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真夏の夜に  作者: 裕
37/41

廻る

 侑莉が十二歳の時に母親が死んだ。交通事故だった。その日、侑莉は体調を崩して学校を早退する事になり、母親に迎えに来てもらうことになっていた。

 けれど何時まで経っても迎えは来ず、代わりに保健室に入って来た担任に告げられたのが

「宮西さんっ、お母さんが事故にあったって――」

 だった。侑莉は保健室を飛び出した。

 学校を出て真っ直ぐ進んですぐの突き当たり、大きな通りに出た処での正面衝突事故。相手は大型トラックだった。

 大型トラックが大幅に車線を越えて反対側へと侵入しており、避け切れなかった母親の車とぶつかったようだ。両者共にスピードは出ていたようで、見慣れた黒の自家用車は前半分が原型を止めないほどにひしゃげていた。

 道を遮るように停まった歪な車と、コンクリートに散らばるガラスの破片。オイルは流れ出して鼻につく臭いがする。それとは別に所々に溜まっている赤い液体。

 血だ。もう既に母親もトラックの運転手も救急車に搬送された後だった。

 母親が無事であるとは到底思えなかった。侑莉はまだ事故が起こったばかりの生々しい場所でずっと立ち尽くしていた。

 少女は見るべきではなかったし、教師達も何が何でも止めて見せるべきではなかった。

 侑莉のために慌てて学校へと向かう道すがらに、凄惨な事故に遭ったのだとこんなにも早い段階で目の当たりにさせてはいけなかった。目前にある光景は、自分のせいなのだという事実を叩きつけられると同時に崩れ落ちた。

 次に目を覚ましたのは病院の一室で、侑莉の手は弟の巧にしっかりと握られていた。暫らくぼんやりと弟を眺めていたが、すぐに襲ってきたのは恐怖と嘔吐感。受け入れる事の出来ない恐ろしさに居てもたってもいられず、病室を抜け出した。

 眠たげに目を擦る弟と手を繋いだまま病院内を彷徨ううち、通路の端に設けられた共有スペースのソファに腰掛ける父親を見つけた。

 いつもは快活で背筋の伸びた父が、背を丸め俯いて座っている姿。肩は小刻みに震えていた。近寄れなかった。「お父さん」と声を掛けられなかった。そんな事は許されないような気がして。

 だってお父さんが泣いているのは私のせいなのに

 私のせい? お母さんが事故に遭ったのは。

 遭って、どうなった? どこにいるの? どうしてお父さんはあそこに一人でいるの。

 侑莉は叫んでいた。後で知った話、事故はトラックの運転手の飲酒運転が原因であったらしい。

 だがそれは侑莉にとってはあまり意味の為さない事実であった。

 侑莉が体調を崩さなければ、家に連絡をして母親に来てもらうような事にさえなっていなければ良かった話なのだ。

 事故があって二日後の通夜と葬式の間中、父は母の棺から離れる事はなかった。そしてそれを侑莉はただ遠くから見ているしかできなかった。

 奪った。父から、巧から。集った親戚や知り合いの大人たちは挙って「不幸な出来事」だと口にした。

 彼等はまた侑莉や巧に対して「可哀相」だとも言った。不幸を招いた侑莉が可哀相であるはずもないのに。それに当てはまるのは父と巧だ。

 何もしていないのに一方的に奪われたのだから。父親は何も言わない、巧は母の死を明確には理解していない。だから尚更、侑莉はどうする事も出来なかった。

 ごめんなさい、ごめんなさいと会場の隅で泣いていた侑莉に手が差し伸べられた。

「泣かないで、大丈夫?」

 けれど泣き止まない侑莉と彼女に寄り添う巧の前に座り込んで、静かに見守っていたのは千春だった。会ったのはその時が初めてだったが、親同士が懇意にしていて家も意外と近かったため、それからはよく三人で遊ぶようになっていった。

 千春は侑莉の事をよく見ていて、気持ちが堕ちるその直前のタイミングで必ずと言っていいほど声を掛けてくる。

「大丈夫?」

 気分は浮上しない。それでも気を持ち直すには十分に効力を発揮する一言。大丈夫でなければならない。侑莉が悲しみに暮れるような事があってはならない。それは父と巧に許された権利であって自分ではないのだ。

 侑莉は以前にも増して仕事熱心になった父親の負担にならないように、まだ母親の恋しい盛りの巧が少しでも寂しさが紛れるように努めた。その際たるものが家事だった。

 自分のエゴに過ぎないと分かっていてもやらずにはおれなかった。二人の、みんなの迷惑にならないように。邪魔にならないように。

 疎まれたくない一身で、誰とも衝突しないようにと無意識のうちに我を出す事をしなくなり、いつの頃からかすぐに自分から謝る癖もついていた。知らず気を張って生活する侑莉の手を引いて「大丈夫だよ」と言ってくれる千春に惹かれていったのは自然の成り行きと言える。

 流れのままに高校に上がる頃には付き合い始めていた。千春がいてくれるなら、いつかは本当に「大丈夫」だと思える日が来ると思えた。


 けれど高校二年の秋。学校帰りに千春の同級生の女の子に会った。待ち伏せていたのだろう。

 校門を出て角を曲がった先にある階段になっている所で呼び止められた。彼女は千春が好きで告白したが振られたのだという。

 そこまで聞けば要点は掴める。侑莉は人目につかない場所に移動しようと彼女を促そうとした。だが告白を断られたその足で、侑莉の高校まで来たのかもしれない。興奮状態である女の子には侑莉の冷静な態度でさえも怒りへの起爆剤にしかならなかった。

 幼馴染だからって。高校生のくせに。どうして、どうして、どうして。掴み掛かられて、そんなような事を大声で捲くし立てられた。

 体をどんな風に動かしたのか、かわそうとしたのか咄嗟の事で侑莉は覚えていない。

 気がつけば自分を後ろへ押していた年下の女の子がバランスを崩し、侑莉の隣をすり抜けて階段を落下していった。耳に突き刺さる悲鳴、周囲にいた人の驚きの声、地面にぶつかる音。

 侑莉はその場に立ち尽くした。

 幸いにも少女は軽症で済んだが、嫌というほど思い知ってしまった。千春に縋るべきではなかったのだと。

 侑莉が千春を想えば、他の誰かの気持ちとぶつかる事があるのだと気付いた。人を好きになる、恋人を作ればそういう可能性をも作ってしまうのだと。

 これまで誰からも嫌われないようにと気遣ってきた侑莉には、あの少女の面と向かった憎悪はこの上ない恐怖だった。千春と一緒にいれば、またあんな風に思われるのか。あんな風に傷つけるのか。

 そればかりが頭を支配して。目を閉じれば瞼の裏に焼きついた少女の倒れた姿、次に摩り替わるように母親の事故の現場の情景に移る。

 感情のままに侑莉に怒りをぶつける少女の叫びは、あれは父親にも言えた事だったのではないか。同じように罵りたかったのではないか。

 とてもではないが耐え切れそうもなかった。ごめんねと泣きながら別れを切り出した侑莉に、それでも千春は笑顔で大丈夫だよと言う。

 小さい頃から繰り返してきたように。元の幼馴染に戻るだけだよとそう言って事実その通りになった。

 そして凌と出会う今年の夏まで侑莉は、誰とも当たり障りのない関係を徹底してきたのだ。怖くてずっと逃げてばかりいた。


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