夏の欠片3
買い物を済ませてマンションの下まで帰ってきた侑莉は、震える携帯電話の振動に気づいて立ち止まった。
バックから取り出した電話のディスプレイに表示されている番号に握る手に力が入った。暫く眺めていても一向に鳴りやむ気配がない。
今相手はどんな気分なんだろう。凌が出るのを今か今かと待ちわびているはずだ。侑莉が取った瞬間、どう思うだろう。
とっさに電源を落とした。振動がなくなるのと同時に真っ暗になった液晶画面に安堵する。
こんなことしたって意味がない事くらい解る。電源を入れ直せばその番号がまた出てくるだけなのだ。
それでも、そうだとしても、もう侑莉には電話を取る勇気がなかった。もし侑莉が夏休みをここで過ごす事がなければ、初めから家出などしていなければ、凌はこの人と連絡を取ったのだろうか。
いつか嗅いだ、凌の服からした女性用の香水の匂いを思い出して息が詰まる。あの時は何も思わなかったのに。
「侑ちゃん?」
電話を凝視していた侑莉は、弾かれたように顔を上げた。久しぶりに聞いたその声に驚いて。
「こんなところで何やってんの?」
「春くん……は学校帰りだね」
近づいてくる安部 千春に向かって侑莉は笑った。彼はこの丘の上の学校に通っている。
「一年ぶりくらいかな」
「もっとだよ」
そうだ、最後に会った時はまだ彼が高校に上がったばかりだった。背が伸び、顔つきも随分と大人びた。
髪を明るく染めてピアスもして別人のようだけれど、口調や表情などは以前のままだ。別れる前と何ら変わりない。
「その荷物……彼氏でも住んでるの? このマンション」
食材の入ったスーパーの袋を見ての事だろう。千春は尋ねたが、侑莉は首を振った。
「そんなじゃないよ」
言いながら苦しくなるけれど。自分と凌の関係はと訊かれれば、やはり家主と居候というのが一番正しい。
恋人なんて煩わしいものは作らない。そう言っていた彼だ。
鬱陶しいなんて思われたくはない。だからこの距離間でいい、これで間違ってないはず。ちょっとだけでも他の人より近くにいられるのだから十分だ。
「……侑ちゃん大丈夫?」
俯いたまま喋らなくなった侑莉を覗き込むように千春が覗き込む。
本当に変わらない。気遣いは小さい頃から培われてきた彼の専売特許。
嬉しくもあり、同時に申し訳なさが募る。もう千春にもたれ掛かるわけにはいかない。あんな事は二度と起こしたくないから。
「大丈夫だよ、ありがとう」
そうだ、もう絶対に繰り返さないと決めたのだ。だからずっと父親にうるさく言われようと千春と別れてから好きな人を作る気になれなかった。
「……うん、そうだった。ねぇ春くん、一つ巧に伝言お願いできるかな」
昔の夢を見た。千春に会ったからだという単純な理由に、起きた瞬間に思わず笑いが零れる。
あの夢を見て自分は笑えるのか。そんな心境の変化に驚きもした。それもまた分かりやす過ぎるほど凌のおかげで。
このまま当時の感情は薄らいでいくのだろうか。けれど侑莉はその事を良しと出来ない。まだ生々しく思い出せるから。
車のスリップする音と赤く染まる地面
掴まれた腕の感触、鬼気迫る声
全てをまだ鮮明に覚えているから。忘れないと決めたのだ。もう絶対に同じ事は繰り返さないと。
友人はそれはただの逃避だと言った。この気持ちを抱え続けるのは無理だとも。
そして彼女の言う通りとなった。侑莉は弱い。だからすぐに誰かに頼り、寄りかかる。
凌のように一人で立っている人に憧れを抱くのは当然で、侑莉の意思とは関係なく気持ちは恋愛感情に移行していった。
カチャリとドアの開く音がして、思考が浮上したと同時に侑莉は部屋から飛び出した。
「香坂さん!?」
「ああ、はよ」
「おはようございます、え、もう……出るんですか?」
凌は既に玄関のドアを開けて出て行こうとする直前の体勢だ。
「なんか今日は早く出て来いだと」
「そういう事は昨日の内に言っておいて下さい!」
もう少しで二日連続で寝過ごすところだった。腰に手を当てて怒る侑莉を、こいつはどこの母親だと思いながら凌は眺めていた。
作り手の気分によって和食になったり洋食になったり、ころころと変化するが食べ物が出てこない日はなかった。
それなのにここ二日作れなかったのが侑莉としては悔しいのだろう。
一人で生活していた時などは食べないのが普通だったのに、二ヶ月前の朝がどうだったか思い出すのに数秒を要するほど、これが凌の日課になっていた。
侑莉は侑莉で、三人分の分量がどんなものだったか忘れそうだと言っていた。お互い、二人での生活に慣れるのに一夏という長さは十分だったらしい。
「分かった分かった、今度から言うようにする」
適当な返事をする凌を侑莉は据わった目でじとっと見、すぐに瞳を閉じた。
"今度"
侑莉がここにいる事を前提とした会話。どうして当然のように言ってくれるんだろう。
無理に転がり込んできた、迷惑以外の何者でもない侑莉なのに。
だからついつい甘えてしまうのだ。
いいんじゃないかと、我が侭を言っても凌なら大丈夫じゃないかと。
決心が揺らぐ。迷惑をかけたくない。重たい存在にはなりたくない。
でも、離れたくない。
「……香坂さん」
呼べば見返してくれる。それだけで、こんなにも心地よく思ったことなどない。今手を伸ばしたら、受け止めてくれるだろうか。
侑莉と同じ期待を一体どれほどの女性がしてきたのか知れない。凌を欲するのは侑莉一人ではないのだ。
きっと侑莉のようにどうしようもなく凌を求めて、そして電話を掛けてきた人もいただろう。侑莉は、そんな彼女達を電源ボタン一つで切っていっている。
残酷なことをしている。手を伸ばすことは出来なかった。
「いってらっしゃい」
結局、最後はいつも通り柔らかく笑んで凌を送り出した。
凌が残す侑莉の記憶が、みっともなく縋る姿より笑顔の方が綺麗に終われるような気がしたから。




