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真夏の夜に  作者: 裕
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夏の欠片4

「マスター祝杯をあげたい気分だ。焼酎を一杯くれないか、ロックで」

 横を通り過ぎようとした店員を呼び止めた瑞貴の足に、凌は蹴りを入れた。愛想笑いを浮かべた店員は注文の部分だけを繰り返し、そそくさと厨房へ戻っていく。

 完全に酔っ払っていると思われたのだろう。

「馬鹿が」

「こっちのセリフだ! んな惚気話を素面で聞いてられっか。へーへー良かったですね幸せそうでぇ。その幸福オーラの八割を俺に寄越せ」

「ドブに捨てた方がまし」

「おっまえ、俺がどんだけ助言忠言してやったと思ってんだよ」

 知らん、そう言うと凌は来たばかりの焼酎を瑞貴が取るより先にかっさらった。

「そんな憎たらしい事ばっか言ってると愛想尽かされるぞー」

「あり得ん」

 このくらいで嫌になるなら、もうとっくに家に帰っているはずだ。侑莉は凌のマンションに居たいと言っていた。つい先日の話だ。

 照れもせずしれっとしている凌に、瑞貴はアホらしくなってきたと言わんばかりに身体を背もたれに投げ出した。

「で、いつ渡すんだ?」

「いつでも」

「まー俺等の努力を無駄にせず、せいぜい長続きさせてくれや」

 なんだかんだと言っても親友の事だから嬉しくはある。多少引っかかるところはあれど、これは瑞貴の素直な願いだった。


 瑞貴と別れてマンションまで戻ってきた凌は、部屋全体が真っ暗になっている事に違和感を覚えた。

 時間が時間なだけに侑莉はもう寝ているのかもしれないと思いな直す。けれどリビングの電気をつけた瞬間、首を捻った。帰ってきたときに部屋が暗いだけで違和感を感じたことなどない。

 凌の帰りが遅くて侑莉が先に寝ているなんてことは今までに何度もあったし、侑莉がバイトで凌の方が先に帰ってきている事もあった。

 ならばこれは何だろう。

 得体の知れないものを引き摺りたくなくて、侑莉に訊いてみる事にした。起こしたとなれば文句も言われようが、このままでは凌が眠れそうもない。

 そして一瞬視界に入って来たテーブルの上に物が置かれているのに気付いた。いつもはリモコンくらいしかない、リビングのローテーブル。

 それさえも今は侑莉が買ってきたリモコンラックに入れられているのに。

 あったのは凌の携帯電話とメモ用紙。そして封筒。メモ用紙に伸ばしかけたては、一行目に書かれている文のせいで動きを止めた。

『長い間お世話になりました』

 丁寧な字でそう書いてあった。

『鍵はポストの中に入れておきます』

 その下に追記されているのはそれだけ。事務的な言葉は、逆に事態の把握を遅らせた。

 意味が分からない。舌打ちをしながら横を向いて、はたと思い至った違和感の正体。

 侑莉がここに住むようになってから増えたものが全て消えているのだ。

 玄関の靴、棚に並べられた食器、テーブルクロス、調味料に至るまで、見事なまでに以前の状態に戻っていた。侑莉が来るより前に。

 あんなにも色濃く存在していた侑莉の気配が根こそぎ無くなっている。どうして玄関を開けた瞬間に気付けなかったのか。

 無駄な足掻きとは分かっていても、侑莉の部屋や洗面所も隅から隅まで確認して、そして一つとして彼女がここに居たのだと証明するものが残されていない事を思い知らされただけに終わった。

 ずっと握り締めたままになっていた封筒に目を落とす。何となく察する事は出来たけれど、封を開けて見えた中身に瞬間的に怒りが湧いた。

 テーブルに叩きつけようとして振り上げた腕は途中で力をなくし下に落とされただけ。

 封筒の中に入っていた数枚の一万円札が侑莉が唯一置いていったもの。このお金の出所など考えるまでもなく侑莉のアルバイト代である事が解る。

 そんなどうでもいい事ならいくらでも理解出来るのに。

「お前……何がしたかったんだ……」

 肝心の侑莉が何を考えているのかが解らない。何が気に食わなくなった。どうして出て行った。

 離れたくないんじゃなかったのか。責任を取れと言ったのはお前だろうが。

 手放してやる気なんて更々なかった。ちゃんとそう言ったはずだ。

 本当に侑莉は凌を苛つかせるのが上手い。怒鳴りつけてやりたいのに、本人が居ないのでは話にならない。

 テーブルの上に置かれている携帯電話を見た。今になって返されたところで、侑莉の連絡先など載っていないのだから必要のない物だ。

 連絡先だけじゃない。二ヶ月間、特に後半の一ヶ月は当然のように一緒にいたというのに、考えてみれば凌は侑莉の事を何も知らない。

 侑莉という本人の名前、過保護な父親と生意気な弟がいる。

 情報として持ち得ているのはその程度だ。彼女の名字さえも聞いたかどうか定かではない。

 それも全て侑莉が凌の元から去りはしないだろうという思い込みで、改めて尋ねる必要性を感じなかったせいだ。

 例え夏休みの終りと共に家に帰るとしても、まさかこんな風に何も言わずに居なくなるなんて思わなかった。侑莉の凌への想いは紛れもなく本物だったから。

 信じて疑わなかった。これからもその想いが変わる事はないと。

 これまでの人生で凌から一番縁遠い感情だったけれど、それでも確信を持てたのは凌だって同じだったからに他ならなかった。持て余す慣れない感情をどう処理すればいいのか凌には分からない。


 お前が戻ってきてどうにかしろ


 夏の始まりにひらりと舞い込んできた蝶々のような存在は、夏の終りに忽然と姿を消した。



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