第十三話 桜の木の下には留年生が埋まっている
四月。
桜の花が、例年と同じく校門前に狂ったように咲き誇る。
それを眺めていた俺は、何故だか無性に死にたくなった。
「桜の木の下には死体が埋まっている」という名文句があるが、俺はようやくその意味が分かった。
人の幸福とは、他者の不幸の上に成り立っているのだ。
結局春休みの最後は、食事もろくに取らず、身動きすらしなかった。
今更ながら、自分のしでかしたことの重大さに気付き、俺は押し潰されかけていた。
今後絶対ウイルス学に受かることだけはありえない。
ただでさえ受かるのが困難だというのに、あんなことまでやらかしてしまったのだ。
警察に連れて行かれなかっただけましなのかもしれないが、もうどうやっても進級できないだろう。
休学も考えてみたが、それで事態が挽回するとも思えず、というかこれ以上金銭面で親に迷惑をかけるわけにもいかず、何一ついい考えが思い浮かばず、ベッドに転がった俺は、どうすることも出来なかった。
眼を閉じればなんとか眠ることが出来たが、悪夢にうなされ、飛び起きることもしばしばだった。
夢の中で、俺はひたすら机に座り、答案用紙を見つめているのだが、そこには解読不能な文字が、無限に列を成しており、読むことすらままならない。
困り果てた俺が右隣を盗み見ると、そこにいると思った田原は、実は生首だけの姿で、戦国時代の首実検のように、机の上にちょこんと乗っかっていた。
恐怖の悲鳴を上げた俺が、助けを求めて回りを見渡すと、試験を受けていたと思われる学生たちは、いつの間にか全員生首だけになっており、田原と同じ格好で整然と並んでいた。
教壇の上には、黒ヤギの頭と化した夜見教授が、答案用紙をバリバリと食べ、何故か両胸にある乳房からは母乳を噴出し、生首たちに降り注いでいる。
やがて教室中は、俺の右隣を中心として、母乳から引火した紅蓮の炎に包まれ、試験会場全体に、いつ果てるとも知れぬ読経の音が、厳かに響き渡っていた。
夢の内容は毎回様々だが、どれもこれも凄まじい恐怖感と絶望感を伴い、安眠を奪われた俺は、毎日死ぬことだけを考えていた。
だがそのたびに、蛇池教授の罵声を思い出しては踏みとどまった。
世の中楽な死に方なんてないし、目の前で親友が炭化する様を見せ付けられては、とても実行する勇気が湧いて来ない。ちなみに田原の自殺は地方新聞の三面記事に小さく載っただけだった。
あそこまでしないと死ねないんだったら、まだ生きていた方がましだ。
リストカットや過量服薬ぐらいでは死ねないのは、芸能人のニュースを見ただけでも分かるし、飛び降りだって、建物の脇の木や、車の上に落ちて、大怪我を負いながらも助かることが多い。
確実に死にたければ、高層ビルの屋上から、マリオよろしく大ジャンプして飛び降りればいいのだろうが、そこまでの度胸はありません。
首吊りだって、紐が切れたり、うまくいかなくて結構失敗すると聞くし、近所を走る妖怪のキャラ列車に引かれて死ぬのは、それこそ死んでも御免こうむりたい。
うだうだ考えているうちに、絶望の新学期が訪れた。既にある程度単位を取得していた俺は、しばらくは大学に行かずにすんだが、取り残した科目で、出席を取るものは出ないわけにも行かない。
そしてウイルス学はもちろん出席を毎回取る。
ウイルス学の初日、俺は嫌々ながら、最早一体化しつつあったベッドから起き上がると、数時間掛けて着替えをして、数日振りにドアの外へ出た。
立ちくらみがして、しばらくはうまく歩けなかった。
愛機「エロス丸3号機」は、春の黄砂で錆が浮き、チェーンが今にも外れそうで、このままだと4号機に更新するのもそう遠くなさそうだった。
久々の講義室は、当然のことながら、見知らぬ顔が圧倒的に占めていた。
特に座席指定は無いので、俺はわざと一番前の席に座った。
後ろの席に仲良く隣り合っているであろう、忌まわしい雪嵐とその彼氏のカップルを、少しでも視界に入れたくなかったのだ。
そして宿敵の白髪頭が満を持して登場したとき、俺は堂々と週刊少年ジャンプを広げていた。
こうなったらもう徹底抗戦だ。
教授は俺の姿を見るなり、唾棄すべき汚物でも踏んづけたかのような表情を浮かべると、二度とこちらの方は見もせず、老眼鏡を掛けると出席を取り出した。
ちなみに彼は全学生の顔写真を出席簿に貼り付けているので、代返は不可能に近い。
しかも授業中、ランダムに質問をしてくる周到さだ。
俺は、ワンピースに登場するナミのおっぱいマウスパッド読者プレゼントのページを広げたまま、「錦織!」という怒りを滲ませた声に、「うぃ」と生返事で答えた。
同じ講義を二回以上人が聞くと、どうなるだろうか。
まず、途中で耐え難くなり、嫌な記憶がフラッシュバックし、死にたくなり、最後に諦めて、何も考えなくなる。
何しろギャグのタイミングも何もかも同じだし(ウイルス学では幸い無いが)、分からない箇所はやはり分からないので、苦痛でしかないのだ。
俺は授業中、三回溜息をつき、その都度睨まれた。
だが、それくらいで怖気付くような魂は、地獄の春休みの間に消滅していた。
板書を取る気も失せていた。
俺はジャンプを10回読み直した。
正午のベルが鳴った途端、俺は足元だけを見て、教室を稲妻の速さで飛び出すと、ダッシュで学生食堂へと向かった。
寝たきりの時はまだいいが、動き出したためか猛烈に腹の虫が暴れだし、とても食の誘惑に勝てなかった。
一刻も早く席を奪わないと出遅れてしまう。
何も考えずA定食を頼んだ俺が、11回目の週刊少年ジャンプを読みながら、テーブル席で時間を潰していると、「おや、生きていたのか」というだみ声が、頭上から響いた。
「ん?」
雑誌から顔を上げた俺の視界に、白衣に包まれた二つの肉鞠が飛び込んできた。
お馴染みの銀のペンダントが、その間からちょこんと頭を覗かせている。
「お……おっぱいマウスパッド教授!?」
「何をわけの分からんことを言っているんだ。だが、相変わらずだな」
妖艶な笑みを浮かべた蛇池教授は、俺の前の席にどっかと腰を下ろした。




