夢見鳥
凌が朝起きて携帯電話を見ると、新着メールが一件入ってきていた。差出人は瑞貴で、何故だか舌打したい気分になる。内容を読んでから本当にチッと舌打をして乱暴に携帯を閉じた。
リビングは電気もつけられておらず静まり返っていて首を捻る。ほんの一月前まではこれが当たり前だったというのに、侑莉がいないという事実に違和感を覚えた。
まだ起きていないのかと思ったが、テーブルの上に作り置きされた朝食がラップに包まっているから、どうやら朝一でアルバイトに行っているらしい。
だから別に作らなくていいと言ったのに。これでまた自分は食べていないなんて言うようなら、どうしてやろうか。少し突付けば面白いくらいに慌てふためく侑莉を想像して、自然と表情が柔らいだ。
来客を告げるチャイムが鳴り、この一ヶ月で身についた習慣で、反射的に侑莉は入り口を振り返った。
「いらっしゃ……香坂さん!」
笑顔を作りかけてから、すぐに驚きに変わる。凌はそんな侑莉を横目で見ただけで店の奥へと進んだ。初めから買うものを決めていたのか、足を止めることなく棚から商品を一つとってレジに持っていった。
「おはようございます」
「ん。朝飯食った」
「はい、良かったです」
何故か緊張していた侑莉は、安心したように笑った。
「お前も食ったんだろうな」
「わ、私はこれからです! もうすぐバイト終わるので、それから食べようと」
でこピンの一発でも食らうのではないかと警戒して身構えた。こういう時の凌は容赦がない。
だが、聞いていないのか侑莉の答えに何の反応もせず、お金をカウンターの上に置き、まだ袋に入れられていない商品を取り上げた。
よく分からないが良かったと警戒を解いた瞬間、今しがた購入したばかりの商品を額に押し付けられ「うっ」と小さな声を出してしまった。
「それくらいなら食べられるだろ」
持たされた飲むタイプのゼリーと凌を交互に見ると、今度はまだ僅かに額に残る冷たさを失くすように軽く手を当てられた。
「ありがとう、ございます」
店から出て行こうとする凌の後姿に、何とかお礼だけを返す。急に上がった体温に、手のひらに乗っているゼリーの冷たさは心地良い。
ぼんやりと眺めていると視界の端に人影が見えて、ギョッと目を剥く。オーナーが棚から体半分だけを出して、侑莉の方を覗いていたのだ。
「いやぁービックリした。なんのドラマのワンシーンかと思ったよ。彼は家主さんだよね? なんか聞いてたのと大分キャラ違ってたから分かんなかった」
「だから香坂さんは優しいってずっと言ってたのに……」
口を尖らせる侑莉にオーナーは笑った。以前、侑莉がここに来てすぐの頃に一度だけ見た凌とも受ける印象が違っているように思えた。
凌といる事で侑莉に少しでも変化が望めないかと希海と言っていたが、どうやら凌も変わってきたらしい。
相乗効果があるなら、それは嬉しい事だ。
「それ、バックで飲んできていいよ。どうせもうピークは過ぎたし」
朝は通勤時間は混雑するが、それを抜ければ後はちらほらとしか客は来ない。気を利かせたつもりだったが、侑莉はゼリーを見つめたまま動こうとしない。
「侑莉ちゃん?」
「いえちょっと勿体ないなって」
「侑莉ちゃん! 頭撫でていい? まるで子犬のように撫でくり回していい!?」
「それは……」
侑莉は小走りでカウンターから出てバックルームへ逃げ込んだ。蓋を開けてゼリーを一口含むと、もうすでに温くなり始めていた。
昨日思い知ったばかりなのに……。
凌が侑莉に触れるのも、気にかけてくれるのも、ただの気紛れだと。分かっていても嬉しくて、嬉しいから困る。
今までなら瑞貴がいるからと一線を引けていたのに、男だという事実が発覚してしまったからには枷にはならない。
それどころか、凌の態度が目に見えて柔らかいものになってきたから、余計に気持ちの度合いが大きくなってきているように思う。父親への反発心からくる思い付きに凌を利用しようとした罰が当たったんだろうか。
「あれ、侑莉さんおはよう」
侑莉と交代でシフトに入っている希海がバックルームに入ってきた。笑っておはようと返すと、希海は怪訝そうに眉を顰める。
「大丈夫?」
「え? うん。大丈夫だよ。……何が?」
頭を抱えたい悩みはあるが、体調は至って良好だ。それとも、相当おかしな顔でもしていたのかもしれない。
だが希海は表情を変えず、ジッと侑莉を見つめた。侑莉に「大丈夫?」などという質問は意味をなさない。絶対に首を横に振ったりしないからだ。
