第七章
明来は学校に来なくなった智加を訪ねた。そこで父親・亘に智加を解放して欲しいと訴える。智加は東辞でしか生きていけない理由があるのだと教えられる。行く先を見失う明来。智加はもう既に生きる気力も失い、父親の言いなりになっていた。
第七章
翌日、明来はバスの中にいた。それは智加の家に向かうバスだった。一度行っただけで、記憶は曖昧だ。住所を検索して出した地図が頼りだった。
電車とバスを乗り継ぎ、途中から徒歩になった。左右は鬱蒼とした雑木林が広がっている。ところどころ大きな岩が、ごつごつと顔を突き出していた。既に軽い登山だ。山道には畑も人家もない。
「あれ。こっちだったけ?」
明来は地図を持ったまま、立ち尽くしてしまった。
智加には連絡が取れない。智加の携帯は解約されたのだろう、「この電話は使用されていません」とアナウンスが流れるようになっていた。
昼過ぎに自宅を出て、今はもう四時に近い。薄っすらと日が暮れ始めていた。時折、キキっとなく鳥の声に、明来はびくりと身体を縮ませた。
「なんでこんな遠いんだよー」
登り坂は上がるほど、急になってきた。山道に入れば、確か一本道だったはず。明来は前だけを見て、懸命に歩いた。はぁはぁと息が切れる。持ってきたペットボトルのお茶は、疾うに空だ。日が暮れると、山は急に冷え始めた。歩いている分身体は熱かったが、時折吹く風が明来の身体を冷やしていった。
山道を延々と登り、ようやく覚えのある場所が見えてきた。
「あ、ここ」
明来はだっと走り出した。
砂利道を突っ切ると、舗装道路に出た。前回車で行った時、確か舗装道路に入ってしばらく行くと、正面玄関が見えたのだ。
「あったー」
ついに東辞の大きな正門に辿り着いた。鉄の太い取っ手に手を掛けた。がっと引くが、門はびくりともしなかった。呼び鈴すらない門は開けようがない。
とりあえず、明来は一周してみることにした。壁つたいに延々と歩いた。しばらく行くと、裏口のような荷物の搬送口にぶつかった。ここも、鉄の大きな門があって、びくともしなかった。ゆうに十分は歩いたと思う。が、結局途中で引き返してきた。ぐるりと囲いが続き、猫一匹入る隙もなかったのだ。
明来はまた正面玄関に立った。ふんと唸って、正面を睨み付けた。
「こそこそするなってわけね。こっちだってそのつもりだ」
見上げるほどの鉄の門柱を、しばらく調べた。以前車で入った時は、門柱がすんなり開いたのだ。きっと、センサーかカメラで監視されているはずだ。じっと見ていると、二メートルくらい上の門柱の一箇所に、小さな丸い穴が開いていた。
「あ、あれだ」
明来は両手を挙げた。ぶんぶんと左右に大きく振った。まるで、無人島に残された人が救助を待つ時のようだ。しばらく振っても、門はびくりともしなかった。
「すみませーん。誰かいませんか? 開けて下さーい」
必死で大声を張り上げた。それでも、門は動かなかった。明来はくそっと舌打ちをした。すぅっと息を吸い込むと、腹に力を入れ、思いっきり声を張り上げた。
「東辞のお父さーん。智加さんをぉー、僕に下さーいいいっっ」
息を吐ききった。我ながら、耳にびんびんときた大声だ。
ふっと大きく、ため息をつくと、腰に手をあて仁王立ちでじっと待った。
途端、ガタンと大きな音が響いた。真っ黒い門柱が動き始めたのだ。がりがりと重苦しい音を立て、門が左右に開いていった。明来はばっと飛びのいた。
誰か出てくるかと思ったが、しばらくしても誰も出てこない。明来はちらりと左右を見渡すと、一人胸を張って歩き出した。
ここからは、記憶があった。左側が本館で、右側が智加のいる洋館のほうだ。
兎に角、一度行ったことのある洋館へと足を向けた。玄関までの中庭は広く、敷石が建物へと導いていた。足元には、ほんのりとした明かりが道を照らしていた。
左右にはイングリッシュガーデンが広がっていた。前回来た時は車中で気づかなかったが、歩いていると庭の美しさが見て取れた。アーチ型になった薔薇園に、その横には噴水がある。小さな池もあるようだ。石を組み合わせて人口の滝のようなものまであった。その周囲には、真っ白い花が咲いていた。
