第十一話 中野恵の不運 その1
昼なお暗い杉の樹林を、一迅の湿った夏風が吹きわたっていった。
梢を揺らし、針葉をざわめかせ、木々の間を駆け巡る風は、深山の侵入者を拒むかのように、ゴウゴウと悲鳴を上げ、虚空に消えていく。
天を摩する古代杉の数抱えもある巨大な幹に、パラパラと古い杉葉が霰のように降り注ぐ。
「雨が降らなければいいけど……」
春物の白いコートを纏った若い女性が、雲が覆いつつある遥か上空を見上げながら、一人呟いた。
二十代前半ぐらいだろうか、やや頬がこけているが鼻筋が通り、形のよい眉の下には大きな瞳が輝いていた。
美女といっても差支えないだろう。
暑いのか、瑞々しさが迸りそうな柔肌は、びっしりと玉の汗をかいている。
彼女はずっと死に場所を求めていた。
そのため単独で、こんな人里離れた山奥にまで踏み入ったのだった。
地図によると、もう少し行けば沢に出るはずだ。
泳げない自分ならばそこで確実に死ぬことができるだろう。
こうして立ち止まると、今までの辛かった出来事が次々と脳裏をよぎる。
たとえ死体となったとしても、自分を何年も落とし続けたあの赤ダルマに、この身を蹂躙されることだけは耐え難かった。そのためわざわざ実家まで帰ってきたのだ。
だがまだ油断はできない。
司法の力は時に県境を越えることがあると聞く。
特に身元不明の遺体だと、複数の県に跨って捜査の手が及ぶかもしれない。
だから自分の死体は絶対に見つかってはならない。
彼女は疲れ切った身体に活を入れると、蛇のようにのたうつ木の根や、ゴツゴツと突き出た岩に足を取られることもなく、すたすたと山道を進んで行く。
目的地まであとわずかだ、そう思えばこれぐらいの困難なぞ、何でもなかった。
彼女の名前は中野恵。
雲州大学医学部医学科四年生で、多留生だった。
急に視界が開け、眩しさに思わず彼女は瞬いた。
永遠に続くかに見えた杉の木立は目の前で途切れ、灌木や下草がまばらに生える傾斜地に変わっている。
どこからか水の流れるようなざわめきが微かに聞こえてくる。
目的地の沢が近付いている証拠だ。
彼女はごくりと唾を飲み込むと、足に力を入れる。
後少しでこのつらい世界ともさよならできる。
振り返れば何一つ楽しいことのない人生だった。
高校まではひたすら受験勉強に時間を費やし、やっとの思いで入った大学で出来た彼氏ともすぐに別れ、留年のため何年もやりたくもない人体解剖をやらされ、脂と肉片とホルマリンに塗れた。
ようやく進級したかと思ったら、今度はあの赤ダルマの法医学でも落とされ続け、自分の無力さ、無価値さを思い知らされた。
年の離れた同級生の中で孤立し、友達も話し相手もおらず、仲の良かった人は皆離れていった。
絶え間ない悩みと将来の不安で心は押し潰されそうになり、夜眠ることができなくなった。
元から少なかった食事量は更に減り、一日一食摂るのがやっとだった。
何もする気が起きず、日中も臥床して暮らすことが多くなった。
家族は腫れ物でも触るように自分に接し、十分頑張ったし、もう別の道を歩んではどうかとまで言ってくる。
今更医者以外になりたいものなど無いし、それが叶わないならここで人生が終わる方がまだマシだった。
自分が死んでも誰も悲しむことはないだろう。
同郷の後輩だけは未だに自分を慕ってくれていたが、それもやがて忘れるはずだ。
ここまで来たらもう後戻りはできないし、少しぐらい苦しくても、すぐ楽になれるだろう。
彼女は意を決すると、曇天模様の空の下、斜面に足を踏み入れた。
足元にはノアザミの紫の花が風に揺れ、初夏の山肌を彩っている。
自死には相応しくない光景だが、野の花に見送られるのも悪くはないかも、と彼女はちょっとセンチになった。
その時、背後に何かの気配を感じ、彼女は思わず振り返った。
しかし今しがた抜け出た杉林が黒々と広がるのみで、生物の姿は特に見当たらない。
死に場所が近いため、緊張して神経過敏になりすぎているだけかもしれないと考え直し、彼女は再び前を向いた。
だが、その刹那、彼女は首筋に凄まじい衝撃を受け、毬のように斜面を転がり落ちた。




