距離
瞼に強い光を受けて凌は目を開けた。カーテン越しとはいえ、夏の日差しの眩しさのせいで何度も目を瞬かせながら寝返りをうった。
視界に入ったデジタル時計の表示は8:05。
いつもに比べればいくらか睡眠時間は長いが、休日の朝にしては早すぎたように思う。
だが今日は四日間の連休の二日目、一日目の昨日を丸々寝て過ごしたせいでこれ以上は眠れそうも無い。仕方なく起き上がりリビングへ向かった。
「あ、おはようございます」
ソファに座っていた侑莉がパッと顔を上げて笑顔を作った。
その手にはヨーグルトが握られていて、随分と小さな音量のテレビを見ながら食べていたようだ。
「朝はパンでいいですか?」
まだ食べている途中だというのに立ち上がった侑莉に凌は頷いた。テレビの音量を大きくして自分もキッチンへと歩く。
「お前バイト?」
「いえ、今日はお休みです」
自分で聞いておいて、ふうんと興味の無さそうな返事をしながら時計を見た凌の意図に気づいた。
早く起きているから何となく聞いてみただけなのだろう。
「ちょっとこの辺をぐるっと回ってみようかと思って」
ここに来て二週間と数日。未だに侑莉は自分の家との位置関係はおろか、地名さえも把握していなかった。
一人で歩き回って迷子になるのも嫌で駅からこのマンションまでの一本道くらいしか通った事もほとんどない。
いつまでここに居るのかは分からないが、このままではさすがに勿体無い気がした。折角だし、と思う。
何が勿体無くて、何が折角なのかは本人もよく把握していないが。
「香坂さんのお昼ご飯作っておきましょうか?」
「んー、いや。俺も行く」
そう言った瞬間、ぽかんと口を開けたまま動きを止めた侑莉を睨む。
「俺が道案内じゃあ不満か」
「いえ! そうじゃないんですけど、えと、でもせっかくのお休みなのに……」
「これ以上ダラダラしてたら夜眠れん」
「あ、はぁ……」
不満はない。一人で道に迷う可能性が無くなるのは有難い。だけど、一緒に出かけるというのは少し気まずい。
侑莉は凌が苦手だった。鋭い目で射抜くように見られると緊張する。正論をきつい口調で言われれば反射的に謝ってしまう。
常に、というわけではない。ふとした拍子にこみ上げてくる。
いつも穏便に話が進むようにと自分を強く通す事をあまりしない侑莉が、言いたい事をハッキリと口にする、自分とは対照的な凌に向ける感情としては当然かもしれない。
正直に言って拒否できるようであれば、そもそも凌に対して苦手意識を持ちはしないだろう。
だから彼女は遠慮がちにこう言うしかできないのだ。
「じゃぁ……、その、よろしくお願い、します」
「ん」
コーヒーと焼きあがったトーストを凌に出して、リビングに置きっぱなしになっていたヨーグルトを取る。
もう続きを食べる気にはなれなかった。
どこも同じような内容のワイドショーを見るわけでもなく次々とチャンネルを変えて時間を潰す。朝の用意に時間が掛かるのは当然女の方で。
とっくに準備の出来た凌は、数十分前に洗面所に消えたままの侑莉を待っている状態だ。
「お待たせしました!」
飽きて文句でも言ってやろうかと思ったとき、やっとリビングに戻ってきた。
走ってきたのか勢いよくドアを開けたのに、一向に入ってこない侑莉に、早く来いと急かしているのかと立ち上がった。
だけど侑莉は凌を凝視したまま動かない。 丸く目を開いて、信じられないものをみるかのように。
「何だ」
「……香坂さんが若い」
「あぁ?」
「わ、いえ、今までスーツか家着しか見たこと無かったから!」
今の凌はTシャツに細身のジーンズとラフな格好だが、それでもいつもとは違っていて有り得ないのに別人のような気がした。
「若いってな。何歳だと思ってんだ」
「そういえば香坂さんってお幾つなんですか?」
「二十二」
もうすぐ二十三だけど、と言う気にはならなくて黙っておく。
「私と三歳差……」
あまりに意外だったのか考え込むように俯いた侑莉に呆れつつも、何か言い返してやらないと気が済まなかった。