あれは水仙だ。隙間のないくらいに密集して咲いた水仙は、甘く濃厚な香りを漂わせていた。
洋館の玄関に着いた。深い焦げ茶色のドアは両面開きで、ドアノックに手をかけた瞬間、いきなり内側から開いた。びくっとなって固まると、そこには高宮が立っていた。
口に手をあて、くすくす笑って、明来の顔が見れないようだ。
「高宮さん?」
「ああ、申し訳ありません。さ、どうぞ、お入り下さい」
明来は急に緊張してきた。頭を下げたが、へんてこな動きだ。ロボットのようにカクカクとなって、顔がしかめっ面になった。
その様子に、また高宮が笑いを堪えている。
「あの、東辞の怪我は? あいつ、元気にしているんですよね?」
「智加さんですか? お元気ですよ。今は修行中で、学校はお休みしております」
「修行? ああ、よかった。元気にしてたんだ」
明来は安堵のあまり、胸を撫で下ろした。
先日行った黒光りする廊下を延々と歩き、今度は行ったこともない廊下を辿った。建物の雰囲気ががらりと変わり、純和風の建築様式だ。廊下の片側は全面ガラスの引き戸だ。それが延々と続き、奥に広がる和風庭園を見せつけていた。
京都の寺院にあるような枯山水の庭に、苔むした岩、大きな紅葉があった。地面には、赤く色づいた葉が紅葉して落ちていた。奥のほうは小高い丘になっていて、大きな樹木が育っている。ライトアップされた庭園は、まるで芸術の粋だった。
「あの、ここは?」
「本館になります。総代が、」
そう言葉を切って、高宮は立ち止まった。振り返ると、明来をじっと見た。明来もつられてじっと見返した。なぜか少しの間があった。
「お会いになるそうです」
「え、本当?」
明来はふっと小さく息を吐いた。流石に緊張していたようだ。まさかの展開に気が抜けてきた。
「はい。モニターの映像をお見せしたんです。面白いと仰って」
「面白い、ですか?」
「はい」
高宮はまた歩き出した。斜め後ろから見える顔は、満面の笑みだ。廊下では、作務衣のようなものを着た人と、何度かすれ違った。彼らは高宮のちょっと手前で立ち止まり、深々と頭を下げた。そして高宮が通り過ぎてから、彼らは歩きだした。
その様子を見て、明来はここでの高宮の地位が高いのだと思った。先日、自分が振袖を着て東辞に行った時は、車の運転をしていた。次に会ったのは、智加が暴走して父親に諌められた時だ。笑うと思わずつられるような柔らかな雰囲気で、優しい人だと思ったが、総代の元まで案内するからには、父親と同じということだろうか。
明来は、高宮の広い背中を睨みつけた。
「さあ、着きました」
「あ、はいっ」
明来はびくっとなって、つい大声になった。
「そう、緊張なさらずとも。私が傍におりますので」
高宮は穏やかな微笑を返した。その表情につられて、明来もふわりと笑った。
「は、だめだ」
「え?」
高宮が首をかしげた。
どうも、この笑顔には調子を狂わされる。明来はぐっと奥歯を噛み締めると、気合を入れなおした。
大きな襖の前に立った。
「失礼致します」
高宮が静かに戸を開けた。
座敷は、二十畳はあろうかという広さだ。本当にここの家は普通と桁が違い過ぎて、もう段々驚きよりも呆れるほうが多かった。
何百年と生きてきたヒノキを、真横ですぱっと切ったようなテーブルが中央にあった。年輪の上にニスをかけ、漆でもかけているのか、深い色に光っていた。
廊下側からは無地の襖だったのが、内側の襖の絵は、水墨画で描かれた大きな桜だ。散り始めた花びらが、まるで舞うようだ。白地に墨だけの現代的な雰囲気が、モダンな感じを醸し出していた。
テーブルの前に、和服を着た智加の父親が正座していた。総代の東辞亘だ。腕組みをして、じっとこちらを見据えていた。
流石の威圧感だ。明来は一歩踏み出そうとする足が、動かなかった。
高宮がどうぞ、と促した。先に動いて、父親とは向かいの端に正座した。明来はようやく身体を動かした。亘の真ん前に座った。
