そして、彼等は
肌に触れる空気は乾いている。満ちる冷気に身を震わせた。
かつんかつんと建物の脇にある螺旋階段が鳴った。希海は何気なくそちらを向く。
「あーねみぃ」
大きく口を開けながら、だらけた足取りで下りてきたのは新岳瑞貴だった。彼も眠気でとろんとした目で希海を視認して手を上げた。
「何やってんの希海んちょ」
「希海んちょ言うな。見て分かんない? 仕事中なんだけど」
「マジで」
店外に設置されているゴミ箱の清掃中だった希海を、それ以外の何に見えたというのか。瑞貴はたった今綺麗にしたばかりの灰皿の前に立つと、コートから取り出した煙草に火をつけた。
その慣れた手つきを見て希海は嫌そうに顔を歪ませる。
「店長こそ何してんの、こんな時間に」
「変な時間に目ぇ醒めちゃってさぁ。これから呉叩き起こしてやりに行こうかと」
「……いいけど、二人して店に押しかけて営業妨害しないでね」
呉というのはこのコンビニの深夜組の従業員。呉や瑞貴も、そして希海もこの上にあるマンションの入居者だ。
呉を起こしたならば必然的に一階のコンビニに顔を出すに決まっている。瑞貴は何も答えず、天を見上げた。
「晴れたな」
「ん? ああ、うん。良かった」
安堵の表情を見せた希海を、瑞貴は煙草を持っていない方の手で乱暴に撫でた。今日という日が誰かにとって特別であるのだと二人は知っている。
「お疲れさん」
何に対しての労いの言葉なのか、分からないわけじゃない。だがまさか瑞貴がそんな事を言うとは思わなくて目を瞬かせる。
自分が何かしたという感覚はない。ただ少しだけ接点を持っただけ。
それでも、それだけだったとしても、ちょっとは何か出来ていただろうか。役に立てただろうか。
褒められたような気分になって、むず痒い気持ちを悟られまいと敢えて憎まれ口を叩いた。
「店長の恋路は前途多難なままだけどね」
「うっせぇ!」
タバコを持っていない方の手を振った瑞貴から逃げて笑う。ほんの少しの接点が、出会いが変えるものも確かにあるのだろう。交わるはずの無かった二人が心を通わせるようになったように。
希海がこうやってここで生活するようになったように。そうやって、誰かの変化に立ち会う事で物事を良い方に動かせるなら、この奇妙な瞳も嫌じゃなくなるかもしれない。
「新岳店長くんじゃありませんか」
自動ドアが開いて中からオーナーが顔を出した。しまったと瑞貴が顔を顰めたがもう遅い。
「おやおや勤勉な夜間店長は勤務時間外にも店のために身を粉にして働いてくれるんだねー。ありがたいねー」
「いやいや粉になっちゃったら働けませんからねー。身体に負担にならないように休みはきっちり取らないとねー」
「毎日タイムカード押しに来てるだけで、ここで休んでるようなもんでしょうが!」
有無も言わさずオーナーが瑞貴の首根っこを掴んで店の中に引きずり込んだ。わーわーと喚く瑞貴を客が驚いて眺めている。
今日も平和だなぁ。
完全に他人事で、希海は晴天の空のように和やかな気分で後を追った。
*
「日曜のこんな清々しい朝っぱらから酔いどれみたいな事してんじゃないよ」
学校の校舎と寮とを繋ぐ通路の端にあるベンチを占領して寝転がっていた千春は、常日頃から険のある態度で接してくる同級生の声にゆっくりと目を開いた。
寝ていたわけではなく、ただ何となく横になっていただけだったから、自分を見下ろしている馨にすぐに返事が出来た。
「だったら朝っぱらから絡んでくるなって……」
同じ寮生であるから出くわすのは珍しくないのだし、千春が気にいらないのなら放っておけばいいだけだ。毎度同じような絡まれ方をしてくる馨は、千春の気も知らないで起きて場所を空けろとせっついてくる。
身体を起こしたせいでぱさりと落ちたスケッチブックを取り上げた。
「いやぁ未だに失恋から立ち直ってないのかなぁと思ってさぁ。笑いに来た」
そう言いながらも表情を一切変えずに馨は千春の隣に座った。
「すっきりして良かったー、安部見てるとイライラしたんだよね僕」
「何で俺じゃなくて緒方がすっきりするの」
「何でだろう。安部と壱都は似てるけど、壱都は好きだから不思議だなって僕も思ってた」
いつも通りの憎まれ口かと思っていたが、馨は真面目だった。真っ直ぐ前を向いている緒方から目を離して千春も視線を前に戻す。
「でも巧にちょろっと事情聞いて納得。安部は多分、僕とも被るんだよ。どうしようもない過去の『もしも』に囚われてる。更に言うなら安部は態とそこから抜け出そうとしなかったでしょ」
何で過ぎてしまった時間ばかりに何時までも拘るの。縛られているの。どうして現状を良くしようとしない。そんなにその時が幸せだったなら、今も同く過ごせるよう何故努力しない。
今を楽しく暮らす事に微かにも力を抜かない馨は、千春を見ていられなかった。まるで昔の自分を見ているようで、痛々しかったのもある。放っておけばいいのに、どうしてもつっかかってしまう。
嫌いだと思ったのは千春自身ではなく、馨にもある過去にとらわれる部分だった。
「だからもっとさっさとフラれてれば良かったんだよ」
とんでもない言い種だ。だが千春は声を上げて笑った。ぱらぱらと真っ白なスケッチブックを捲る。
「そうだな、ふっきれた事だし、取り敢えずは残り半分の高校生活を思いっきり満喫するのに精を出そうかな」
「ああやだやだ、安部の目標ちょーちっちゃい」
馨は立ち上がって千春の前に立った。
「生徒会もそうだし僕達だっているのに、満喫出来ないなんてありえないんだよ。普通はさ」
これだから安部は。そう言って馨は来たとき同様、一人勝手に立ち去ってしまった。
千春はここ最近やたらと賑やかな自分の周りを思い返してみた。確かに、毎日騒がしく忙しい。
こうやって何だかんだと気にかけてくれる人も、きっと馨以外にもいる。認めてしまうのは癪だけれど、これで良かったのだと思えた。




