第一話 闇の試験会場 その1
その建物の渡り廊下は非常に長く、無限に続いているかと思われた。
廊下の両側は白い壁になっており、外の景色がまったく見えない。
そして天井はガラス張りになっており、その上に水が満たされ、大小様々な魚が泳いでいた。
色鮮やかな熱帯魚の群れや、銀色に光る鰯の大群、そして時折大きな影を投げかけるマンタやジンベイザメ。
ありとあらゆる種類の魚が音もなく流れ去っていった。
「すごいもんでしょう。
ここがこの施設の売りでしてね。
江戸時代の豪商の何某が、自分の座敷の天井をガラス張りの水槽にして、金魚を泳がせたそうですがね」
一緒に歩いていた、年老いた長い髭の職員が自慢げに説明しだした。
足が不自由なのか、右手に青い杖を持ち、コツコツと床を突きつつゆっくりと歩を進める。
顔の長い赤毛の男が、その後ろに影のように付き従っている。
廊下は蒼い光に満たされ、揺らめいていた。
外は夜なのだろうか、その光は月光にも似て、冴え冴えと冷たく感じられた。
まるで海底の砂の上を歩いているような浮遊感。
「そうそう、試験時間は無制限となっております。
答案が完成しなければ、会場から出ることは出来ません」
「え、それはあまりにも酷すぎませんか?
完成しなければ、どうすれば……?
ここで暮らせと?」
「なあに、あなたが心配する必要はまったくありませんよ。
必要なものは全てこちらで用意させていただきます」
職員は穏やかに微笑んだ。
いつの間にか廊下は扉の前で途絶えていた。
扉の上にあるひさしには裸の男がしゃがんで頬杖をつく格好の小さなブロンズ像が置かれている。
どこかで見たことがあった気もするがよく思い出せない。
職員は鍵を差込み扉を開く。
中は薄暗く、円筒の大きな吹き抜けになっており、螺旋階段が遥か下方へと続いていた。
よく見ると、吹き抜けを挟んで今出てきた扉とはちょうど反対側の壁にも扉があり、そこからも同様に螺旋階段が下方へと続いていた。
ところどころに常夜灯がついているらしく、鬼火の列のような明かりが階段に沿って延々と並んでいた。
「この二重螺旋階段も当施設の特徴の一つでしてね、バチカン宮殿の有名な階段を模したそうです」
職員はゆっくり階段を降り出したので、俺も後を追った。
地の底まで続きそうな二つの渦巻きが、立ち眩みを感じさせる。
ようやく階段の一番下にある扉に着いたときは、俺は立っているのがやっとな程だった。
「疲れましたか? あと少しですよ」
職員が労わりの言葉をかけながら、階段際の扉を開ける。
そこは先程とは違って普通の白い壁の廊下が左右に伸びており、片側の壁にいくつものドアが並んでいた。
「ここがあなたの試験会場です」
そのうちのドアの一つを開け、職員と、男性は俺を中へ招き入れた。
室内は闇夜のように真っ暗で、俺は思わず転びそうになった。
「真っ直ぐ歩いてください。
前方に明かりがあるでしょう。
そこがあなたの席です」
すぐ前から響く、職員ののんびりした声をたよりに、俺は文字通り手探りで前進した。
絨毯でも敷いてあるのか、やわらかい踏み心地で、杖の反響音もしない。
こんな試験会場は初めてだ。
やがて彼の言うとおり、ぼんやりとオレンジ色の暖かな光が揺れているのが見えた。
その光は、小さな一人がけのスチール机の上に置かれた、電気スタンドから漏れ出していた。
シェードのついた、ややレトロ風味の電気スタンドは、試験会場にまるでそぐわなかったが、昔の知り合いに出会ったかのような、安堵感を与えてくれた。
机の上には、よく削られたHBの鉛筆と、白いA4サイズの用紙が一枚置かれているだけだった。
俺は半ば自動的に、机の前に置かれたパイプ椅子に腰掛ける。
いつの間にか職員たちの雰囲気は消滅していた。
俺は、暗黒の空間にただ一人、取り残された。
「で、これからどうしろってんだ?」
思わず考えを口に出してしまうが、その声は周囲に吸い取られるかのように消えてしまい、答えはどこからも返ってこない。
用紙に目を落とすと、まごうかたなき完全なる白紙であり、問題文はおろか、名前を書く欄すら無かった。
俺にはなんとなくわかっている。
こんな狂った試験が、現実に存在するわけが無い。
これは夢に決まっている。
俺は、大学時代から、試験の夢を毎晩毎晩何回も何回も見続けてきた。
そのうち、夢の中でも、自分でもなんとなく夢だとわかるようになってきた。
しかし、試験にまとわりつく不安、恐怖、孤独、焦燥感といった負の感情は、たとえこれが夢だと認識していても、完全に拭い去ることは出来ない。
夢の中では、俺は医者ではなく、留年を繰り返し、崖っぷちに追い詰められている、無力な一学生に過ぎないのだ。
この永遠の地獄から抜け出す方法は無い。
俺は、夢の中で、何を書いていいのかまったく意味不明な白紙とにらめっこしながら、現実にあった、遠い日の試験のことを、うつらうつらと思い浮かべていた。