「初めまして、ではないだろう。君のことは調べさせてもらった」
明来は深呼吸して、腹に力を込めた。
「斉藤明来です。先日は失礼しました」
「偽者の花嫁になりすましたことか? それとも、智加に馬鹿げた行為をさせてしまったことを、言っているのかね?」
「騙したことは、申し訳なかったと思います」
「ほう。それ以外では、謝罪はないというのかね?」
「はい。今日はお願いに参りました。智加さんを、僕に下さい」
「面白いことを言うね。正門でも同じことを言っていたが」
「面白くなんかありません。僕は至極真面目です。冗談なんて、ここで言えるわけがありません」
明来は言った。亘の目を真っ直ぐに見つめ、奥歯を噛み締めた。
途端、亘の大きな笑い声が響いた。ひとしきり笑って、明来に視線を戻した。すっと温度が下がったのが、見て取れた。
「それで?」
「彼の望む通りにさせたいんです。彼はあなたの道具ではありません。あんなひどい乱暴をして、虐待としか思えない。彼は一人の人間なんです。彼の人生は彼のものです。お父さんのものじゃない」
「では、君の人生は君だけのものか?」
「は?」
明来は躊躇した。当たり前で意図が掴めない。
「もちろん、僕の人生は僕のものです。僕は自分の望む職業について、好きな人と結婚して、生きていく。それは誰もが普通に持っている権利です。それが智加さんにはない」
「では君は、君の命も君だけのものだと言うのか?」
「もちろんです。僕の命は、僕だけの」
つと、言葉が詰まった。
「君のご両親が育んで、成長したその命。それを自分だけのものだと、言うのかね?」
明来の表情が強張った。
「ご両親だけではない。祖父母もその祖先も。君の命は君だけで出来たものではない。多くの人の守り繋がりがあってこそ、生まれた命だ。それを、君は自由だけを主張する。まるで一人で大きくなったかのようにだ」
「それは」
「智加とて同じだ。東辞は人とは違う歴史がある。虐げられ屈辱に耐えながら、我々は長い時間を生きてきた。それは子孫が幸せになるべく、必死に未来を作ってきたからだ。その先人達の思いを切り捨てることが、個人の自由というのかね? 智加の命も、また智加だけのものではない。あれの血には多くの犠牲と、東辞の未来がかかっているのだ」
「でも。そのために、言いなりになれって言うんですか?」
「君だとて、親を捨てられないだろう?」
「え?」
「失うことを知っている君だ。自分から捨てることなどあり得ないだろう。病院に通ったところでどうだ? 楽になったか? 欲しくて堪らないのだろう、母親が」
明来は目を見開いた。顔が歪んでいくのが判った。亘は口の端を上げて、にやりと笑った。
「でも、でも。東辞は」
「智加とて同じだ。縁を切りたいのなら、疾うに自分から切っている。それだけの能力があるからな。智加とて、切れないのだ、この繋がりが。脆弱であろうと、強制であろうと。あれの人生を、君は簡単に下さいと言うのか?」
亘が明来の目を真正面から睨みつけた。
明来は言葉を失った。もう亘の顔が正面から見れなかった。
高宮に連れられて、明来は座敷を退室した。ふらふらとして、足に力が入らなかった。
少し話しをしませんか、と高宮が声をかけてきた。連れられてしばらく行くと、食堂のような広い場所に出た。
「ここは修行者や従業員の休憩場所です。社員食堂のようなものですね」
テーブルや椅子がずらりと並び、自動販売機まであった。壁には大型テレビが掛けてあり、パソコンやプリンターまで常備されていた。歓談できるソファまであった。
パーテーションで囲まれたブースに明来を連れていくと、高宮は暖かいココアを差し出した。
「どうぞ」
「すみません」
「覚えてらっしゃるのですね?」
「え?」
「あなたには術が効かない。そういうことですか。だから執着するのか」
高宮はふむと言って、明来の顔をじろじろと見た。
「なんのことですか?」
「火傷の具合はどうです?」
「あ、あの時はすみません。オレ手当てまでしてもらって。目が覚めたら自分のベッドで、びっくりしました。運んでもらったんですよね?」
