上皇の死⑧
「俺は昨日、重華宮にこっそりと忍び込みました。思った以上にくぐり抜けるのが楽な警備でしたね。後は陛下と話して退位を促した。以上です」
「待て。間が抜けているぞ。もう少し詳しく話せ」
「もう、面倒臭いですね。分かりましたよ。いいですか、よく聞いてください。陛下は元々皇后様の言いなりです。ですから俺が皇后様に変装して陛下に退位の意向を促した。それだけです」
「声色は?」
「そんなものはどうにでもなりますよ。聞きますか?」
趙汝愚は頷いた。ものすごく興味があった。四川から新しい茶が入るよりも、臨安の菓子店から新商品が出るよりも興味がわいていた。
のどを何度か押さえた李明は準備万端なのか首を縦に振った。
『こんな感じですよ。いかがですか?』
それは男独特の声の低さが完全に失せている、完璧な女声だった。目さえつぶっていれば、十代の少女がしゃべっているのではと錯覚してしまうほどだった。
しかし目の前に座っているのが男だと思うと嫌気がさしてくる。
『いかがですか、趙汝愚様?お気に召しましたか?』
「もうしゃべるな……」
『ええ?これから朝はこの声で起こしてやってもいいのですよ』
「やかましい!もうやめろ。戻れ!」
「ちっ、いちいち注文が多い男だ。そんなことより、これで満足したでしょう。お金くださいよ」
さすがに納得させられたので、趙汝愚もやらないわけにはいかなかった。溜息をつくと呼び鈴を鳴らした。
しばらくすると召使いが姿を現した。
「李明にいつもの二倍……四倍の銅銭を与えろ」
李明は思わず口笛を吹いた。さすがに予想もしない言葉が出たからだった。
「今回だけだからな、李明」
「今度も大いに働いてやりますよ」
「やめろ。銅銭がいくらあっても足りない。今度は饅頭で我慢しろ」
「それは割に合わない仕事ですよ」
二人はお互い笑いあった。笑い声が屋敷内にこだましていた。いつの間にか外は雨になっていた。
この時、趙汝愚は分かっていた。皇太子の嘉王が即位するには、まだ長い道のりがありそうだと。