上皇の死⑥
「うるさい!留正には一番腹が立つが、陛下も陛下だな。男のくせに少しは断る度胸も無いのか?」
「無理でしょう。病弱で奥さんに弱い皇帝では、人の要求を突っぱねるなんて夢のまた夢ですよ」
それを聞くと趙汝愚は机上に突っ伏してしまった。もう策を考える気力も無かった。
結局自分が裏から政治の実権を握るなんて、ただの夢物語だったのだろうか。自分はただ地味に仕事だけして生涯を終える。そんなのがお似合いの男なのか。
溜息をついた趙汝愚は茶を飲み干した。
「本当に情けないですね」
「うるさい、李明。おまえのように無位無官の奴に私の気持が分かるか。どうせ分からないだろうな」
鼻で笑うと近くの茶菓子をつまんで口に運んだ。うまい茶菓子だった。さすが首都の臨安でも評判の店なだけある。傷心の自分を癒してくれる。お茶と交互に食べるのがまた格別だった。
「なんですか、その低落は?もういいです。俺はもう行きます」
「どこに行く?」
「仕事です」
「あっ、そう。行ってらっしゃい」
どうせいつもの密偵の仕事である。大した情報を集めてくるわけではないのに熱心なことだった。
「お金は用意しておいてくださいよ」
「はいはい。いつもの金額でいいか?」
「いいえ、倍額です」
「贅沢言うな。いつも通りの額だ」
「まあいいです。どうせびびって、倍額出すつもりになるでしょうから」
にやりと笑った李明は窓から飛び出て立ち去った。
くだらないと一笑に付した趙汝愚は、さらに茶菓子に手を伸ばした。やっぱりうまい茶菓子だった。
***
六月二十七日。
その日、いつも通りに出仕した趙汝愚は留正の様子が異様なことに気付いた。目が落ちくぼんで、顔面が蒼白で、唇も紫色だった。
どうしたのだろうかと思い声をかけたが、彼は何も返さずどこかへと立ち去った。
「何かあったのか?」
ちょうど通りかかった余端礼に話しかけると驚愕の一言を放った。
「陛下が退位の意向を示された」
「まさか?冗談だろう」
「本当だ。他の連中にも尋ねてみろ。同じ答えしか返ってこないぞ」
にわかに信じがたいことだったが、どうやら余端礼が言っているのは真実のようだ。