「手当てというか、あれは拉致ですね。こちらこそ、乱暴なことをして申し訳ありません」
明来は怪訝な顔をした。拉致などと平然と言って、微笑を浮かべている。高宮の意図が読めなかった。その表情を読んだのか、申し訳なさそうな顔をした。
「嫌な思いをさせました」
「あの……」
「こうやって見ると、普通に男の子ですね。振袖がとても似合っていたので、残念です」
「あ、すみません。あれには事情があって」
明来は急に恥ずかしくなって俯いた。
「全く、智加さんも子供っぽいことを」
ふっと高宮が笑った。まるで幼いわが子の悪戯を笑うような、そんな穏やかな表情だった。
「高宮さんは一体?」
「私としては、嬉しいくらいですけどね」
「え、どうしてですか?」
明来は不思議に思った。あの総代を騙すようなことをしたのにだ。
「智加さんが意思表示をすることが、嬉しかったのです。ご両親に対して、自分を通すなんて、今までになかったからですね」
タバコいいですか、と断って、高宮は火をつけた。
途端、メンソールの匂いが立ち込めた。指が意外と綺麗で、明来はついじっと見つめてしまった。東辞の父親と違って、穏やかな顔立ちだ。笑った顔は優しそうで、ダークグレーのジャケットに濃紺のシャツ、ネクタイはしていないが、物腰が柔らかく品の良さが漂ってくる。
「私が最初に出会ったのは、智加さんが八歳の時でした。母親から、智加さんを奪った日です」
「奪った? 東辞は連れて来られたって言ってた」
「いいえ、あれは強奪です。あの親子は東辞から逃げ回っていましたから。智加さんの母親と父親の総代は従兄妹同士で、強姦まがいの行為で妊娠したそうです」
「ええ?」
明来は目を剥いた。思いもよらぬ話で、高宮がなにを言っているのか理解できなかった。穏やかな表情で淡々と話す様子は、まるで幼子に寝物語でも言ってるかのようだ。その口から、強姦と言う。明来は段々判らなくなっていった。
「そんな状況でも救いだったのは、母親が智加さんを大事にしていたということです。とてもとても、大事にね。いつか来る別れを、予見していたのでしょう。東辞の血が色濃く出た智加さんは、大変な能力の持ち主でしたから」
「言霊の力のことは、聞きました」
「ええ。その力です。それが強すぎた。母親は必死に隠して、逃げ回っていました。が、私達はようやく智加さんを見つけ、家に押し入ったのです」
高宮は話し出した。
十年前のあの日、小学校から帰ってくる智加を、高宮は待っていた。母親には先に話しをした。散々泣いて懇願したが、どうも諦めたようだ。今はただ青い顔をして、キッチンの椅子に座っていた。
玄関が開いた。智加の元気な声が聞こえてきた。
「ただいま。お母さん」
智加がキッチンに駆け込んできた。小学三年生で、青いランドセルを背負っていた。カーゴパンツにスポーティなベストを羽織り、快活そうな少年だ。
真っ黒い髪に、すっとした涼しげな眼。母親似だ。まだ幼い丸い顔だった。
目の前にスーツ姿の男達がいることに、驚いたようだ。そして咄嗟に母親を見た。泣きはらした顔に、尋常でないことを見て取ったようだ。
「お母さんっ」
ばっと母親の元に駆けつけると、高宮を睨み付けた。
「なんだよ、お前ら? お母さんになにをした?」
男の一人が智加に近づくと腕を取った。
「やめてっ」
母親が叫んだ。
「乱暴なことはしませんよ。大切な後継者です。これは総代からのお気持ちです。お受け取り下さい」
目の前に分厚い封筒が差し出された。袋の口は開けて、数百万の金をわざと見せた。母はもう何も言わず、がくりと頭を垂れていた。
「お母さん?」
腕を捕まれた智加は、母親に助けを求めた。
「やめて。今日じゃなくてもいいでしょ?」
母親がヒステリックに叫んだ。
「連れていけ」
「待って」
母親がばっと立ち上がった。連れていかれまいと、小さな智加の身体を必死に抱き締めた。
「お母さん」
「智加ーー」
男が母親を取り押さえようとした。母親は大声で泣き喚いた。智加が真っ赤になって、男に殴りかかった。
