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第八章

黄泉の国に旅立った明来を追っていく智加。全てを捨ててもいいと投げやりになった明来を止めることができるのか。


第一部、完。

第二部へ続きます。

第八章


 火事は、明来が中学三年の冬の深夜に起こった。


 三軒つながりの二階建ての木造アパートで、その二階の真ん中に明来の家族は住んでいた。父親は月の半分は移動や泊まりだ。その日も母と二人っきりだった。


 真っ暗な中、気づいた時には部屋中煙だらけで、明来は動くこともできなかった。煙が目に入り、呼吸ができない。なにかが覆いかぶさってきたと思った瞬間、気を失った。

 気づいた時は病院のベッドの上で、消防隊員に助け出されたあとだった。


 そこで、母の死を知った。


 明来は遺体安置室へ走った。母の遺体には、白い布が掛けられていた。火傷でべろんと皮の剥けた手が、布からはみ出していた。赤黒く変色し、ところどころ真皮の赤い肉が剥き出しになっていた。


 明来はその場に泣き崩れた。母の顔を見ることは、できなかった。


 アパートは全焼で、何もかも焼けて洗ったようになかった。

 誕生日に買ってもらったゲームも、家族で焼いたお揃いのマグカップも、嫌いだって言った母の香水も、母がいつもつけていた百合の花のエプロンも、何もかも燃えてしまっていた。


 明来の中にあるこの小さな爪だけが、母と自分を繋ぐものだった。



「これしかなかった。全部焼けて、思い出も焼けて。お母さんの、これしかなかったんだ」



 真っ白い閃光が明来の目を貫いた。しばらくして目を開けると、そこはなんと大海原だった。目の前に忽然こつぜんと現れた大海。ぐるりと見回しても、島の一つさえなかった。延々と続く青い空と青い海。一面真っ青な世界だ。


 明来は唖然となった。


 一体ここはどこなのか、何が起こっているのか理解できない。


 ふと下を見ると、なんと明来は空中に立っていた。下には鏡のように光る水面だ。さわさわと揺れるさざ波に、光が反射して自分の姿が映っていた。


 足の下にはなにもない。見てしまった瞬間、一気に血の気が引いた。


(落ちるっ)


 わっと両手で顔を覆った。


 刹那、後ろからばっと出てきた腕に、明来は抱き止められていた。


「大丈夫。落ちない。お前は落ちない」


 顔を見ずとも、それが誰なのか判った。しっかりと抱きとめられた腕を、明来はひしと掴んだ。するとその腕が、すっと伸びて前方を指差した。


「顔を上げろ。真っ直ぐ前だ」


 恐る恐る前を向いた。足の下には何もないのに、その言葉と腕が、自分をしゃんと立たせていた。目の前で波が渦を巻き始めた。それが柱のように立ち上り、中心に母が忽然こつぜんと現れた。


「お母さん?」


「思い切るんだ。お前の母親は逝けずに、ずっと迷っている」


「いやだ。お母さん。いやだぁっ。オレも行く、あっちへ、行く」


 明来は声が上擦った。涙が止まらなかった。柔らかな髪。茶色い猫毛。顔は丸く、ふっくらとした口元。母だ。母が目の前に立っている。どれだけ恋がれたか。


「ばかを言うな」


「放せ。お前ならできるんだろ? オレを行かせてくれ。もういやだ。我慢ならいっぱいしてきた。誰にも心配かけないよう、頑張ってきたんだ。でも、もうぅ無理だ。お母さん、お母さん。一緒にいたい」