侑莉の顎に手を添えてクイッと持ち上げると驚いて目をパチクリとさせた。
「お前童顔だな。化粧しても変わんねぇ」
「な……っ、それ気にしてるのに!」
「どっちを?」
「どっちもです!」
凌の手から顎を引いて横を向いた侑莉は口を尖らせて珍しく拗ねたような表情をした。それがまた子どもっぽく見える事に本人は気付いていないらしい。
「お子ちゃま」
「香坂さん!?」
「おら、行くぞ」
「あっ」
さっさと玄関に向かった凌の後を追ってパタパタと走る。完全に侑莉は凌のペースに飲み込まれていた。
なだらかに続く坂道を上がっていきながら地名を聞いたが、侑莉には結局どの辺りにある場所なのか分からなかった。だが、もう少し坂を上がった住宅が途切れた先にある大きな校舎が目に入って、あれ、と思った。
「香坂さん、あの学校って?」
「ああ、水無瀬だろ」
「やっぱり! 見たことあると思った。私も高校が水無瀬だったんですよ!」
自分の予想が当たって嬉々とする侑莉を、凌は疑わしそうな目でジロジロと見た。
いきなりどうしたんだろうと首を捻る。
「お前やっぱ男だったのか」
「はい? ちが、違いますよ! 生まれた時から女ですっ! やっぱって何ですか!? ここじゃなくて、私は共学の第二の方に通ってたんです。弟がこっちだし、行事で何度かこっちに来た事あるだけで……」
「そういや兄弟校があったな……。だったら初めから言え。紛らわしい」
有り得ない誤解をしたのはそっちじゃないですか!
言いたくても言えない文句に、ぱくぱくと口を動かした。だが凌は口ごもる侑莉を放って学校の方へと足を速めた。
そこに見えている水無瀬学園は第一学園とも呼ばれる男子校だ。
何年か前、別の場所に共学の水無瀬第二学園が出来たからそう言われるようになったのだ。
校門まで来ると、夏休み中だから当然といえば当然だが、門はきっちりと施錠されていた。
だが凌は気にせず近づくと、見上げなければならないほど背の高い門の隣にある、人一人が通れるくらいの小さな扉に手をかけた。
すると扉はキィと音を立てて開くのを見た侑莉は呆気に取られて何も言えないまま、中に入ってく凌を眺めていた。
どうして凌はそこが開いていると知っていたのか。不法侵入じゃないのか。
セキュリティが甘すぎるし、校門に付いている大きな南京錠は全く意味を成していないのではないか。
どれもツッコむ隙も与えられず、凌に「早く入れ」と急かされてすごすごと侑莉も学校内に入った。
「お前の弟の教室ってどこ」
「えーと、確か2Aってだったかなぁ」
「Aって事は特進か。じゃあそこ行って弟が一生忘れられないような恥ずかしいネタを黒板に書いとこう」
「なんでですか! だ、ダメですよそんな事して万一私だってバレたら、それこそ一生口きいてもらえなくなっちゃう!」
「姉ちゃんのくせに弱いなお前」
事実をサクリと刺されて侑莉は押し黙った。心の中だけで、弟がどういう人物か知らないからそういう事を言うんだと返す。
弟の巧は姉の侑莉よりもしっかりしているから、つい頼ってしまう事が多い。するといつの間にか立場は巧の方が上になっていて、侑莉はあまり逆らえないのだ。
「というか、ほんとどこからそんな発想が……」
「あ? 高校ん時よくやらなかったか?」
「やりませんよ!」
一体どんな高校生活を送っていたのか。この学校に入ってから、侑莉は頭が痛くなってきそうになっていた。
迷い無く進む凌の少し後ろを小走りでついていきながら眉間を軽く押さえた。
と、その時
「あっちゃー、不法侵入者はっけーん! どうしましょう隊長、アベックであります!」
「アベックて」
まもなく生徒達の靴箱が並ぶ中央玄関に差し掛かるといったところで、声を掛けられて侑莉は体を硬直させた。
言われた通り、完全に不法侵入だ。こんなにも堂々と正面を切って歩いているのだから言い訳など出来るはずも無い。
近づいてきたのは二人。私服姿ではあるが、生徒のようだった。