細い腕では、何の力もない。高宮は智加の腕を掴むと、身体ごと脇に抱え込んだ。
高宮はそのまま玄関に向かった。その時、半狂乱になった母親が、台所から包丁を取り出した。キーっと叫んで振り上げた腕を、従者の男が間髪入れずに殴り倒した。
ボキっという鈍い音がして、母親の手が奇妙な方向に曲がった。
その時、智加が絶叫した。奇声のような言葉にならない声だった。
途端、男の首が妙な方向へ捩れた。ぐえっと潰れたような声を上げて、喉を掻き毟っている。四肢をばたつかせたかと思うと、泡を吐いて昏倒した。床に仰向けに倒れ、そのまま白目を剥いて気絶してしまった。
母親は青い顔をして、ガタガタと震え出した。そして智加を見た。おぞましいものでも見るような、恐怖に歪んだ顔だった。
智加は母親の顔を凝視したまま、無言だった。動こうとはしなかった。初めて言霊を使ったのだろう。自分の言葉が、人を殴り倒したショックで、呆けたように立ちつくしている。
「お、母さん……」
「ひっ。いや、いやああーー。化け物ー」
母親は悲鳴を上げた。腰を抜かして、壁にへばりついた。助けて、助けてっと叫んで、狂ったように壁を引っ掻いていた。
高宮のタバコが煙を上げた。ゆらりとくねって、上へ上へと上がっていった。半分も吸わずに、灰皿にタバコを押し付けた。
「揚げたてのドーナツの香りが、していました。とても良い匂いでした。母親が帰ってくる息子のために、作っておいたのでしょうね」
「ドーナツ?」
明来は思い出した。ひまわり園に一緒に行った日だ。貰ったドーナツを、智加は袋ごと潰していた。
『捨てるつもりだった。胸焼けしそうだ』
そう言っていた。
「とうじ……」
明来は唇を噛んだ。
「智加さんは母親と約束をしていたのです。決して、言霊を使わないと。なのに使ってしまった。母親はそれを目の当たりにした。我が子が化け物のように思えた」
「そんな?」
「母親を責めることはできませんよ。あなたもそうだったでしょう? 智加さんの力が、恐ろしくはなかったですか?」
明来はぎゅっと眉を寄せた。目をつぶって頭を振った。
「オレは。恐ろしくなんか」
「いいんですよ。恐ろしくて。当然です。暴力は怖いですから。だから智加さんは、この東辞でしか生きていけない」
「そんな?」
智加は言っていた。母親のことは、どうでもいいと。明来はその理由がようやく判った。
「東辞という家が特別なだけです。智加さんはここに来られてから、厳しい修行をされました。言葉を奪われ、誰かと会話することもなく、誰からも触れられることもなかった。幼少期のそれがどんなに辛いことか、あなたには判りますか?」
明来は愕然となった。
「あなたが子供で、傍に人がいるのに、誰からも話しかけられず、誰からも抱き締めてもらえなかったら、どんな気持ちになるでしょう?」
「それは」
「それが智加さんの境遇だったのです」
「でも、オレとは普通に喋れる。だから、東辞がなにを望んでいるかって、判ったんだ」
「東辞を出たいと、智加さんが言いましたか?」
「え。いや、それは」
「智加さんは自分に厳しい方です。それは智加さん自身が、自分の能力を理解されているからなのです。たった一言で人を殺すことができる。その能力がどんなに恐ろしいか。あの日以来、自分を律して生きて来られました。なのに、あなたが」
「あれは、あいつらが奪ったから。オレの大事な」
「男は内臓破裂の全治六ヶ月です。女性の方はいまだ記憶が戻っていません。あのままだといずれ廃人になるでしょう。智加さんは、また暴力を振るったのです。言霊という力で」
明来はばっと顔を伏せた。全身が粟立った。身体の奥から、震えが湧き上がってきた。
「あなたのせいですよ」
「え?」
「あなたのせいです」
高宮は静かに言った。
「智加さんを犯罪者にしたのは、あなただって言ってるんです」
明来は思わず耳を塞いだ。
