第一章 上皇の死①
今から約八〇〇年以上昔、日本の鎌倉で幕府が開かれて間もなきころ中国の南宋という国での話である。
南宋の紹煕五年{1194}六月八日の蒸し暑い夜だった。夕餉が終わった趙汝愚はいつものように書斎で書物を読みふけっていた。
科挙{中国の官吏登用試験}に合格してからすでに二十年以上の歳月が流れたが、自分が科挙に合格する際に勉強した書物の中身が役立った事は一度も無かった。
当たり前である。書物の中身なんて所詮、理想を記しているだけだから実際の政治に役立つはずがないし、書いた著者の生きた時代にしか通用しない作法もある。
たまに馬鹿正直に朝廷で書物の内容を延々と語っている奴がいるが、思い出すだけで滑稽である。案の定、そいつは相手にされずに、地方に行ってしまった。
突然、強い風が吹いた。さっきまで無風だったのにどうしたのだろうか。少し思い当たることがあった趙汝愚は、机上の小袋を庭へと投げつけた。
小袋の中には銅銭が入っていた。
「まいどあり」
ひょっこりと出した顔を見た途端、趙汝愚はやはりかと安堵と呆れの二つの感情が出た。
自分が都の臨安に放っている密偵の李明だった。亡くなった知り合いの紹介で雇った人間であり腕は確かなのだが、いかんせん金にうるさいのと性格が悪いのが難点だった。
「今日の情報はなんだ?」
「いきなりですか?まずは粗茶ぐらい出してくださいよ。俺は客人ですよ」
「うるさい。さっさと本題に入れ。私は読書を邪魔されて苛立っているんだ」
「随分と気が短い方ですね。そんなのだとこの先、出世の見込みは無さそうですね。仕方ない。本題に入りましょう。病気で臥せっていた上皇様が先ほどお亡くなりになられました」
「粗茶ぐらい出してやる。詳しく聞かせろ」
すぐに返って来たので、嬉しそうに李明は屋敷の中に上がり込んだ。ふと李明の靴に目を向けると、なぜか泥まみれだった。
「変だな。今日は晴れなのに、どうして靴が泥だらけなんだ?」
「いや失礼しました。実は先ほど水路に落ちてしまいまして……その時に汚れまして……」
「その割には服が濡れてないな」
「服だけは新調しました」
「嘘つくな。最初から、私の屋敷を汚すつもりで靴だけ泥まみれにしただろう」
「気のせいでしょう」
屈託のない笑顔で李明は返してきた。
だから李明を好きになれないのだ。いつか絶対にその化けの皮をはがしてやるから覚悟しておけ、と趙汝愚は心中で固く誓った。
「それで上皇様がお亡くなりになられたというのは、まことか?」
「いくらなんでもそこは本当ですよ。俺だって一応この国の人間なのですから、大それた嘘はつきませんよ。まあ、朝にはそちらに知らせが届くかもしれません」
とりあえず李明の情報を信じておくことにした。