メランコリー4
スーパーに寄ってからマンションに帰ると、凌が既に帰宅済みだった。
「おかえり」
「ただいま……です。香坂さん早いんですね」
「今日はな。まぁこれからも暫くはそんな遅くなる事もない」
凌はテレビを消して荷物を片付けている侑莉の方へと行った。
テーブルに置かれているスーパーの袋の横に何枚かの小さな紙切れを見つけて取り上げてみる。
「なんじゃこら」
それらは名刺や、電話番号が書かれたメモ帳やらで、全部違う男の名前が書かれていた。
「ああ。バイト中にお客さんにもらったんです」
「へぇ」
パラパラと捲って一通り目を通すと興味を失くしたのか、名刺達をゴミ箱に投げ捨てた。冷蔵庫に食材を入れながら、目の端で凌の動作を捉えた侑莉はギョッとして向き直る。
「え、今名刺……」
「は? お前連絡すんのか?」
「しません、けど」
「だったら捨てても問題ないだろ」
凌の言う通り、使い道はないから捨てても困りはしない。とはいえ、もらってしまったものをこんなに簡単にゴミ箱行きにしてしまうのは気が引けた。
悩んだ末、ここで凌を押し切ってまであれが欲しいわけでもないと自分に言い聞かせる事にした。
そして、また荷物を仕舞いながら、チラッと凌を盗み見た。まさか名刺を勝手に捨てられるとは思っていなかったが、彼の態度は至って今まで通りだ。朝、いつもより表情が柔らかく感じたのは気のせいだったのだろうか。
ただからかわれていただけなら、それでいい。
「お前変な奴に付きまとわれても気付かなさそうだな」
「えぇ? なんですかそれ!?」
どこからそんな話に飛んでいったのか、突拍子も無い凌の言葉に侑莉は思わず声を荒げた。凌の中ではそれなりに流れがあってそこに行き着いたのだが、一々説明する気はない。
「一人で出掛ける時は十分気をつけろって事だ。そんな抜けた顔してたら速攻で茂みに連れてかれるぞ」
「や、やめて下さい! 香坂さんが言うと生々しいです!」
「どーいう意味だコラ」
侑莉の腕を引いてから冷蔵庫に押し付けた。もう片方の手を侑莉の顔の隣につけば、簡単に動けなくなる。
目を白黒させる侑莉の細い首を、凌は黙って撫でた。
「ていうか、細すぎだろ」
まだ拘束したままの腕も、少し力を込めれば折れてしまいそうなほどだ。改めて見てみると、不健康とまでは言わないにしてもよく痩せている。
思い返してみて、侑莉がまともに食事をしている所を見た事がないように思う。
いつも凌が食べ終わっても彼女の皿は殆ど減っていなかったし、凌が席を立って戻ってきた時には何食わぬ顔をして片付けをしていた。今日の朝だって、凌にと作っていた料理を昼と夜に分けて食べると言っていなかっただろうか。
そして、侑莉がここに来てから冷蔵庫に居座るようになったゼリー類。
「今日の昼は何食べた」
「え? えと……お茶を」
「それは飲み物だ」
急にうろたえ出した侑莉に、やっぱりなと舌打ちをした。
「朝作ってたろ、あれはどうしたんだ」
「あれはバイトに持っていって食べてもらいました」
「人に配りまわってないで自分で食え!」
多分、ずっとこの調子だったのだろう。侑莉の拘束を解いて凌は溜め息を吐いた。
弟が言っていたのはこの事だったのか、と。以前、侑莉の弟に頼まれていた。
「もしも侑莉がご飯食べてなさそうだったら無理にでも食べさせろ」
姉と同じ顔をした少年が、姉が絶対に口にしないような命令口調で凌にそう言ったのだ。あの時は、そんな事知るかと思っていた。
殆ど顔も合わせていないのに、分かるわけがない。だけど今ははっきりと分かる。
「取り敢えず晩はちゃんと食え」
「え」
侑莉は眉を下げてジッと凌を見上げた。食欲がないから食べられないという意思の表れだろう。
「自分で食べるか、俺が口移しで食べさせるか」
「わ、わ、食べます! 自分で食べます!」
究極の選択を迫られて、迷うことなく前者を選んだ。実際にはしないだろうが、凌は真顔で言うから怖い。
「ったく。何で自分で食べられそうなもん作らないんだ」
「そうなんですけど、いつも自分の分作る前に力尽きて……」
「お前のを先作れ! いや普通は、あー本当お前バカだろ!」
信じられない。先に作っていたのは凌の分だろう。
凌は毎日のように侑莉が晩ご飯を用意していた事を知らなかった。何度も冷蔵庫の開け閉めをしたはずだけど気付きもしなかった。
それでも作り続けてたなんてどうかしている。しかもそのせいで侑莉自身は食べられてないという。
凌はいつも帰って来るのは夜中で、料理は無駄になる。普通はすぐに分かりそうなものだ。作っても無駄になると。だけど、ごくたまに早く帰って来ては侑莉にご飯を作らせたから、もしかしたらと思っていたのか。
大きな声を出した凌に驚いて、目を瞬かせている侑莉の手をもう一度掴んで引き寄せた。肩口に額を押し付けて顔を埋める。
「香坂さん?」
黙ったまま動こうとしない凌に戸惑ったが、不思議と退けようとも手を振りほどこうとも思わなかった。
「侑莉」
侑莉がビクリと肩を震わせたのを感じ取って、凌は顔を上げた。