「被害者のご両親は、泣いていらっしゃいました。あなたには、奪われる悔しさがお判りですよね。彼女らがやったことはいけないことかもしれない。ですが、嫉妬心が生んだ些細なことです。たかがその程度で、再起不能なほどの暴行を受ける。人生を奪われる。それがどんなに恐ろしいことか?」
「それは」
「智加さんにとって、あなたは特別な存在。それが吉と出ればと、思っていたんですが。私はとんでもない思い違いをしていたようです。智加さんにとって、あなたは特別過ぎた。あなたは智加さんの母親と同じなんです。言霊が効かない。諦めたはずの母親を、あなたの中に見つけたのかもしれない」
「母親を? 言霊が効かないって」
「自分に課した禁忌すら、あなたが殴られたというだけで、一瞬でたがが吹き飛んだ。智加さんにとってあなたは鬼門、自分を律することができない。あなた方は出会うべきではなかった。智加さんはこの東辞でしか生きていけない。普通の人生を歩むことは、不可能なのです」
「あいつに、自由はないって言うんですか?」
「そうです」
「そんな。それなら東辞は?」
「だったら、あの二人が死んでいたら。あなたはどうです?」
明来はぎょっとなった。静かに顔が俯いていった。右手に貼ったガーゼは自分でやったものだ。不恰好で歪んでいて、うまく貼れずにぐしゃとよれていた。火傷のあとが残っていて、東辞に見せたくなかったからだ。
痛みはもうほとんどなかった。
「お判り頂けましたか?」
明来は俯いた。右手のガーゼを隠すように押さえると、ぎゅっと唇を噛みしめた。
自分を爆弾だと言った。
父親に反発しない理由。
実の母親をどうでもいいと言った理由。
『東辞の家で生きていくのなら、考えることなど無意味だ』
そう言った智加の言葉が蘇った。
「これで、お終いにしましょう」
「え?」
「私は決して、気が長い方ではないんです。怒っているんですよ。ハラワタが煮えくり返るほどにね」
ふわりと微笑む顔に、明来は背筋がぞっとなった。まるで貼り付けたような能面だ。口元は微笑んでいるのに、目が笑っていないのだ。細い指先が明来の目の前をゆっくり動いた。二本目のタバコを口に銜えると、ライターをカチリと鳴らした。ゆらりと揺らめく炎の向こうに、高宮の顔が見えた。矢の切っ先のような、氷のような目だった。
これが、本来の顔なのかもしれない。
「私は、智加さん至上主義なんです。あの人を苦しませる者を、私は許しませんよ」
そう言うと、高宮はにっこり笑った。
明来は何も言えなかった。
「あなたは普通の大学生になって、幸せな人生を送りなさい。最後に会いたいというのなら、会わせてあげましょう。会いますか?」
明来は顔を上げた。高宮の顔をじっと見た。そこにはなんの意図も見えなかった。
「お願いします」
明来は胸元に手をやった。服の上から、ぎゅっとそれを掴んだ。
高宮に案内されたのは、道場のような場所だった。ここも学校の体育館かと思うほど広かった。光を反射するほど綺麗な床に、天井のライトが映り込んでいた。
中央に、正座している智加の後ろ姿が見えた。
「私はしばらく席を外します。ゆっくりお話し下さい」
そう言って、高宮は出て行った。
高宮が言うには、智加は事件を起こしたあと、ずっと謹慎をさせられていたそうだ。人と接することもなく、言葉を発することも禁じられた。外界から遮断され、一室に閉じ籠もって、延々と祝詞を書いていたそうだ。
明来は静かに近づいていった。
智加は白い胴着を着て白い袴姿だ。全身真っ白で、姿勢を正し座っていた。腰に手を当て、顔は正面を向いていた。そこに、大きな掛け軸が掛けてあった。
『白是真』
明来には全く意味が判らなかった。
すっすっという足音に、智加が振り返った。目を見開いて、こちらを凝視している。明来が近寄ると、智加はゆっくり立ち上がった。
「よう。元気?」
明来は努めて明るく言った。智加の顔色は悪く、生気がなかった。頬は痩せてこけていて、左側の顔面には、内出血の青い痣が残っていた。
「よく入れたな」
「ああ、うん。お父さんに会ってきたよ」
「は? バカか。なんで」
智加は視線を外すと、頭を二、三度掻いた。そのまま明来を見ようとはしなかった。
