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第十四話 蛇池棗の憂い

「新学期が始まったというのに、部活にも全然出てきていないな。去年の情熱はどうしたんだ?」


 蛇池教授は、肉感的な唇の片側を持ち上げ、薄笑いを浮かべた。


 俺は傷口から手を突っ込まれて心臓を鷲掴みにされた気分になった。


 昨年は、雪嵐に会いたくもあって、いつになく俺は張り切って毎日走り込んで、エロゲーすらあまりしていなかったのだ。


「今年は半月板損傷とアキレス腱断裂と高プロラクチン血症の悪化で、運動を控えるよう医者に言われて……」


「最後のはさすがに関係ないだろ! 


 まったく、死んだ魚のような目をしやがって! 


 おばちゃーん、私にもA定食一つーっ!」


 俺の会話をさえぎって、教授が突っ込みを浴びせつつ、何故か俺と同じメニューを注文する。


 教授ならもっといいもの頼めよ、誰も頼まないアワビカレー(5千円)とか。


「しかし、田原の件は残念だったな。


 私もああなるのを恐れて、お前に行かせたんだが、正直、悪いことをした」


 傲岸不遜な教授が、俺の顔を真摯な目付きで覗き込むと、突如謝り出した。


 俺は、炎の渦がフラッシュバックしそうになり、慌てて首を振ると、「いえ、あれは教授のせいじゃないですよ」と何とかフォローした。


 確かにあれは、どうしようもないことだったし、誰かに阻止できたとも思えない。


「そうか、私はてっきりお前がサバイバーになって苦しんでいるんじゃないかと思った。


 何しろ葬式であんなことまでしてくれたしな。


 ま、マーダー・ライセンス・プロフェッサーのあいつにはいい薬になったかもしれんが」


 教授は深刻な表情を一転させると、再びほくそ笑むような口元を形作る。


「あ、あの時の事は、よく覚えていないんです。つい、カッとなって……」


 俺は段々しどろもどろと化して来た。


 実に気まずい。


 早く飯は出来ないのかとカウンターをチラ見するが、大量の学生が押し寄せつつあり、調理場の様子はここからでは見えなかった。


「いや、私は別にお前を責めているわけじゃない。


 聞くところによると、あの男は死者を愚弄するような発言をしていたらしいしな。


 しかし、暴力沙汰はまずいので、以後絶対やめろよ。


 いいか、二十歳を過ぎたら、手とチ○コは出したら負けだぞ」


 彼女はある意味深い言葉をさらっと述べた。


 その時ようやくおばちゃんが、「A定食お待ちの方2名様~!」と呼んだので、俺たちは会話を一時中断し、ハンバーグとアジのフライが乗っかったプレートを取りに向かった。


「相変わらず糞まずい飯だな。


 こんなのばっか喰ってるから、学生どもがどんどん馬鹿になるんじゃねぇのか?」


 蛇池教授は名前通りの真っ赤な細めの舌をちろりと覗かせながら、あっという間にフライを平らげつつ、暴言を吐いた。


「おばちゃんに聞こえますよ!」


「なーに、あんなに忙しけりゃ、それどころじゃねーよ。


 ま、カロリー計算してあるんだろうけど、もう少し企業努力をして欲しいな、いくら国立大学とはいえよ」


 教授は文句の割にはハンバーグまで一呑みし、白い喉を蠢かした。


 俺はあれだけあった食欲が、彼女の毒気に当てられ急速にしぼんで来るのを感じ、とりあえず付け合せのキャベツに箸を延ばした。


 いわゆるベジファーストってやつだ。


「実はここだけの話だがな、夜見のやつの学生いじめは、教授会でも問題視されているんだ。


 今回のような悲劇は、過去何度も繰り返されているし、そもそもウイルス学だけ勉強して、他の科目を疎かにする学生が頻出しているため、私を含め、教授陣の大半は困り果てている。


