共生
他人のためにとか
誰かと一緒にとか
そんなこと、俺に求める事態が間違いなんだ
立て込んでいた仕事にやっと目処がたち、何日かぶりに定時に帰ろうとした凌にニコニコと笑いながら同僚が一人近づいてきた。
「今日はもう帰るのか?」
「ああ」
「んじゃ飲みに行こう、な! ちょっと女の子でも誘ってさぁー」
「………」
真の目的が女の子の方にあると分かっている凌は無言で自分の携帯電話を同僚の手に乗せた。
「いつも悪いな」
「別に。でも俺は帰るぞ」
「はぁ? 香坂が来なくてどうすんだよ。お前の携帯で女の子呼び出すのに」
「適当に言いくるめろ」
「なぁに、もしかしてお前にもついに帰りを待ってくれてる彼女でも出来たんか?」
突然意味の分からないことを言い出す同僚に凌は鼻で笑う。
その様子を見て「やっぱそれはないか」と言って携帯電話を返した。
「あ……そういやいたなぁ。居候」
数日前に合鍵を渡した子のことをすっかりと頭から抜き去ってしまっていた。
あれから、凌は夜中に帰ってきては早朝に家を出る日が続き、一度も顔を合わせていない。
どうにか顔は思い出せたものの、一体名前は何と言っただろうか。
「居候? それって女?」
思い出そうとしている横から質問を投げかけられて思考が中断してしまい、まぁいいかと考えるのをやめる。
「女って言ってたな」
「言ってたって、なんだよそれ……じゃああれか。今日はその子と仲良く過ごすわけだ」
「いや寝る」
からかいを含んだ同僚の言葉をあっさりと否定。別に手を出すのに躊躇いがあるわけではなく、ただ眠気が勝るというだけ。
「あれれ。でもその子期待してるんじゃねぇの?」
「知ったことか」
「はは。まあ居候の子は別として、ちゃんと彼女作った方がいいと思うぜ? いつまでも寄って来る女を食っては捨ててたら、いつか背中刺されるぞ」
「その俺に便乗してる奴に言われたかないね」
携帯電話をしまった凌はふぁっと欠伸をして歩き出した。
何で俺が刺されなきゃいけないんだと、さっきの言葉を反芻しながら思った。
向こうが誘ってきたのに乗ってるだけだ。恨まれるような事をした覚えなど凌にはない。
ただ、たまに何かを勘違いをしてヒステリーを起こす女もいた。
そんな奴はその場で切り捨ててそれで終わり。誰かに縛られるなんて真っ平だ。そもそも、特定の女とずっと一緒にいるなんて考えられない。鬱陶しくて耐えられないなと、想像だけで顔が歪みそうになるのを暑さで誤魔化す。
そのまま、その考える内容を晩ご飯をどうするか、に変えた。自分で作るなんて面倒くさい事はしたくない。
簡単にコンビニで何か調達しようと、通りがかった店に立ち寄る。自動ドアが開いて中に入ろうとしたら丁度外に出ようとした人がいて横に退く。
「じゃあお疲れ様でした! ……きゃぁ!?」
一歩店内に足を踏み入れた瞬間に、隣から奇声が発せられて凌は睨むようにそっちを向いた。
「こ、香坂さん?」
「あ……居候」
「……侑莉です。お久しぶりです」
名前を覚えられていなかったらしいと悟った侑莉は曖昧に笑って名乗った。
「今日は早いんですね。もしかして夕食を買いに?」
「ああ、まあ」
「簡単なものでよければ家に帰って作りましょうか?」
遠慮がちに問われ、口に入れば何でもいいし、食費が浮くなと思い凌は頷いた。
そんな凌に「じゃあ帰りましょう」と笑う侑莉。
彼女は小さなバッグを一つ持っているだけで、何も買った形跡が無い。
「お前……、お疲れとか言ってたけど」
「はい。あそこでバイト始めたんです」
「どんだけここにいるつもりなんだよ」
「え、いや、一応オーナーは事情も分かってくれてますし。短期です!」
「しかもわざわざあの店」
凌が難しい顔をするが、その理由は侑莉には分からない。
直ぐに着いたマンションの下で、入り口から出てきた男の子がペコリとお辞儀をしたのに対し、侑莉も慌てて頭を下げた。
高校生くらいで、無表情だったけれど顔の整った子だった。
その子の後姿を見送った後、隣にいる凌を見やって侑莉は首を捻った。
「初めてここに来た時一緒にエレベーターに乗った子といい、さっきの子といい香坂さんも。このマンションの住人って美形ばっかり?」
「ここ入居する前に顔の審査されんだ」
「ホントですか!?」
「……アホ。嘘に決まってるだろ」
まさか本気に取られるとは思わなかった凌は驚いている侑莉に呆れる。
「で、ですよね……。びっくりした」
初めて出会った時の行動といい、どうやらコイツの思考回路はちょっと普通とは違っているらしい。
部屋に入って着替え、リビングに戻ってくるとすでに侑莉は食事の支度をしていた。
「すみません、もう少しかかりますから待っててください」