「高宮さんとも話したよ。いい人だよね。東辞のこと、すごく真剣に思ってくれている」
途端、智加がちっと舌打ちした。顔を両手で覆うと、大きなため息をついた。細く長い指だった。
「呆れてものが言えない。あれは親父の信奉者だ。ここの人間は誰も信用するな」
「そんな?」
明来は言葉を失った。
高宮は確かに総代の次に位置する立場なのだろう。つまり総代の右腕だ。それだけ信頼され、東辞家に同化していると言っても過言ではない。だが、あの時高宮が怒ったのは、智加を思っての本当の気持ちからなのだと、明来は思ったのだ。
色々な思いがあって、なにをどう話していいのか、全く判らなかった。
「あ、そうだ。これ」
明来は思い出したように、バッグのファスナーを開けた。そこから、紙に包んだ花束を出した。
「庭に咲いていたんだけど」
「萩?」
「うん。この間、オレの家に来た時、これ見てただろ。一斉に咲いたんだけど、まだ残ってるのがあったから。東辞、好きかなって思って」
智加が驚いたような顔をした。白い萩は小さな花弁を満開にして、清楚な姿を浮かべていた。智加はふいと顔を逸らした。
萩は受け取られず、明来の手は宙ぶらりんとなった。おずおずと引っ込めて、花束を下ろした。
「ごめん。男に花なんて、おかしいよな。その、身体は大丈夫なのか?」
「平気だ」
とてもそうとは思えなかった。明来はじっと顔色を伺った。その時、妙なところで目が止まった。ちょうど胴着の合わせ目のあたり、胸の上に黒い染みが付いているのだ。
「それ、なに? 胸のところ」
「なんでもない」
智加は慌てて合わせ目を引っ張った。その時、染みが動いたように見えた。まるで蛇の尾のように、するりと下へ引っ込んだのだ。
明来は目を見張った。
「え、今?」
「で、なんの用だ?」
智加が話を遮った。明来は気になりながらも、視線を戻した。
「あ、ごめん。東辞の携帯、通じないし。学校にも来ないから」
「それでわざわざ?」
「だって、オレ、一言謝りたくて。あんな面倒に巻き込んで、悪かったって」
「別に」
「でも、あんなことさせたのオレだから。高宮さんも言ってた。東辞は自分を律していたのに、暴力を振るわせたのはオレだって」
「お前には関係ない。もう終わったことだ。あれは、俺の責任だ」
「でも」
「用がないならもう帰れ。二度とここへは来るな。いいな」
「学校には来るんだろう? また会えるんだよな?」
「学校には行かない。お前とも会わない」
「なんで? お父さんの言いなりになるのか? 白山の復讐をするって言うのか?」
「そうなるな」
「どうしてそうなるんだ? お前が本当にやりたいことって、なんだよ?」
智加は答えなかった。口を一文字に引き結び、正面の一点を見つめたままだ。明来のほうを見ようとはしなかった。
「なんか言えよ。なんでなにも言わないんだ?」
明来は震えだした。目の前にいるのに、手を伸ばせばすぐ傍なのに、智加がとても遠くにいるように思えてならない。呼んでいるのに、叫んでいるのに、自分はまるで空気のような存在で、こちらを見ようとはしなかった。
首の後ろから、血の気が引いていった。背筋が粟立って、底なしの深い闇へ、真っ逆さまに落ちていくようだ。
(怖い。なんだろう。怖い。どうすればいい? いやだ。こんなのはいやだ)
明来はぎゅっとお守り袋を掴んだ。
「自分が爆弾だから? そうじゃないだろ? お前が本当に怖いのは、お母さんだ」
「なに?」
初めて、智加が反応を示した。目にぎらりとしたものが光った。薄っぺらい膜を突き破って、今ようやく本音を出したという感じだった。智加の心の中の、ギラギラとしたものが、明来を睨みつけた。
明来は奥歯をぎゅっと噛んだ。
「お母さんは、恐ろしくなって、お前を捨てた」
「なんだと?」
「化け物」
ぴんと空気が張り詰めた。道場はしんと静まり返り、何も動くものはなかった。物音一つしない。窓の外は真っ暗な闇に包まれていた。
「お母さんはそう言ったんだろ? お前のことを、化け物だって。お母さんはお前が怖くなったんだ。お母さんにそんな思いをさせたのは、お前だ」