 延ばした手の先に、母がいた。


「お母さーんっ」


 前へ出ようとする身体を、背後から強い力が引き止めた。


「放せぇ、とうじ。お前には関係ない」


「……っ」


 一瞬、耳に届いたのはしんとした声だった。ずしりと背中に体重がかかる。わずかに震えた小さな声。


「東辞」


 智加を見ると、唇を噛んで目を閉じていた。ぐっと噛み締めた表情。黒い髪の毛が覆いかぶさり、その目から一筋の涙が流れていた。真っ白な顔だった。


 明来は息を飲んだ。


 その瞬間、明来の腹部が音を立てて裂けた。腹の中から、爪と一緒に大群の鼠が飛び去っていったのだ。明来の身体が白くに輝きだした。


 身体が言うことを聞かない。明来はぎゅっと目を閉じた。肩に回された腕に必死にしがみついた。



「今ゆ後 いつ神霊みたま奇魂くしみたま

舟のにもにも 神坐かみざ宇斯波伎坐うきはしざして

四方よもの海原 往き通う潮の八百路やほじ

悪しき風 荒き波にも遭はせ給はず

烏羽玉うばたま暗夜くらきよも 指す針の方角かた見誤つことなく

往く路の隈々(くまぐま) 八十やそ八衢やちまた 迷う事なく

かじの過つ事なく 辛き思いも打ち忘れ

夜の守り 日の守り 護り恵み幸へ給へと

かしこみ恐み 聞食きこしめせと宣る」



 りんと静かな鈴の音が聞こえてきた。智加の声が朗々と響いていた。その声は暖かくて悲しくて、明来は涙が止まらなかった。


 そこで意識が途絶えた。




 ざぶーんっという音で、明来ははっと我に返った。がぼがぼと、自分の吐いた息が、大きな泡となって上にあがっていった。

 これは本物の水だ。水中で手足をばたつかせると、何か柔らかない布に当たった。明来はそれを必死に掴むと、泡の上がる方向を目指して水を蹴った。


「ぶは。げほげほ。はぁはぁっ」


 大きく息をついて顔を出すと、そこはなんとため池のようなところだ。鬱蒼と茂った林の中で、懇々(こんこん)と湧き出る水は陽の光りに輝いていた。


 もうなにがなんだか判らなかった。必死に掴んだものを池の淵へと引き上げた。それは気を失った智加だった。胴着に袴姿の智加は、ずしりと重かった。必死に草の上に引っ張ると、頬をぱんぱんと叩いた。

 水は飲んでないようだが、冷たくなって青白い。明来は智加の胸を摩擦して暖めた。やはりそこには黒い染みがあった。が、今はそれどころではなかった。


「とうじ、東辞。しっかりしろ」


「う、ううん」


 智加がようやく目を覚ました。


「大丈夫か?」


「あき?」


 智加は放心したような顔で、あたりを見回した。


「戻って、来たのか」


 虚ろな目をしていたかと思うと、智加はいきなりがばっと飛び起きた。拍子に明来の顎と智加の頭がガツンとぶつかった。


「いったー。急に起きるなよ」


「お前が、近すぎなんだ」


 智加はよどほ痛かったのだろう、顔をしかめたまま怒鳴った。お互い打った場所を撫でながら、胡坐をかいて座った。木々の間から朝陽がさし始めていた。


「流石に寒いな」


 胴着姿だった智加は、合わせ目を整えた。びっしょりと濡れて、重たそうだ。髪からもぽたぽたと水滴が落ちていた。それを手でぎゅっと絞って、智加は前髪を掻き上げた。

 まるでなにもなかったかのように、凛とした姿で智加は座っていた。明来はなんとなく目が離せなかった。すると急にぶるっと震えがきた。


 つと気がついて、智加が明来の胸に手を伸ばした。一瞬身構えると、智加がふっと息を吐いた。


「なにもしない。このままじゃ寒いだろ?」


 智加がかざした手から、ぶわっと熱風が起こった。衣服が一瞬にして乾いた。なぜか髪や肌は濡れたままだった。


「悪い。服しか効かない。こうなると不便だな」


「え? いや、十分暖かいから」


 ふんと言って、智加は自分の身体を乾かした。黒髪まで綺麗に乾き、ばさばさと手櫛しで掻いている。


「ここ、どこだろう?」


「多分、東辞の敷地内だろう。今に高宮が飛んでくる」


「高宮さんが? 場所判るのか?」


 その問いに、智加がじろりと明来を見た。耳にかかった髪を掻き上げ、耳の内側を見せた。


「ここ。ピアスみたいなやつ。これ、GPS」


「え?」


「ペットには鎖が必要だからな」


 明来はぎょっとなって智加を見た。監視されているというのか。だから場所も判るし、暴走した智加を止めに、父親が難なくやってきたというのか。


 智加はさばさばとした表情で、自分の髪を撫でていた。明来は言葉が出なくなって、ついには俯いてしまった。二人の間を無言の時間が過ぎていった。淡々とした智加を前に、言いようのない理不尽な思いばかりが募った。明来は顔を上げて、智加をじっと見た。