意外にも手際よく手を動かしながらそう言われ、ソファに座りテレビを点ける。
だが、この部屋で自分以外がキッチンに立ち料理をしているという事は初めてで、何となく珍しく思えて侑莉の後姿を眺めていた。
よし出来た、と凌がいるソファの方を見ると、彼の姿が無かった。
寝室に行ったのだろうかと近づくと、弾力のあるソファに身を沈めて穏やかに寝入っている。
余程疲れていたのだろうと、侑莉は自分の与えられた部屋からタオルケットを取ってきて凌に掛けた。閉じられた瞳は彼の睫毛の長さを強調させ、鼻筋の通った整っている顔をまじまじと見つめてしまう。
いつもはきつい印象を受ける眼も今は瞼に隠され、寝息を立てている顔はどこかあどけなさがあって、侑莉はクスリと笑った。
もう少し寝かせてあげよう。料理は後で温め直せばいい。テレビを消して立ち上がる。
「……メシ」
「わ、起こしちゃいましたか……」
「いや、腹減って起きた」
眉間に皺を寄せて、まだ眠たげに髪をかきあげる。寝転んだまま、深く息を吸い込むと嗅ぎ慣れない香りが鼻をついた。
食べ物の匂いとはまた違う。部屋に充満しているのではなく、ふわりと漂ってくるような、微かな香り。
起き上がると、体の上にあったタオルケットがズルリと落ちた。それはいつも自分が使っているものではなかった。
持ち上げて顔に近づけると、このタオルケットが香りの原因だと悟る。
「これ」
「ああ、香坂さんの部屋に勝手に入るのは悪いかなぁと思ったので私が使わせてもらってるのを持ってきました」
「……甘い」
「え? 何がですか?」
何でもない、と大きく伸びをして凌はキッチンに向かった。
「意外だな」
すみません、本当に簡単なもので……、とテーブルの上に置かれたパスタを口に入れた凌が心底驚いたように言った。
最初からどこか抜けているというか、ドジな奴だと思っていたから料理もそんなには上手くないだろうと考えていたのだ。だが予想に反して見た目も味も好い。
「どうしてかよく言われます」
「どうしてなんだろうな」
自分をもっと見直したほうがいいんじゃないか。という言葉をパスタと一緒に飲み込んで黙々と食べ続けた。
料理は得意な方だからそれほど心配していたわけではないが、それでも速いスピードで口に運んでくれるのが美味しいと言われている様で嬉しい。
「なんだ気持ち悪い」
凌の食べる様子を見て笑ってしまった侑莉に気付いて思い切り眉間に皺を寄せる。
「い、いえ。すみま――」
口を開けたまま侑莉はピタリと止まった。凌がフォークを顔の前に持ってきたからだ。
「『すみません』って言うな。鬱陶しい」
「え? あ、す……はい」
「今度言ったら犯す」
「絶対言いません!」
背筋をピンと伸ばして早口で誓ったのに満足して、また食べ始める。会話の半分は謝られている気がした。
別にこっちは何も思ってないというのに、こうもポンポンと謝罪されると自分が理不尽に責めているみたいで気に食わない。
顔を強張らせてパスタをフォークに絡めていく侑莉を見て、そんなに気をつけてないといけないのかと呆れた。先に食べ終えた凌は立ち上がり、バスルームに消えていった。
その後姿を見送って侑莉は息を吐いた。
彼と一緒にいると何故か緊張する。だから些細な事で謝罪が口から出てしまう。
まだ半分以上も皿の上に残っているパスタを暫く眺めていたがカチャリとフォークを置き、きっちりと食べきっている凌の分も手にとって流しに持っていった。
シャワーを終えれば幾らか眠りも遠退き、サッパリとした気分で凌はリビングに戻ってきた。
するとテーブルを拭いていた侑莉が顔を上げてニコリと笑う。ここは本当に自宅だったかと疑いたくなった。
考えてみれば素性も知らない女と同居なんてどうかしている。家賃や生活費等も取らないと確か言ったはず。
いくら仕事詰めで思考が鈍っていたからといって、この状況はなんだろう。
コイツも疑問に思わないのか。見ず知らずの男と暮らすという事に。
いつ襲われても文句は言えない自分の立場を理解してないとしか思えない。
「お前って高校生じゃないよな?」
「はい、大学の一回生です」
「ふーん」
自己責任が取れて当たり前の歳だ。
ここで無理やり押し倒されても文句は言えまい。それとも……
『その子期待してるんじゃねぇの?』
「こ、香坂……さん?」
そっと手を伸ばして侑莉の頬に触れる。唇を撫でると侑莉の体がビクリと震えた。
大きく見開かれた瞳はありありと驚きを表している。
「んなわけないか。寝る」
凌は手を離して、そのまま自分の頭を乱暴にくしゃりと撫でて欠伸をしながら寝室に向かった。
「あ、お、おやすみなさい……」
不可解な行動をとった凌を半ば呆然と眺めて、侑莉はその場に立ち尽くした。