったく知らなかった。
「マウスは夜行性なので、この時間帯は眠らせないといけないのよ。
静かにして」
「は、はい……」
圧倒的な言葉の圧力を感じ、俺は思わず彼女に従ってしまう。
とても少女とは思えない威圧感だ。
「紹介が遅れたわね、私の名前は早百合。
蛇池早百合よ。よろしく」
「じゃ、蛇池!?
じゃぁ、もしかして……」
「ええ、蛇池教授は私の母よ。
そういうわけで、私はここの学生でも職員でもないけれど、この動物実験室の管理を任されているの。
あなたにもたっぷりこの子たちについて教えてあげる」
俺はダッチワイフのように丸い口を開けたまま、彼女の淡々とした説明を拝聴していた。
蛇池教授の娘だと?
確か、彼女は現在独身だが……でも、バツイチの子持ちだとかいう噂もあったっけ……。
「じゃぁ、さっそく飲み水の交換と餌の追加をお願いするわね。
私のやり方をよく見て、同じようにしてちょうだい」
彼女は奥の棚からビニールの使い捨て手袋を二枚抜き取ると、俺に投げてよこした。
「って、これ、Sサイズじゃんか!
俺の手にはまらないよ!」
「あら、ごめんなさい。でも、他のサイズは品切れのようね。
しょうがない、今日は素手でいいわ。あなた面の皮が厚そうだし、皮膚も硬いでしょう」
さらっと酷いことを言うと、彼女はケージの金網状になっている蓋の上に差し込まれている、プラスチック製の哺乳瓶のような物体を、1本抜き取った。
「これが水入れよ。
この中身を1日最低1回取り替えるの。
そして蓋の上の窪みに、配合飼料を入れるの」
「はぁ……」
俺はあいまいに返事をしつつ、辺りを眺め渡した。
このケージ全ての水入れを換え、餌を補充するのか?
音を立てて一気にやる気が失せていく。
だって、どう見ても軽く百個以上ケージがあるんですけど……。
「俺、ちょっと急に親戚の不幸を思い出しましたんで、これで……」
「帰るつもりですか。
それなら残念ですが、私から母に報告せねばなりませんね」
「ちょ、ちょっと待った!」
そんなことをされたら、俺自身が不幸になってしまう。
「別に帰るなんて言ってねーよ! ちゃんとやりますって!」
「分かっていただけましたか、では、さっさと片付けましょう」
彼女はその時初めてにっこり微笑んだ。
まさに、百合の花が開いたような笑顔だった。