「なんだ?」


「あ、いやその。あれは、どこだったんだろう?」


根国底国ねのくにそこのくに。すべての罪穢つみけがれを飲み込む、速佐須良比売はやさすらひめの世界だ」


「さすらひめ?」


「判り易く言えば、死後の世界。全てを飲み込み、浄化して無に返してくれる姫神だ」


「浄化? なんでオレ、あんなところへ」


「お前が、爪を飲み込んだりするからだ。爪の行きたかった場所へ、連れて行かれたんだろうよ」


「え? オレが持ってちゃ、嫌だったのか。お母さん、オレが嫌だった?」


「一つの命が終わった以上、それは返してやらなくてはならない。次の新しい命へ向かうためにな。形見を持っていたいという気持ちは判らなくはないが、お前が持っていたものは死者の一部だ。それでは母親は前へは進めない。引きずられて留まってしまう。どこにも行けず、かと言って居場所もない。それは、とても辛いことだろう?」


 智加のとても優しい声が、聞こえていた。静かに語る言葉の一つ一つが、明来の胸に染み込んできた。


 明来は目を瞑った。母の爪を思い出した。胸元を探っても、もうあのお守り袋は、どこにもない。何もない手を、握り込んだ。


「あの祝詞は?」


葬送そうそうの祝詞だ。行く道に迷わないようにな」


「綺麗な言葉だった。ええと、確か。把る梶の、過つ事なく、だったけ?」


「辛き思いも打ち忘れ、夜の守り日の守り、護り恵み幸へ給へと」


 智加が言葉を繋げていった。


 その声に、木がさわさわと葉を揺らし始めた。水面は小さな泡を乗せて、二人の足元にさざ波を運んできた。


 明来は顔を上げた。


「お母さんは、逝ったんだよね。無事に着いたかな」


「済まなかった。お前がどんなに辛かろうと、あっちへやることは、できなかった」


「とうじ?」


「母親を亡くした悲しみがどんなに大きくても、お前も一緒に流してやるなんて、俺にはできなかった。お前も、こんな風に終わっていいはずはない。母親だって、お前が幸せになることを望んでいるはずだ。これから先、生きて誰かと幸せを味わって。だからもう、俺には関わるな。お前のためだ」


 智加は言い終わると、顔を背けた。朝陽はきらきらと樹木の間を抜け、智加の髪を照らしていた。遠くを向いたまま、こちらを見ようとはしなかった。


「とうじ」


 あの時、明来はどうしても母の元に行きたかった。他のことなんてどうでもよかった。自分を止めるものは何もなかった。


(なのに、なぜオレはあの時)


