上皇の死⑤
太后は初代皇帝の高宗の皇后だった。この南宋が建国される際に夫の高宗に付き従って尽力したことで知られており、亡くなった上皇も彼女のおかげで帝位に就いていた。
上皇が亡くなり皇帝が無力な今となっては、実質的な頂点といえる人物は彼女といっても過言でない。何事も彼女に伺いをたてねばいけないはずである。
自分の考えを素直に述べた趙汝愚だったが留正は、
「趙汝愚殿、そなたほどの人物がそんな堅苦しいことを言うとは思わなかったぞ。いいか何事も柔軟性が大切だ。いつもそうやって型にばかりこだわっていては駄目だぞ。時には破るというぐらいしないといけない」
高らかに笑っていた。笑うたびに無駄に肉が付いている腹が大きく揺れていた。
見ているだけではらわたが煮えくり返る光景だった。その腹を剣でぶっ刺してやろうか、と趙汝愚は内心で考えていた。
しかし顔に出すとまずいので、とにかく必死に耐えるしかなかった。
そんなことにも気付いてない留正はまだ自慢話を続けていた。
「いいかね。男子に生まれた以上は常識を打破するという気概を持ち合わせてないといけないのだ。私が若い時は、ほとんどの者が同じ気持ちを抱いていたものだ」
貴様の若い時の話なんて知るはずがなかった。ましてや知りたくもなかった。趙汝愚はもはや聞く気も失せていた。側の余端礼はただおろおろして、なりゆきを見守っているばかりだった。
趙汝愚はすぐに悟った。
この男に自分の考えを聞かせても無駄である、と。
まず考えが合わない。
勝利者になったつもりなのか留正は鼻で笑いながら、
「まあいい。言い返せないところを見ると、そなたには何も策が無いのだろう。私がさっきの考えを陛下に直々にお話ししてこよう。なあにすぐ採決されるはずだ。なんといっても私は陛下が即位された時から、宰相として仕えてきたから陛下の信任は人一倍厚い。」
この男の信任が本当に厚いのなら、今日のような事態にはならなかったはずである。しかし、留正は何も気付いていないようだ。自分で気付いていないやつほど愚かなものはない。
高らかに笑った留正だったが、周囲の文官達の態度は冷めていた。
***
皇帝は留正の意見をそのまま採用してしまった。どうせ留正に丸め込まれたのである。断る度胸も無いのだ。
「くそが!」
拳で卓を思いっきり叩くと、碗に入った茶がこぼれた。茶はそのまま床を汚してシミにしていった。
「そんな怒らないでくださいよ。長生きできませんよ」
真正面の李明は趙汝愚の様子にあきれたのか溜息をついていた。