溶解
巧の大声が止んだと思うと、今度は誰も言葉を発しなかった。会話を盗み聞きされていた事に驚いて反応し損ねた二人、こそこそと二人の会話を盗聴していた気まずさに笑って誤魔化すしかない四人。
たった一人が空気に飲み込まれず、むしろ堂々と扉を開けて他の人が動けないような空気を作り出した張本人だけが平然と室内に入り込んできた。
「こ、香坂さん……」
無言のまま近づいてくる凌に思わず侑莉は一歩後ろに退いた。自分から会いに行こうとはしていたが、全く予想していなかった場面での再会に混乱した頭では、何をどうすれば良いのか考え付かない。
何でここにいるのか。何故何も言わないのか、どうしてこっちに来るのか。慌てふためく侑莉を易々と捕まえた凌は、軽々と彼女を担ぎ上げた。
「きゃ……っ、なに、香坂さん!?」
足は宙に浮き、普段より少しだけ高い視野。動物を抱える要領で持ち上げられた侑莉は安定感を求めるために凌の肩を掴んだ。
背中越しに見た部屋の外にいる四人は、四者四様の表情をしているが誰一人として凌を止める気はないようだった。
「侑ちゃん……!」
搾り出されたその声に侑莉は今まで一緒に居た千春を見た。焦っている彼に、どうしてこうなっているのか状況は読めないものの、多少落ち着きを取り戻した侑莉は口を開いた。
「春く――」
ガクンと視界が揺れて体勢を崩しそうになり凌にしがみ付く。そうする他なかったし、彼が急に動き出したせいだから仕方ない。
侑莉を抱きかかえたまま出て行こうとしているようだ。
「好きだったよ。……ちゃんとって言ったら変かもしれないけど……でも」
最初は誰でも良かったのかもしれなかった。ただ優しく手を差し出してくれる人ならば、それが千春でなくとも心は傾いたかもしれない。
だったとしても、侑莉の傍らに在ったのは間違いなく千春で、当時の侑莉の心が傾いた相手は千春以外の誰でもなかった。あまりに動機が後ろめたくて言えずにいたけれど。伝えておきたいと思った。
本当はもっと早くに言わなければならなかった事だ。
ちゃんと伝わっただろうか。
千春が視界から消える瞬間、寂しそうに笑ったのが見えたから、大丈夫なような気がした。しかし大丈夫でないのは自分の方ではないだろうか。
今に至るまで一言たりとも声を出していない凌の表情は、担がれていては見る事も叶わない。いや、確認してしまうのも怖い気がするが。彼が一体今何を思っているのか、少しでも解ってしまうのが怖い。
廊下に待機していた皐月達は呆然と侑莉と凌を見送り、ただ瑞貴だけがやたらと笑顔で手を振っていた。生徒に加えて一般人もいる学校の中を闊歩すれば注目の的になるのは必然。
だが凌は僅かも意に介したりはせず、堂々と歩いていた。そして侑莉もまた何も言えず、身じろぎも出来ずにじっと凌にしがみついていた。進行方向から後ろ向きになっている侑莉にも、彼が校門へ、学校の外へと向かっているのだと分かる。
何処へ、など聞くまでもなかった。
学校を出たところから降ろされた侑莉だったが、掴まれた腕が痛みを訴えるほどの力で拘束されている。逃げ出すのを阻止するようだ。
歩む速度は侑莉の事を無視していて、何度も足が縺れて転びそうになっても一向に改められる様子がない。だが侑莉が口を開き、それでも結局は言葉にならずに凌の背中を見つめているのは、そんな事が言いたいからではなかった。
彼の名すら呼べない。重苦しい空気に包まれながら辿り着いたのは、やはり凌のマンションだった。
靴を脱ぎ捨ててリビングまで来ると、力一杯壁に押し付けられた。乱暴に背を打ったせいで息が詰まる。
だが呼吸を忘れたのは今日初めて、そして数ヶ月ぶりに合った目のせいだ。相変わらず鋭い眼差しに射抜かれて、状況も忘れて歓喜した。
覚えていてくれた。こうして連れて来られたという事は、まだ何かしら気にはしてくれていたのだろう。
それがどんな感情であっても構わなかった。文句を言われるだけであっても、ただ何か荷物が残っていたから持って帰れというだけであっても。どんな些細なものでもいい。
凌の中にまだ侑莉の存在があるのならば。
「あの、どうして――」
漸く紡ぎ出した言葉さえも口を塞がれて奪われた。突然の事に驚いて身を引こうとしたが、壁に背をつけた状態では動く事は出来ない。
凌を押そうと持ち上げた手は、しかしただ彼の肩に置かれただけだった。
嫌がる素振りでさえする余裕はなく、凌の真意が分からないというのに、与えられる熱に酔い痴れた。
何故ここに連れて来られたんだろう。どうして口付けられているんだろう。
重なる体温が離れていかないようにと縋る侑莉を抱き止めてくれるのは。
「侑莉」
思考が溶けて無くなる直前、今まで侑莉を塞いでいた凌の唇が名を紡いだ。少し掠れた声で。
至近距離から見下ろす凌の瞳から感情を読み取るのは難しいが、その分声が雄弁に語っているようだった。
以前はこんな風に名を呼ばれた事はあっただろうか。疲労と焦燥なんて、凌に似合わないとずっと思っていた。そんなものは存在しないように思わせる人だった。
なのにそれ等が滲む、少し掠れた声は驚くほどの拘束力を有していた。たった一言、名前を呼ばれただけで侑莉は何も言えなくなる。
いや、言葉を発すれば泣いてしまいそうだ。何も言い出せない侑莉の頬に凌の手が添えられる、その直前で止まった。
躊躇する彼が信じられない。瑞貴が言っていたのはこの事なのだろうかとふと思った。
思い知るべきだと彼は言っていた。
知らない。
眉を寄せる、どこか苦しそうな表情も
触れるべきか、悩む仕草も
堪えきれず溢した様な、名前の呼び方も
知らなかった。凌はこんな人だったなんて。侑莉と同じように考え迷う事があるのだと。ふいに凌の髪が頬に触れた。右肩に重みを感じる。凌が侑莉の肩に頭を預けていた。