 あの時、智加の、絞り出すような声が。



『俺を、一人にするな』



 その瞬間、ふっと力が抜けた。


 腹から母の爪が出て行ったのは、あの瞬間だった。あんなにも依存していた爪だったのに。


 朝焼けの穏やかな光の中、さわさわと霧のような雨が降りだした。それは蒸気のように暖かい雨で、木の葉や地面をしっとりと濡らしていった。

 雨粒は軽く、ふわふわと上空を舞う。空を仰ぐと、光り輝く蒸気が、まるで攪拌かくはんされた炭酸水のようだ。


 学校の屋上で見た、ソーダ水を思い出した。


 明来は手を上げて、空中をかき混ぜた。


「しゅわしゅわー」


「タコ」


「なんだよ。弱虫」


「お前な。そっちこそ、わんわん泣いてたくせに」


「あ、男のくせに、くせにって言ったー」


「お前もな」


 むんっと明来は口を尖らせた。智加は背中を向けたままだ。


「なあ、オレ、気になってんだけど」


「なんだ?」


「首のとこの染み、なんだ?」


「ああ。飯山の禍神まがつかみだ」


「え?」


「地鎮祭で、失敗した」


「へー、東辞でも失敗するんだ。へー」


 智加が、いきなり頭をがっくりと垂れた。


「お前に言われると、激しく落ち込むな」


「なんでだよ。それより、それ動いてないか?」


「ああ、生きてるからな」


 さらりと言う。明来はぎょっとなった。


「もしかして、東辞の人間は早死にするって言ってた。そういうことか?」


 智加は首だけ動かして振り返った。まるで人を小馬鹿にしたかのような顔だ。目を細めて、大きなため息をついた。


「なんだよ?」


「この程度で、俺が死ぬか? いたもんは仕方ない。育てるんだよ。飯山に返すためにな」


「育てる?」


「ああ」


「返すって、なんで?」


「全部消したからな。良いのも悪いのも」


「それが失敗したってこと?」


 智加はふんと唸った。


「いつ返すんだ? 明日か?」


「バカ、そんなに早く育つか?」


「来年くらい?」


「さあな、結構小さいし」


「でも育てるんだろ?」


 コップ、と言って、智加はふいに明来を見つめてきた。


「え?」


「お前なら、注ぐんだろ? コップが割れていても」


「それって、オレが言った話だよね?」


 明来は驚いた。コップの話は、ひまわり園で瑤子ちゃんのことを話した時に言った言葉だ。悲しみは消えない。でも、瑤子ちゃんが笑っている未来を信じるんだと。


 その信じる気持ちを、、ずっと注いでいれば、いつか瑤子ちゃんのコップはいっぱいになるかもしれない。そう言ったのを覚えていたのだ。


 なにを言っても、どうでもいいとしか言わなかった。父親の言いなりになって、自分の意思など持たなかった。それが、なにかこの先の未来の話をしている。


「禍神の未来、オレは信じるよ」


 明来はそう言って顔を伏せた。嬉しいのに、なんだか顔が上げられない。


 智加は上空に目を向けていた。真っ青な空に、薄っすらと筆で描いたような雲が流れていた。目を細めて、まるで眩しいものでも見るような目だった。


「なんでだろうな。馬鹿げている。ただ」


「ただ、なに?」


「なんでもない」


 智加はまた、そっぽを向いた。胸元を一瞬手で押さえたかと思うと、ふいにその手を膝の上にのせた。肘をつくと顎をのせ、ぼんやりと前方を見ていた。


 何か言いたそうな、それでいて拗ねているような、なんとも子供っぽい表情だ。明来は、自然と顔がほころんでいった。


「返す。育てるのか。なんかいいな。野生動物を保護して、山に返すみたいだ」


「ま、そんなところだ。これは、産土神うぶすながみになるだろう」


「産土神?」


「あの土地を守ってもらうんだ。小学校を作るらしい。ひまわり園みたいにしたいとさ」


「ひまわり園。誰が?」


「市長」


「市長?」


「中島さんだよ」


「だから誰だって?」


 智加は呆れた顔で、こちらを見た。


 明来は首をかしげた。中島という名前に思い当たらない。


「まじで知らないのか? 餅つき大会には来てるだろ」


「え、中さんのこと?」


「ああ、そう言ってたな」


「ええー?」


 明来は、開いた口が塞がらなかった。その時、遠くで声がした。智加の名前を呼ぶ声だ。


「高宮さんだ」


 今度は林の中を駆け回る音だ。時折、細い枝が折れる音や怒鳴り声さえ聞こえてきた。よほど慌てているのだろう。


「来たな。お邪魔虫」


「え?」


「なんでもない」


 智加はすっと立ち上がった。袴の足元の泥を、手でぱんぱんと払った。漆黒の髪、凛とした表情で、前を向いてすっくと立っている。霧の一粒一粒が、無数の光りを反射し、真白な胴着が輝いていた。


「白、真」


 なぜか、あの道場の掛け軸を思い出した。明来には、なんとなく意味が判ったような気がした。


「帰るか」


「おう」


 明来は立ち上がった。段々、高宮の声が近づいてきた。もしかしたら、高宮から相当怒られるかもしれない。明来は、智加から手を引けと言われたのだ。だが、そんなことは気にしない。やらないといけないことは沢山あった。智加に聞かないといけないことも沢山ある。


 智加の実の母親の話、父の復讐の話。

 時間はある。


「あ、そうだ。明日、ひまわり園集合だから」


「は? 俺に関わるなって言ったが」


「まあまあ。東辞のコップは、オレが注いであげるから」


「いらん」


「確実に、割れてそうだけど」


 智加がじろりと睨み付けた。


 明来はおかしくなって、笑い出した。


(信じている。未来を)





(第一部完。第二部に続きます) 

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