夫婦と元凶
かつて“眼力殺し”という異名をもつ怪物がいた。
ぎろ、と鋭い視線をやるだけで―――たったそれだけで、彼を退治せんとした冒険者たちは射殺された。視線で射殺す。
それは見たものを、一目見ただけで石にしてしまうメデューサよりも破壊力があった。
何故なら―――その血よりも鮮やかに紅い瞳は、一睨みするだけで強制的に生き物の生物活動を止めてしまうのだから。
この射殺す眼力だけでかかってきた冒険者ども相手に無双した怪物の名はミノタウロス。
額から突き出た見事な二本の角、真っ赤なぎらぎらと暗闇に鈍く輝く深紅の瞳。艶めいた真っ黒な毛並みは首の半分まで続く。その頭は、牛。鼻息も荒く一睨みすれば荒々しく鳴くオーガも怯えて泣くという。
冒険者もその瞳を見ぬように対策を練った。様々なパーティーが、様々な手法を駆使した。次第に接近戦以外の手段がとられるようになる―――しかし、ミノタウロスは強かった。
屈強な体躯は、地を一蹴りするだけで冒険者たちに肉薄した。あまりにも素早い、目にも止まらぬ跳躍。距離をどれだけとろうが、すぐに肉薄され、その卓越した脚力と規格外の接近戦のセンスにより、すぐさま辺りは血の海と化した。
そして、その話は一昔前で終了したはずだった。一人の魔導師がかのモンスターを瀕死までもっていき、しかし後少しで取り逃がしたのだという。倒した、と思っていたが瀕死であったため逃げられたそうだ。魔導師もまた相討ちに近かったため、傷を癒すために姿を隠し―――……以来、今まで目撃されていない。ミノタウロスも同じく、それ以来、目撃されていないはず、だった。
しかし、話は再び人の話題に浮上し、瞬く間に世間を席巻する。
……一昔前に暴れたミノタウロスが再び現れた、と。
ミーノース島のとある山に、かのミノタウロスが造り上げたダンジョンがあるら。かのミノタウロスはその付近に、再びダンジョンを作り上げた。残虐非道を再び繰り返すために人界へ降りてきたらしい―――そういわれている。
また悲劇が繰り返される前に、付近の島々のニンゲン達は各島の手練れを集めて、にわか仕立ての討伐隊を結成した。いまはどこにいるともわからない魔導師を、探し出して再び討伐依頼を出す時間も惜しかったから。
しかし、ニンゲン達は知らない。
実は今回の討伐対象はかつてのミノタウロスではないなど。ましてや、この噂を流した張本人が――――
「アテシがわりィってぇいうのかい、おめェさんはァ。えぇ?!」
紫煙を燻らせながら、彼女―――噂を流した張本人、ミナは柳眉をぐぐっと跳ね上げて凄む。まなじりがつり上がった黒い眼は迫力があった。異国の出身という彼女が好んで着込む着衣は、この辺りのニンゲンが水浴びの後に着込むローブのようだった。そのオリエンタルな雰囲気と相まって、妙な迫力がある。
「でーぇ? アテシに何のようだっテェんだあい?」
ここはとある島のとある砂浜。打ち寄せる波は煌めく青。蒼い空から降り注ぐ太陽の光の反射により、見るたびに表情を変える青はまるで青水晶のよう。たいへん、穏やかな時間が流れる場所だった……普段ならば。
しかし今は一人のニンゲンと一組のモンスターが対峙していた。
ニンゲンは、異国出身で独特の訛りがある女ミナ。モンスターは、腹が少し出はじめた中年のミノタウロスと、毒々しい黒と赤のマーブル模様の羽を背に生やした赤毛の妖精の女。
彼らの間には重い空気が流れていた。
「アナタがあたくし達の愛娘を陥れるウワサを流したのですって、バカ?」
滝のように豪奢に流れる深紅のきらきらした髪を、真っ白な繊細な美しい手で払い除けながら妖精はいった。(背中の羽と口調さえ無視したら)清楚で清純派な見た目のスレンダー美女であった。……年齢不詳で、人形めいた美ではあったが。
「陥れ、たぁだッてェ?」
アん? と不機嫌を隠すこともなくミナは言い切った。ニンゲンであるミナは、異種族であるインキュバスと大恋愛をして、子まで成したしまったある意味でツワモノである。だから彼女はどんなモンスターにも怖がらずに対等に接する。……だいたい対等以上に出てよく喧嘩になるのだが。
そして今も喧嘩が勃発しようとしていた。
「オマエ、やめとけ。リンダリンダはオレに勝つからな」
腹部が残念なミノタウロスが呆れたように呟く。これでも若いときは冒険者相手に無双した実力者だ……腹部辺りが残念な現在からはそうは見えないが。
