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真夏の夜に  作者: 裕
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溶解2

「何で勝手に出てった、ここに居たいっつったの誰だ。……あんなふざけた置き書き残していきやがって、あんなもんで俺と切れるとでも思ったのかっ!」

 顔を上げ、くっつきそうなくらいの至近距離で侑莉を睨んだ。数枚の万札なんかで凌との間にあった出来事全てを清算するつもりだったのかとどれほど憤った事か。

 全てを終わりにするように、何もかもを根こそぎ消し去ってもう二度と戻って来ないと言われた気がして、どれだけ後悔したか。

 どうしてもっと侑莉について聞いておかなかったのか。何故もっと多くの言葉で言い聞かせておかなかったのか。

「お前、どうしたいんだ」

 その呟きが問いだったのか分からず、侑莉は黙って凌が次に何を言うのかを待った。僅かに腰に回していた手に力が籠もる。

「ここが嫌になって出てったんじゃないのか、何で大人しく連れて来られてんだ」

「ち、ちが……」

「じゃあ何で居なくなった!」

 こんなにも声を荒げる凌は見た事がなくて、その動揺に上手く言葉が出て来ない。声にして早く伝えられないのがもどかしい。

 ジレンマに耐え切れず侑莉は涙を零した。どうしたいかだなんて、そんなものたった一つしかないのに。その為に来たのに。力の入らない手で凌の肩を押した。

「香坂さんを好きでいると、誰かと気持ちがぶつかる。それが……耐えられなった」

 凌に注がれる好意も、侑莉が向けられる敵意も。受け止め切れなかった。喩え見えなくとも、憎悪を流し出す瞳や罵倒を吐く声がどんなものか知っている侑莉には傷ついている人が大勢いる事実に耐えきれなかった。

「だけど、でも、それだけじゃなくて……」

 さっき言った事だって理由なのだが、それよりももっと侑莉の思考を占める思いがあった。

「き、らわれたく、なかった。私はこんな、だから……ずっと一緒にいたら、鬱陶しいって、思われるんじゃ、ないかって……怖かった」

 他の誰かじゃなく凌が侑莉を選んでくれた事に優越を感じる自分の醜い心を、罪悪感で包み隠す。罪悪感だって十分に上からの立場で物を見ている証拠だと気付けば、自分の汚さに吐き気がした。

 女性にもう二度とかけてくるなと電話越しに切り捨てた凌が、いつか自分にも同じ台詞を言うかもしれないと考えずにはおれなかった。

 臆病で、自分に自信がなくて。弱く、他者に依存してばかりいる侑莉だから、愛想を尽かされる日はすぐくるのではないかと。

 それがどうしても恐ろしかったのだ。凌と共に在る事に慣れてしまった今、切り離されるのがどうしようもなく怖かった。妻を失った父がどれだけ憔悴していったか目の当たりにしてきた。

 同じようにはなりたくなかった。侑莉には父のように乗り越えられそうもない。その術を持たない。

 けれど凌への想いは日毎に大きく膨らんでいくばかりで。だから先に自分から逃げ出したのだ。傷を負う前に。まだ離れる決心がつくうちに。

「なのに、出来なかった……。どんなに距離を置いても日が経っても、香坂さんといた時の事ばっかり……思い浮かんで、他の誰かがここにいるかもって、考えただけで厭で、ずっとずっと戻って来たかった、会いたかった……」

 俯いた侑莉の表情は分からなかったが、見るまでもない。言葉が切れ切れになるほど呼吸は乱れ、顔を覆う手から零れ落ちた雫が次々と床に落ちていっている。それでも侑莉は止めなかった。

「ごめんなさい……ごめんなさい、自分勝手で。でも、私はもう一度、今度こそ香坂さんの傍にいたい」

 これが言いたくて。拒絶されても当然だけど、どうしても諦め切れなくてここまで来たのだ。

 凌は言い終える頃には本格的に泣き出した侑莉に手を伸ばす。だが侑莉は避けるように体を揺らした。

「だからお前は人の話聞けよ」

 力任せに上を向かせた彼女の顔は予想通り涙でぐしゃぐしゃになっていた。どうしてコイツは思いを吐露するとき、必ず号泣するんだろう。

 泣き止ませる言葉なんて持ち合わせて凌はやはり自分が思う事をそのまま口にするしか出来ない。

「謝んなってあれほど言っただろうが」

 ぱちりと瞬いて余分な水分を落とした瞳は、またすぐに溢れてきた涙に歪んだ。謝る以外に何を返せばいいのか探すように揺れている。

「ごめんで許されると思うな、そんなもん要らん。その代わり……もう勝手に居なくなるな。ここにいろ、頼むから」

 何を返せばいいのか探す必要など無かった。答えは用意されていた。侑莉は頷けばいいだけ。

 ただ首を縦に振るしか選択肢はない。それ以外は要らない。頭で考えるより早く侑莉は頷いていた。

「お前もう一人で考え込むなロクな事になんねぇ。俺の話は聞け。分かったな」

 先ほどの弱い口調は消え、もういつも通りの凌に戻っている。その変わり身の早さに反応できず、また侑莉は反射的にコクコクと首を振って了解の意を伝えた。

 だがその間も凌が言った事がぐるぐる思考を巡る。凌はふぅと息を吐き出し、それがどこか安堵しているように思えた。

「……たく、お前のせいで渡すの遅くなった」

 九月、侑莉が出て行ったちょうどその日に手に入れたもの。あの時に渡すはずだったもの。

 全くどんなタイミングだと思う。こんなに遅れてしまった。侑莉の間が悪いのか、そもそも凌がこれを用意するのが遅かったのか。何にせよ無駄にする気は絶対にない。

「これ……」

「分かり易くお前を縛り付けておけるもんなら、別に何でも良かったんだけどな」

 侑莉の左手を持ち上げ、薬指にリングを嵌めた。内側に一つ宝石がついたシンプルなシルバーの指輪だ。

「取るなよ。勝手に外しやがったら、犯すぞ」

 聞いた事のあるフレーズに侑莉は指輪から凌に目を移した。怒っているかと思われたがそんな事はなく、珍しくも彼のその瞳は柔らかいものだった。侑莉の指から外れない指輪、離れられない、縛り付けるのは凌。それを望むのは両方。

 侑莉もまた彼と同じように目を細めた。

「絶対、取りません」

 いつかの掛け合い。やり直しを今している。やり直す事が出来た。あの時とは思いも何もかも違うけれど相手は一緒で、それだけが重要だった。

「じゃあこっちはお前がつけろ」

 手に乗せられたのは同じデザインのサイズ違いの指輪だ。凌が嵌めるもの。

「香坂さんも絶対外しちゃ駄目、ですよ。どんだけ女の人に好きだって言われても、それがどんなに綺麗な人でも外さないでくださいね」

 凌の指に滑らかに嵌った指輪は、きつくも緩くもなく収まった。

「他の女なんか知るか。ていうか、そんな奴等のこと気に掛けて勝手に出てったのはまだムカついてるからな。責任取れ」

 あれだけ侑莉にとっては切り離すのが困難だった事を、凌は知るかと両断してしまう。そんな奴等と捨ててしまう。

 それを心苦しく思っていたのに今では嬉しい。無くなったわけではないけれど、他者へ向ける目よりも傍に凌がいる事の方ばかりに気を取られる現状を、そうなる事を凌が望んでくれるのを喜んでいる。

 責任くらい幾らでも取る。

 そう、凌を繋ぎとめておけるのならば形なんて何でも良かった。



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