第十二話 侮辱
その日は朝からどんよりと雲が垂れ込めていた。
田原の葬儀の斎場となったのは、大学から十キロほど離れた街外れの、小さな古い寺だった。
彼の実家が檀家だったらしい。
若い生命の死を惜しむかのように、境内に椿の花が赤々と咲き誇っていた。
俺たちボトムズは、教員や同級生達と共に参列していた。
俺は着慣れぬ黒いスーツに身を包み、呆然としていた。
正直、まだ心が現実を受け入れられていなかった。
祭壇には田原の笑顔の遺影が飾られ、黄色や白の花で埋め尽くされていた。
写真を撮ると必ずぶれて写るのをいつも気にしていたな、と俺は在りし日を偲んだ。
永遠に続くかに思われた僧侶の読経がついに終わり、焼香も全員終了すると、参列者達は慣れない正座で痺れた足を引きずって立ち上がり、棺の頭部側に集まった。
彼の母親と思われる人物が、棺の顔の部分にある窓をそっと開く。
色鮮やかな花に囲まれ眠ったような田原の死に顔が目に入った。
あの黒焦げを、正直よくここまで復元したものだ。
まるでプラモデルのような質感で、死に化粧のせいか、いつもより色白に見える。
そこには苦痛の表情はなく、ただ安らかな笑顔があった。
誰かのすすり泣く声が聞こえた。
寺の外は、今にも雨が落ちてきそうな程黒く曇っていた。
霊柩車を見送りながら、そういえばウイルス学の教授の顔を、さっき見かけたような気がしたのを俺は思い出していた。
後ろにちらと視線を送ると、見間違いではなく、確かにそこに、夜見教授の白髪頭が、風になびいている姿があった。
厳しい鷲鼻と眉間に刻まれた深い皺、そして猛禽類のごとき鋭い眼差しが、彼を近寄りがたい孤高の存在に印象付けている。
50代、独身で、大学の官舎に一人住まいをしていると聞く。
何故天下の鉄門出身者が、こんな辺境の大学に燻っているのか、様々な噂、憶測はあるが、プライベートは硬く閉ざされ、真実は闇の中だ。
その辺りに、「鬼教授」、「学生殺し」、「マーダー・ライセンス・プロフェッサー」などと称され、学生に憎しみすら感じているような彼の心理の暗黒面が隠されていそうだが。
彼は隣にいる、法医学の井岡教授と何やら小声で話していた。
俺は、条件反射で緊張するも、聞くとはなしに、彼らの会話を聞いていた。
「いや~、来た時は真っ黒くろすけで、いったい何者だかも分からんかったですが、開けてみたら結構きれいでしてな~」
丸い赤ら顔を緩ませ、井岡教授は酔っ払ってでもいるかのように、不謹慎な話をしている、というか明らかに酒臭い。
常に陽気でにこにこ恵比須顔だが、酒が切れた事がないという噂は、多分本当なんだろう。
とにかく彼が、田原の死体を解剖したのは間違いない。
この県で司法解剖を行う医師は彼しかおらず、よって県内で発見された不審な死体は、皆、彼の元で捌かれるから。何でも某大震災の時は、現場に呼ばれ、一人で千体以上も検屍を行ったという伝説まである。
この教授も雲大四天王の一人で、結構な人数を叩き落すが、さすがにウイルス学ほどではない。
しかし試験のマニアックさは半端ではなく、特に死体検案書を書かせる問題は、実は死亡者が芸能人で、本名が欄外に小さく書いてあったりとか、数日前に日本人の夫と離婚していた中国人女性だとか、まず死者の名前欄からして書くのが大変で、あらゆる引っ掛けをかいくぐらないと解けない難問であり、学生達に嫌がられていた。
確か法医学を何回も落とした女学生が、昨年4月に休学届けを出して隣県にある実家に帰った後、失踪したという話を聞いたことがあるが、皆、「あいつに解剖されたくなかったから、他県でひっそり自殺でもしたんだろう」と噂しあっていた。
「ま、第一発見者の友達とやらの言う通り、自殺に間違いないでしょう。おそらく酒かなんかを飲んだ後で、車内にガソリンを撒き、ライターで火をつけたんですわ。
結構珍しいやり方ですが、たま~にいますわ、これ」
俺が警察で証言したとおりの内容を、酒臭い息が繰り返している。
俺は、なんでこの小男が常に出来上がっているのか、今日初めて分かった気がした。
あんな悲惨な物体ばかり扱うってことは、酒でも飲まなきゃやってられないからだ。
「彼は、私が顧問である、野球部に所属していましたが、あまり根性の無い男でしたな」
夜見教授の感情のこもらない声が、突如死者を愚弄し出す。
俺は腹の中にふつふつとこみ上げて来る熱いものを感じたが、なんとか理性の力で抑え込みつつ、更に耳をそばだてた。
「彼は留年を繰り返すうちに、あまり部活にも出なくなり、留年仲間同士でつるんでいたようでしたが、そんなことをしていても無駄でしょうに……そもそも、彼よりももっと辛い思いをしている人間は沢山いる。
それに比べればこの程度の」
もう限界だった。
俺はその場が神聖な場である事も、相手が教授である事も忘れ、手負いの獣のごとく、雄叫びを上げながら、夜見の首根っこに掴み掛かっていった。
「ぐふっ!
き、貴様、何を……」
「黙れ、この糞外道野郎が!
人を殺しておいて、よくもぬけぬけと!」
「に、錦織氏、やめて下さい!」
「どうしたんだよ、いきなり!」
俺の後ろから、松本と内藤が必死に止めようとして腰に手を回してきたが、それぐらいでは俺の怒りは収まらない。
この人間の皮を被った悪魔を、いや、人間以下の畜生を、この手で絞め殺してやらねば、田原が浮かばれない。
だが、他の出席者も押さえにかかると多勢に無勢、俺はとうとう夜見から引き剥がされ、そのまま寺の座敷に運ばれた。
「……覚えていろよ」
遥か遠くから、夜見のどす黒い囁きが聞こえてきたような気がしたが、その後のことはよく覚えていない。
気がついたら、俺は自室で泣きながら、松本や内藤と、母乳モノのAVを鑑賞していた。
俺はかなり酔っ払って、田原への供養の母乳だとか叫びながら号泣し、松本は、よくぞあの悪魔に一矢報いてくれたが、あそこで殺すのはさすがにまずいと思って泣く泣く止めたのだと言って泣いており、内藤は、これでお前も退学だなぁ、今までありがとう友よとわめきながらやっぱり泣いており、画面の中では女優さんが泣きながら母乳を搾乳して、男優の頭から滝のように振りかけており、それを見た松本が、野坂昭義の「凧になったお母さん」の話は、母乳がいっぱい出てくる点で「火垂るの墓」よりも上だと言ってはまた泣き、内藤が、牛の母乳は一直線に射出されるのに、何故人間の母乳は四方八方に噴出するんだと言っては泣き、俺は、お前らいいかげんにしろと言って泣き、結局皆、俺のコタツに入ったまま眠った。