それでも聞いてしまうくらいに危うい。精神的に追い詰められれば、いずれ身体の方にもその影響は表れてくる。
本人が気付いていないだけで、今の侑莉は随分と顔色が悪い。オーナーは何で気付かなかったんだとドアを睨む。
「オーナー!」
荒々しくドアを開けて呼びつけると、希海は腕組みをして黙り込んでしまった。理由は侑莉には分からないが、怒っているようだ。
「はーい、なになに」
「なにじゃないです、どうしてこんな侑莉さんを普通に働かせてたんですか!?」
暢気に入ってきたオーナーに、掴みかかりそうな勢いで詰め寄る希海。こんな、と指を差された侑莉はチラリとオーナーを見る。
「えと……、侑莉ちゃん気分悪いの?」
「あーもう、どうしてオーナーは肝心な所で鈍感なんですかね!」
変なところで驚くほどの洞察力を発揮するオーナーだが、それはいまいち使い物にならないと希海は苛立つ。
だが侑莉自身が気付かずに平然としているのだから、オーナーや凌が察するのは難しいだろう。希海が敏感すぎるのだ。
「とにかく! これ以上家主さんだけに任せてたら間に合わなくなりそう」
希海は侑莉の方を向いて、それから視線を彷徨わせた。
「侑莉さんどうしてそんな普通にしてられるの?」
「そう言われても……元気だから」
嘘つき! と叫びそうになったのを堪えた。そんなわけがない。その証拠に、侑莉はほとんど食べていないと思われる。
よく晩ご飯は何を作るのか、昨晩は何を食べたのかと尋ねたが、滅多に答えが返って来た事はなかったし、痩せた。ただの夏バテかとも思ったが、原因はそれだけじゃないと確信が持てた。
今まで気付けなかったのが悔やまれる。凌がいれば何とかなるだろうと、楽観視した自分に腹が立った。
「侑莉さん病院行こ? 点滴してもらおう。このままじゃいつ倒れてもおかしくないよ」
「き、希海ちゃん……?」
戸惑う侑莉の腕を引っ張る希海をオーナーは制した。
「侑莉ちゃん、家まで送るよ」
「オーナー!」
「応急処置より、問題を根本的に解決させた方が早い。やっぱりそこは家主さんに任せよう」
もともと弱っていた侑莉に追い討ちを掛けたのが凌なら、それを取り除くのも凌にしてもらうべきだ。
「ほら、早く着替えて」
「いえ、すぐそこですから歩いて……」
「侑莉ちゃん」
決して強く言ったわけではないが、有無を言わさぬ迫力があって、侑莉は小さく頷いた。
「今日はちゃんと休んでよ? 絶対無理しちゃダメだからね?」
「うん、分かった。ありがとう」
あまりにも希海が心配してくるものだから、大丈夫だと言って無碍にするのも気が引けて素直に受け入れる事にした。歩いてもたかが知れている距離を車で送ってもらい、マンションの前で停止したのを見計らって侑莉はシートベルトを外した。
「希海ちゃんは人の苦しみとか辛さにすごく敏感な子でね、でも不安を煽るような心配の仕方はいつもしないんだ。あれだけ騒いだって事は、自覚がないだけで侑莉ちゃんは今よっぽど自分で自分を追い詰めてるんだよ」
「悩んでる自覚はあります」
「うん。今日は悩むのお休みにしてゆっくり寝てね」
「……分かりました。送ってくれてありがとうございます」
降り際にお礼を言うと、まだこれから一日が始まる時間だというのに「おやすみ」と返された。オーナーの言う通り、ゆっくりと眠れたら希海にあそこまで心配されずに済んだかもしれない。
侑莉は一度寝てしまうと目覚ましが鳴るまで絶対に起きなかったが、最近では眠りが浅く、風の音でも目を覚ましてしまうくらいだ。
そのお陰で朝早い日のバイトにも遅刻する事が無かったが、ずっと続けば疲れは溜まる。
結局、侑莉はいつものように掃除と洗濯を終わらせて、一段落した所でソファに座り込み、そのままズルズルと寝転がった。
開け放ったベランダの窓から風が入り込んできて気持ちが良い。夜とは違って目を閉じても瞼の裏に明るさを感じられてどこか安心出来た。
凌に簡単に謝るなと散々言われてきたが、そういえば謝り癖がついたのはいつの頃からだっただろうか。
まどろんでいく意識の中、ふとそんな事を思った。
そして頭に浮かんだのは、母親の棺の前で静かに涙を流す父親の背中と、そんな父親を手を繋いでずっと後ろから眺めている幼い頃の侑莉と巧の姿だった。
ごめんね、ごめんね。心の中でずっとそれだけを唱えながら――