「おまえさんだってオレと殺り合って引き分けたろう。けどリンダリンダはその上をいく」
「ア゛? おめェが負けるってェのかあい」
「夫婦喧嘩をしたら洒落にならん!」
「そッ、そォれはチト話が違うんじゃあネェのかい?」
ずり、とずっこけたミナはだんまりを決め込んだ赤毛の妖精―――リンダリンダを見た。ミノタウロスはかなりの強さを誇る肉体派のモンスターだ。それを夫婦喧嘩とはいえ勝つという。あまりリンダリンダと会ったことがないミナは、ただ親バカな口の悪い毒鱗粉妖精だと思っていた。
「アテシはただウワサをひとつ流しただけサねぇ。そのウワサがドンなふうに変わっちまったかは興味がネェのさァ」
はふぅ、と口から円形(ドーナツ型)の紫煙をいくつも吐き出し、ミナはミノタウロスと妖精の夫婦を見た。
「だって、そうだろうヨねェ。アテシはもう人の世に生きるつもりナンザないのさ」
かつて、ミノタウロスと引き分けた魔導師がいた。己の力を出しきり満足し、今にも命を潰えようとしていた魔導師は、瀕死のところをインキュバスの襲撃を受けた。
しかし、世に未練も残さず散ろうとしていた潔さにインキュバスが惚れ込み、力を分け与え伴侶とした。
それがかつての英雄―――異国の魔導師、ミナ・サキョウ。
噂を流した張本人は、かつての英雄であった。
「しかし、ウワサを流した原因はおめェさんだろう、ミノタウロスのダンナ」
リンダリンダは夫がぎく、と一瞬固まったのを見過ごさなかった。
「あらぁ、楽しそうなお話ですこと……ねぇバカ、あたくしにも教えてくださらない?」
というより、お教えなさいよね教えるわよねと威嚇するリンダリンダ。作り物めいた美が、恐ろしく黒く微笑むという表情はとてつもない迫力、破壊力があった。この破壊力は、作り物の美になれたモンスターには効果がない、ニンゲンにこそ効果のある脅し、威嚇。それをわかっていてリンダリンダは使用した。
ミナはかつての名うての魔導師であった。ニンゲンであった。だから、目の前の美に一瞬だが恐れをなし―――そこを突かれてリンダリンダに色々と約束事をさせられた。それはもちろんミナにとってすべてが不利だった。
一通り夫をぼこ―――否、説教をし、一通り夫の友人の妻をなぶ―――否、説教をし終えたリンダリンダは清々しい疲れに浸っていた。久々にひと仕事を終えた感覚だった。
―――……彼女の後ろには物言わぬ一匹のミノタウロスと一人のニンゲンが横たわっていたが。
「あら」
首を回し、肩を揉んでいれば急に“知らせ”が入った。リンダリンダは左手を軽く握り、開き――そこに、球形の大きな炎が現れた。その炎は蛇のように蠢き、中央にひとつの空間を作り上げた。球形からリング状になった炎は赤く煌めきながら、不思議と熱は放出していなかった。
「――“開けゴマ”」
かったるそうにリンダリンダが炎のリングに向かって呟けば、リングの中央にキィン! と甲高い音を立てて鏡が姿を現す。
「なぁに、妹」
鏡には青の色を纏ったリンダリンダの妹妖精・ターリアが映っていた。ターリアは忙しなく落ち着かない様子であった。常日頃からどことなくネジが何本か抜けている行動をするために、リンダリンダは妹が落ち着いていなくても別に何も思わなかった。またか、とさえ思った。
『姉さん! ……義兄さんは?』
「……そこで八割生気無くなって転がってるけど」
『また夫婦喧嘩? いつまでもイチャイチャしてるのね全く。それより!』
あれはイチャイチャではない、心中で突っ込んだどこ吹く風のリンダリンダは、妹に先を急がせた。さっさとあの魔導師に責任を取らせて討伐隊とやらを壊滅させるつもりなのだから。可愛い可愛いアステリアの邪魔をするまでに。
『アステリアのとこに、討伐隊が二回もいったの!』
「ああそう」
リンダリンダは決めた。よし、もう一度ぼこ○う。しかし、次に続いた言葉に彼女は絶句する。
『アステリアがヒトガタになったのよ!』
「何ですって?!」
リンダリンダは決めた。何故かはわからないが、ヒトガタに成れた愛娘。会うのが楽しみだ。これで嫁ぎ先がないとバカにしてきたヤツを念入りにぼ○ることができよう。愛娘は可愛いのだから。なのに、そんな時に限って討伐隊が来ているという。
「よし」
リンダリンダは振り返って黒く微笑んだ。よし、もう一度ぼ○って念入りにぼこ○てしんぜよう。