「なっ」
「なんでそこで止まってるんだ? なんで前に進まない? 化け物じゃないって、言えばいいだろ。会おうと思えば会えるんだ。お母さんに会って話して、助けてって」
「お前になにが判る?」
「判るよ。やろうと思えば、やれることだろ。ただ怖くて逃げ回っているだけじゃないか? お父さんの言いなりになって、被害者面して。この臆病者。お前は弱虫だっ」
明来は怒鳴った。拳がぶるぶると震えた。それでも辞めなかった。
間髪入れず、智加がバッと明来の胸ぐらを掴んだ。奥歯を食いしばったような智加の顔が、目の前に迫った。
その時、明来の首にあった革紐が、シャツからはみ出したのだ。それはお守り袋を提げている革紐だった。 智加の顔が一瞬で変わった。一気に明来のシャツの前を引き裂いたのだ。露になった胸元に、お守り袋がぶら下がっていた。
智加がニタリと笑った。目が徐々に釣り上がっていく。まるで勝ち誇ったかのような、今にも笑い出しそうな表情だ。
ふいに智加の襟元で何かが動いた。先ほど智加が隠した染みだ。ぞわりと上がって、黒い染みが首元まで広がってきた。明来はぎょっとなって智加を見る。
刹那、智加が革紐をぐいっと引っ張った。明来はよろけて、足がつんのめった。とんと智加の胸に手をついた瞬間、またも染みが上っていった。
「東辞、これ?」
「焼いただけでは消滅しないだろうとは思っていたが、やはりな。どこから沸いて出た? いつまでこんなものに縋る? 死骸には悪鬼が湧くというのに、臭くて堪らん」
「死骸?」
「腐ってんだよ。匂わないか、これ?」
智加がぐいとお守り袋を引っ張った。目の前の薄い唇は横に引き攣れて、ニタニタと厭らしい顔で笑っている。
明来はかっとなった。何のこと言われているか、判ったのだ。一気に体温が上昇した。ばっと右手を振り上げると、智加の頬を思いっきり打った。
パンという乾いた音が、道場に響いた。智加は顔を伏せ、仁王立ちのままだ。髪の毛が乱れ、表情は見えなかった。
「そんな言い方っ? オレにとって、お母さんはこれしかないんだ。全部焼けて、身体も焼けて。残ったのは、この爪だけだったんだっ」
明来はお守り袋を握り締めて叫んだ。後生大事に持っていたのは、死んだ母親の生爪だったのだ。
「だから何だと言うんだ? 親を亡くしているのがお前だけだと思うなよ。焼けてなにも残ってなかったから、死体から剥ぎ盗ったって言うのか? 母親の焦げた肉から、爪を剥ぐ時はどんな気持ちだった? お前の腐った性根が穢れを集めるんだ。見てみろ、お前の足元を。蛆のように湧く、こいつらをなっ」
明来の胸ぐらを智加がぐいと掴んだ。その手が白く光った。瞬間、明来の身体に群がる鼠が見えた。足元からまるで蛆が沸くように全身にたかっていた。身体をよじ登りながら、仲間同士が咬み争っていた。醜い顔で鳴き声をあげ、肉は腐り骨が突き出していた。初めて見る鼠の大群に、明来は悲鳴をあげた。
鼠は死骸を貪る。ぶよぶよに太った腹。もう固体の識別もできないような大群になっていた。
「うっ、わぁあーーっ」
「俺が流してやる」
智加がお守り袋を掴んだ。明来がその手を抗って殴りつけた。揉み合う途中で袋が裂け、件の爪が空中を飛んだ。
「やめろーっっ」
灰色に汚れた爪が、道場の床に散らばった。瞬間ぱっと離れた鼠が、一斉に爪に群がった。爪がばらけ、それと一緒に右往左往に駆けずり回った。
明来は床に這い蹲った。腕を使って、全部の爪を拾い集めた。もうなにも考えられなかった。奪われたくない。自分の母親だ。これしかない。
明来は爪をばっと口に入れると、一気に飲み込んだのだ。途端、鼠が怒涛のように明来の腹めがけて飛び込んだ。
「がはっ」
衝撃で身体がくの字に折れ、明来はどんと床に倒れ込んだ。
「明来。明来っ」
智加の叫び声が薄っすらと聞こえてきた。身体がガクガクと揺すぶられている。意識が遠くへ、まるで大きな川のうねりのように、引き込まれていった。
「明来。死ぬな。明来ーっつ」
明来は目を閉じた。
(続く)