「メシ」
「……あ、はい」
間近にある凌の整った顔をまともに見られなくて目を逸らした。ずっと苦手だと思っていた瞳がすぐそこにある。
自分と正反対の凌が怖いと思っていた。でも、それだけじゃない。それだけならきっと、もうとっくに家に帰っていただろう。
初めから、ここに居座ろうという気にならなかったかもしれない。私が縋っていたのは、この場所じゃない。香坂さんだったんだ。
憧れていたのかもしれない。自分とは正反対の凌に。同じようになるのは無理でも、少しくらい強さを分けてもらいたかった。
そして、ちょっとは違う自分になって帰る。これが侑莉がここにいる目的だった。
何をするにも誰かに頼りっきりな弱さをなんとかしたい。そう思っていたのに、気付いたら侑莉は凌にさえ甘えて縋っていたのだ。
一時的にとはいえ居場所を与えてもらった事で、侑莉自身が受け入れてもらえたような錯覚に陥ってしまったのかもしれない。
そんなはずもないのに。
なんて馬鹿なんだろう。好きになるなんて。相手が凌なら、望み薄なんてものじゃない。きっとこの気持ちがバレようものなら「鬱陶しい」と言ってここから追い出されるだろう。
そして次の日には侑莉の存在など、綺麗さっぱり忘れ去る。凌はそれが出来る人なのだ。
そうと解っているのに、凌の事が好きで、名前を呼んでもらえただけで、泣きそうになるくらい嬉しい。
「最低……」
今侑莉が使っている部屋は、瑞貴という女性の部屋だ。
恋人を作るのは煩わしいと言っていてた凌と彼女がどういう関係なのかは知らないが、侑莉が間に入っていけるわけもないだろうし、入ろうと思っているわけでもない。
むしろ侑莉の存在は邪魔にしかならないし、これ以上凌に迷惑を掛けられない。
もうここにいない方がいいのに、一度自分の気持ちに気付いてしまったら離れ難いと思う心まで生まれてきた。
どこまで行っても弱い自分に心底嫌気が差す。
夕食の後片付けをしながら零した言葉は、蛇口から流れる水音がかき消してくれるはずだった。
「最低って、凌が?」
「違……っ!」
ただの独り言に返事が返ってきて、その発言で相手が凌ではないと考え付く前に反射的に振り返った。
「え」
目の前に居たのは見た事のない男。凌は今お風呂に入っているはずだ。
だから声がした時点で分かったはずなのに、全く知らない男が家に堂々と不法侵入してきているという事態に頭がついて行かず、反応が遅れた。
一瞬、侑莉の顔を見て時間が止まったように固まった男が弾かれた様に我に返って、抱きついてきた。
「きゃぁーーー!!」
「あ、こら……しーっ!」
男は慌てて侑莉の口を手で押さえたが、切迫した悲鳴は向こうにいた凌に届いたらしく、すぐに荒々しくドアが開いた。
「侑莉!? ……一秒以内に俺の視界から消えろ、このカス!!」
ゴンと何かが侑莉に引っ付いている男の頭に当たって床に落ちた。カラカラと軽い音を立てて回っているものは金属の灰皿だった。
痛みに男が蹲ったのを見計らって、侑莉は凌に駆け寄る。
「香坂さん……あ、あの人が勝手に!」
「ああ大丈夫だ。瑞貴、不法侵入で警察に突き出すぞ。ていうか一秒以内に消えろっつっただろう、さっさと出て行け」
凌の常より低く威圧感のある声に、背に隠れている侑莉の身体が緊張して硬くなった。
「お前は物理的に無理な要求をさらっとすんじゃねぇよ! しかもめっちゃ痛いだろうがーっ!」
「喚くな駄犬。警察より保健所に連絡するか?」
「てんめぇ」
「あの!」
一人、置いてけぼりを食らっていた侑莉が遠慮がちに口を開く。二人は言い合いをやめて侑莉を見たが、視線が集中するとそれはそれで居心地が悪い。
聞き流せない言葉があった。さっき凌は瑞貴と言わなかっただろうか。だけど瑞貴は女性のはずだ。そうでなければ説明がつかない事が多い。
女物の化粧品や入浴セット。そんなものを目の前にいる男性が使っているとも思えない。一体何がどうなっているのか。
自分だけが除け者になっているような気分になってきて、堪らなくて凌の服を掴んだ。
「なんだ?」
「あ、いえ何て言うかその、瑞貴って女の方じゃないんですか?」
「お前……頭と目、大丈夫か?これが女だっていうなら俺は女嫌いになるぞ」
「凌はホンット失礼な奴だな! 俺が女になったら美人に決まってんだろ!」
「そういう話じゃなくて」
どうしてこの二人は見事に会話を脱線させてしまうんだろう。うまく自分の持って行きたい方向に話が流れていってくれない。
「メイク落しとか化粧品、色々置いてあるの瑞貴さんのだって」
「まだ置いてたのか。あれは凌がここに女連れ込んだ時に、揉め事に発展しないかなぁっていうちょっとしたお茶目心でな!」
瑞貴は笑っているが、それが現実に起きれば笑い事では済まされない。
「女なんか連れ込まんから意味ないって言ってんのに」
呆れながら言う凌の言葉に、瑞貴は「いやここにいるだろう」と侑莉を見た。
それに気付いた侑莉は眉を下げて笑う。 凌は侑莉を全く女として見ていないのだとはっきりと言われた事になる。




