第二章 外戚の男①
七月三日に留正は逃げた。人前であれだけの啖呵を切って偉そうに語っていたのだから、恥ずかしくて宮中におれるはずがない。
かわいそうと思えば、かわいそうだった。
しかし今は皇太子の嘉王の即位が先だった。そのためには宮中でもっとも権力が強い太后の許可を得ることだった。
「なんだと?私では駄目だって?」
「ええ。趙汝愚様では太后様に会わせてもらうことは不可能でしょう」
李明は茶をぐびりと飲み干すと、菓子をさらにほうばった。
いまいち理解できない趙汝愚だった。自分だったら適任だと思っていたのである。実は趙汝愚は宗室だった。宗室は皇帝の一族のことである。後世になり宋という王朝は北方の北宋と南方の南宋という呼ばれ方をされ、別々の王朝のように言われるが二つとも同じ趙氏が建国した王朝である。
趙汝愚は北宋の第二代皇帝の太宗の血筋にあたる人物だった。
「私は血筋でいったら十分だぞ。なのに太后は会ってくれる可能性はないというのか?」
「絶対無いでしょうね。まずありえません」
二つ目の菓子に手を伸ばした李明だった。
「どうしてだ?何か問題でもあるのか?」
「問題というより簡単な答えですよ。あなたが太后様と血筋が近くないからですよ」
「そ、それだけか?」
「それだけで十分な理由になります。あなたは確かに太宗の子孫にあたりますけど、その血はかなり薄いはずです。ですから今は臣下の身分なのでしょう」
「うっ……」
確かにそれは言えていた。子供のころは太宗の子孫というので楽な暮らしができるのかと思っていたが、なぜか辺鄙な田舎で一族と一緒に暮らしていた。
早く楽な暮らしがしたいと思い難関な科挙を突破して官僚となり、今の都暮らしを満喫しているが、宮中の連中も自分を太宗の子孫というのにすら目もかけてくれなかった。
逃げた留正も同じだった。
「所詮、人の肩書きなんてそんなものですよ。いずれ忘れる時は忘れるものです。まあ、気にしないでください。これから新しい歴史を創造していけばいいじゃないですか」
「う、うむ……ってお前に慰められるのもなんか癪に障るな」
「あなたが勝手に、この話題を出したのでしょう。とりあえず、太后様への使者は別の人物を立てましょう。ちょうどよい適役がいますから」
「誰だそれは?」
「知閤門事で太后様の甥にあたる韓侂冑です」
名前は耳にしたことはあったが面識は無かった。皇后の一族といえば外戚である。確かに使えるかもしれないが、趙汝愚は知閤門事という位に首をかしげた。
知閤門事は文臣の位ではなく、武臣の位だった。武臣といっても武人のことを指してはいない。宋では武臣は科挙を受験しないで官僚になった者を指している。
つまり韓侂冑は科挙の合格者ではないのだ。




