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 あの子が危ない。


 それはまだ幼いクンタにも、真琴の危機はわかっていた。

 だがクンタは自分が今どこにいるのか、まるでわからなかった。自分の家へも、どう行けばいいのかわからない。

 またここに戻って来られるのかも、匂いをたどるにも自信が持てなかった。

 だから吠えるしかなかった。クンタは吠えた。

 必死に吠えた。

 少しでも動けば老木はミシリと不吉な音を立てる。だから、真琴は声を出すことも出来ないでいた。


 あの子は拾われた時の僕と同じなんだ。小さくて、小さくてか弱い。

 僕はあの子にここにいるんだと声を出すことはできた。でも、今のあの子は声を出すことすらもできない。

 僕にも何もできない。

 でも、声は出せるんだ。 代わりができるのは、僕しかいないんだ。

 クンタは吠えた。

 精一杯、吠えた。


 ここだよ。

 ここにいるよ。

 ここにいるよ。

 早く、早くきて。

 誰かきて、誰か。

 早く、早く。


 少しでも声が届くようにとクンタは駆けずり回った。真琴から離れてしまうとたちまち闇に紛れてしまう。あまり遠くまでいけないが、行けるところまで駆けた。

 そしてほえた。

 クンタはわずかに流れる風に祈った。風よ、この声を誰か届けておくれと。


「……?」


 真琴を見失った中台体育館まで来たとき、どこからか犬の鳴き声が聞こえたように思えた。


「姉ちゃん、今の聞こえた?」


 背後から隼人が尋ねる声に、愛美はウンとうなずいた。


「さっきから、うるさいなあ」


 散歩中らしき男性が、ガードレールから身を乗り出すようにして郷部大橋の下に広がる郷部の田園地帯をを覗き込んでいる。だがそこには、暗い闇が広がっているだけだ。

 しかし、愛美にはある直感があった。


「隼人、行くよ。つかまってな」


 隼人も同様らしく、ウンと隼人は表情を強張らせ、愛美の腰にまわした手に力を込めた。

 郷部の河川に繋がる坂の下。愛美たちは闇に目を凝らして慎重に降りていった。

 鳴き声は次第に大きくなっていった。坂を下りると何かが近づいてくる気配があった。やがて小さな影が闇のなかから浮かび上がる。


「クンタ!」


 隼人が叫ぶとクンタは踵を返し、再び来た方向へと走っていく。その先に何があるのか考えなくてもわかる。

 愛美と隼人は自転車を放り捨てるようにして飛び下りクンタの後を追った。


 やがて、二人が駆ける向かう川辺の先に倒れかけの枯れた木と人影がぼんやりと映った。小さなそれは、丸くなって必死にしがみついている。


「真琴!」

「……姉ちゃん?」


 愛美の声に真琴がおそるおそる目を開き、声の方へと身をよじった。クンタの後に姉と兄の走る姿が夜目でもありありと見えた。


「姉ちゃん!」


 真琴が手を伸ばそうとすると、木の幹がパキリと乾いた音がはしった。メシメシと幹が揺れ、真琴の体とともに下がっていく。


「落ち……」

「そのまま手を伸ばせ、真琴!」


 愛美の後ろから隼人の怒号が飛んだ。その声でいったんは縮こまった真琴の腕が再び伸びた。


「んなろ……!」


 愛美は両足に力を込めた。息も出来ず、体の中が燃えるように熱かった。もう少し、あと少しだと自分に鞭を打った。


 ――舐めんなよ。


 愛美は見えない何かに向かって心のなかで咆哮していた。

 私は神林中バスケ部エース、磯崎愛美だと。


 幹にしがみつき、手を伸ばす真琴の姿がそこにはあった。その真琴の体が木とともに沈んでいく。


「真琴!」


 愛美が叫んだのと、真琴の手をつかんだのと、木がばらばらと木片となって川の中へと落ちていくのが同時だった。渾身の力を込めて真琴の体を引きずりあげることはできたが、バランスが崩れた。


 ――落ちる!


 その時だった。

 後方から強い力に引っ張られ、愛美は地面に倒れこんだ。気がつくと目の前には星空が広がり、真琴を胸元に抱いていた。傍らを見ると、隼人が肩で息をしながら地面に突っ伏している。

 何が起きたのか、愛美にはすぐに想像がついた。


「やるじゃん、隼人」

「……これでも真琴の兄ちゃんだからな」


 息を乱し突っ伏したまま、隼人は親指を立ててみせた。


「……真琴」


 大丈夫かと愛美が訊ねると、真琴の体が急に震え始めた。恐怖から解放されたからだろう。愛美の胸に熱いものが広がった。

 とりあえず怪我ないようだと、息をついて空を見上げた。見上げる空には月が星たちが美しく輝いている。

 遠くから人のざわめきがする。その喧騒は次第に近づき大きくなっていった。そのなかで「真琴!」と呼ぶ声がする。

 お父さんの声だと、愛美は安堵の息を漏らした。


   ※  ※  ※


「……はい、はい。本当にご迷惑をお掛けしました。はい、失礼します」


 健三郎は電話に向かって何度も頭を下げ、受話器を置くとフウとため息をついた。


「それでおしまい?」

「ようやくね」


 磯崎家の固定電話は玄関の廊下にある。

 玄関のかまちに腰かけて、クンタに餌をやりながら尋ねる愛美に、健三郎は思いっきり背伸びをしたまま答えた。


 真琴は現在、病院に向かっている。つきそいで陽子の他に道子や隼人がついていっている。


 健三郎は真琴を捜索するために協力してくれた家々にお礼や訪問してくる住人に対応するため、愛美と自宅に残っていた。


 それもようやく一段落したところだった。


「クンタには世話になっちゃたなあ」

「そうね。この子がいなかったら、どうなってたか」

 健三郎は愛美の隣に座り込み、無言のままじっとクンタを見つけていた。その沈黙がいささか長いように思われた時、健三郎がおもむろに口を開いた。


「この間の先方さんに断って、クンタ、うちで飼おうかなと思っているんだ」


「……」


「真琴もしっかり面倒みられているし、クンタも真琴を助けようと一生懸命にやってくれた。なかなか、こういう出会いて出来ないと思うんだ。愛美はどう思う?」


 返事はすぐに浮かんだ。


「私は賛成。この子、前から好きだけど、もっと好きになっちゃった。真琴も喜ぶよ」


「あとはお母さんたちか……」


「大丈夫だって。お母さんたちもクンタにすっごい感謝してたもん」


「……そうだな」


 健三郎はふっと笑ってクンタの頭を優しく撫でると、風呂入ってくるわと言って立ち上がった。


「お父さん」


 居間に入ろうとする健三郎を愛美が呼び止めた。愛美はクンタをあやして、健三郎に背中を向けている。


「ん?どうした」

「……ありがとう」

「なんだ、突然」


 娘から不意のお礼に健三郎は戸惑い、照れくさそうに頭を掻いた。


「ううん。ちょっと言ってみたかっただけ」


「……そうか」


 健三郎は訝しげに愛美の背中を見ていたが、やがて居間に入っていった。玄関にはクンタと愛美だけとなり、餌を食べ終えて眠たくなったのか、クンタはあてがわれた玄関の隅で丸くし、ゆっくりと寝息を立て始める。そんなクンタをいとおしく眺めていた。


 今日、新しい家族が増えた。小さい体だけれど、一生懸命で頼もしい弟が。


「クンタ、これからよろしくね」


 愛美がクンタにささやくようを言うと、クンタは愛美の言葉に応えるように、ワンと小さく吠えた。


    完



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