 しかしあやつは、『雲州大学の伝統を守り、学生のレベルを維持するためには当然の措置であり、文科省並びに厚労省が、医師の育成のため、学生教育を厳しくするよう指導しており、試験の難易度を落とすわけにはいかない』と、常に教授会で公言している」


「そ、そうだったんですか」


 確かに奴の言いそうな台詞だ、と俺はキャベツを牛の如く咀嚼しながら相槌を打った。


 しかし、教授にも様々な意見がある事は、知らなかった。


 俺にとっては、どいつもこいつも敵に過ぎなかったから。


「中には諌めようとする者もいることはいるんだが、何しろ日本最高学府出身の、プライドの塊のような男が人の話に耳を傾けるわけもなく、教授陣の中でも年長者であるため、結局誰も説得できず、現状打破できないでいる。


 教授会ってのもいろいろと大変なのよ」


「はぁ」


 俺は少し感心してしまった。


 教授なんて俺みたいな地を這う虫けらからしたら、天上人もいいとこだが、彼らは彼らで、結構悩んでいたのだ。


 立場を変えてみないと分からないこともあるものだ。


「別に、教授ってぇのは、いつまでもお前らに学生を続けて欲しいわけじゃなく、とっとと卒業して医者になって欲しいと願っているんだよ、普通はな。


 国立大学ってところは、長くいるほど税金がその分使われるわけだし、山陰地方は医者が全然足りなくて、困っているんだ。


 この地域には離島が幾つかあるけれど、結構大きな島でも産婦人科医が皆引き上げて、妊婦は本土まで来なければ出産できないんだぞ。


 留年生が多くても、誰も何一ついいことが無い。


 いっつもそう教授会で言ってるんだが、しょせんあいつら女だと思って馬鹿にしやがって、どいつもこいつも殺してやる殺してやる殺してやる殺してやるぅぅぅぅぅぅぅぅっっっ!!!」


 いつの間にやら自分の発言でヒートアップしたのか、教授は塗り箸を両手で真っ二つにへし折り、目玉を三角にして、俺じゃない遠いどこかを睨み付けていた。


「お、落ち着いてくださいよ、教授! 


 よっく分かりましたから!」


 慌てて俺が呼びかけると、皿のように拡大していた教授の瞳はたちどころに縮瞳し、正気を取り戻したようで、「おっと、話に夢中になりすぎてしまった、すまん、すまん」と、決まり悪そうに笑った。


「じゃぁ、俺は次の授業がありますんで」


 大法螺を吹きつつ、食事も半ばに俺は席を立ちかけた。


 なんだか凄く疲れたし、そろそろ周囲も学生で満ちてきた。


 万が一雪嵐の姿でも見ようものなら、俺は耐えられん。


 キャベツしか喰ってないけど、もう胸がいっぱいです。


「見え透いた嘘をつくな、お前午後は何も無いくせに。


 ま、もう少しだけ付き合え」


 しかしそんな手が通じる相手でもなく、すぐに俺は連れ戻された。


 もう、何なのこの人!


「お前、それだけ暇なら、うちの研究室に手伝いに来ないか? 


 どうせ家にいたって勉強なんかしないだろうし、机を貸してやるから、手伝いの合間に勉強すればいい。


 また来年の今、同じ目に会いたくないだろう?」


「うっ」


 痛いところを突かれて、俺は口ごもった。


 研究の手伝いなんてやったこともなかったが、確かにこのままいけば、勉強せず、また留年するのは目に見えている。


 それに、彼女を味方につければ、何かウイルス学の突破口が開けるかもしれない。


 さっきの教授会の噂話のような情報も手に入るだろうし、近くにいて損はないだろう。


「……分かりました」


「よし、きまりだな。それじゃ、まず、早くそれ食べ終われ」


 そう言うなり、彼女は俺からジャンプを奪うと、勝手に読み始めた。

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