第六章
明来は母を亡くしたあと、心療内科に通っていた。笑顔の下には母を亡くした悲しみがあった。唯一、明来の笑顔を繋ぎとめているのは、お守り袋だった。
ある日、同じ高校の女生徒から声をかけられる。だがそれは智加の熱烈なファンで、明来を憎むあまり暴行を加えてくる。そこに智加が現れた。
第六章
「斉藤明来さん。二番の診察室へどうぞ」
「はい」
定期的に、明来は心療内科に通っていた。担当の橋田医師とは、もう二年の付き合いだ。
「こんにちは。先生」
「やあ、明来くん。具合はどうだね?」
橋田は四十代後半の、顎ひげを生やした医師で、白衣を着ておらず、チェックのシャツにサンダル履きだ。丸っこい顔から親戚の叔父さんという雰囲気だ。
「はい。大丈夫です。なんだか毎日忙しくて。通院も忘れそうでした」
「おや、それは良かった。なんだか顔色もいいみたいだね。楽しいことでもあったかな?」
橋田が明来の手首を握り、脈拍を測った。
一瞬橋田の顔が真顔になった。これで明来にばれているのを、橋田は知らないだろう。
明来は元気に言った。
「なーんにもないですよ。毎日受験受験で。成績上がんないで焦ってます。あ、でも、新しい友達ができたかな」
「ほー、それはそれは。ついに彼女ができたか?」
「あはは、外れ。彼女じゃないです。男です。でも喋ってて、なんか楽しいんです」
「気があっているんだ」
「気が? えー、そうかな。変なやつですよ」
「ほほう?」
「だいたい口が悪いんです。オレに弁当作ってこいとか言うし。卵焼きに文句つけるし。それも四十五点なんて」
「四十五点?」
「そう。オレの卵焼き」
「それは辛口だね」
明来は唇を尖らせた。
「そうでしょう? ま、砂糖入れすぎちゃったからな。焦げたし」
「あはは。楽しそうだ」
「楽しくないですよ。上から目線で、オレ様野郎なんです」
「でも一緒に、お昼を食べているんだろう?」
「変ですよね。男同士で」
あはは、と照れ笑いをして、明来は頭を掻いた。
「いや、そんなことないよ。とても大切なことだ。ちゃんと食事が取れて、よかったよ」
「いやだなー先生。いつだって食べてますよ。オレ、食いしん坊だから」
「そうか。もりもり食べなさい。人と一緒に食べると、余計美味しいだろう?」
「え? あ、そうかな。それはあまり考えてなかったです」
橋田がちらりと明来を見た。雑談の中からなにかを拾ったのだろう。明来はまずったと思った。
「そう? でも楽しいことが増えたんだよね?」
「ええと、料理するのは楽しくなりました。上手くできると、すごく嬉しいし。オレ、もしかして料理人とかあってるのかなーって」
「料理が趣味な男性は多いよね。好きな道に進むのが一番だし。そう言えば、以前は保父さんになりたいって言ってたよね?」
「はい。一応それで大学を選んでます。小さな子供と遊ぶの大好きだし。保父さんは捨てがたいです」
明来は笑った。
「ゆっくり考えるといいよ。料理学校ならいつでも行けるし。ホテルの料理教室とかで、雰囲気を学ぶのもいいだろうね」
「あ、そうか。それいいですよね。ホテルの料理長が教えてくれるっていう」
「そうそう。一流シェフのお料理教室とかね。いつか、明来くんの手料理が食べられるといいな」
「はい、任せて下さい。期待してて下さいね」
明来はばんと胸を叩いた。
「ふふ、頼もしいな。そう言えば、先月から薬を変えたんだけど、毎日飲んでいるかい?」
「ええと、実は飲むの忘れたりして」
「その日は、体調はどうだった?」
「変わらなかったです。忘れたことすら気づかなくて」
「そうか。それはいいね。一日一個だが、必ずしも飲まなくていいからね。忘れたら、忘れたでいいんだ」
「そうなんですか?」
「もし途中で気づいて不安になったら、その時は飲んだらいい。一錠持ち歩いたらいいよ。お守りみたいに」
「お守り……?」
明来は急に身体が冷えたような気がした。ぶるっと震えて、思わず左手で身体を抱いた。
「なにか、気になることがあったかな?」
橋田が顔を覗き込んできた。
「え? あ、いえ、たいしたことじゃないです」
「なんでも話してごらん。そのために、私はここにいるんだよ」
明来は、少し視線を彷徨わせた。目の前には橋田の膝が見える。そこに、ふっくらとした橋田の手がのっていた。温かみのある大きな手だった。
「この間、お守りを落としたんです。見つかったからよかったけど」
「お守り?」
「あの時オレ、ぐらぐらになってしまって。見つからなかったらどうしようって。地面がいきなり消えて、真っ逆さまに落ちるみたいで」
「そう」
「もし、また失くしたら、オレ」
明来はぶるぶると顔を振った。
「大事なものを失くするのは、とても辛いことだ。でもお守りに頼りすぎてはいけないよ。君を幸せにするのは、君自身なんだから」
「違います。オレのお守りはっ」
明来はばっと顔をあげて、言葉を切った。しばらく橋田の顔を見つめた。焦げ茶色の目が、動かずに自分を見ていた。ぎゅっと唇を噛むと、下を向いた。
「明来くん?」
橋田が顔を覗き込んできた。
明来は途端、満面の笑みを作った。
「大丈夫です。オレ、絶対失くさないし」
「明来くん?」
「心配しないで下さい。先生、オレね、失くさない方法を見つけたんです。ずっと握ってればいいんだ。こうやって」
明来はシャツの上から、胸のあたりをぎゅっと押さえこんだ。その形を見せる。
「ね、どこにも行ったりしないでしょう?」
橋田が破顔した。それから急に机に振り返った。
「ああ、そうだ。ひまわり園から写真が届いてるよ。見るかい?」
「はい」
明来はファイルを受け取った。早速開いて見た。
「あ、夏祭りの」
そこには小学生から中学生くらいまでの、少年少女が写っていた。今年の夏祭りの写真だ。園内で盆踊り大会をしたものだ。ひまわり園は橋田の紹介で連れて行ってもらったのだ。それからというものの、明来は頻繁に行くようになっていた。
「明来君は参加しなかったのかな?」
「この時、補習の夏合宿だったんですよ。行きたかったな」
「私が最後に行ったのは、お正月だったかな?」
「いえ、クリスマスです。みんなでケーキ焼いて、パーティした時ですよ」
「ああ、そうだったね。なんかお餅を食べたって思ってたんだけど」
「それ次の日ですよ。みんなで餅つき大会したじゃないですか。先生、つきたてのお餅を食べたでしょう?」
「ああ、思い出したよ。初めて大根おろしで食べたんだ。美味かったなー」
「でしょう? あれ母がいつも作ってくれてたんで。つきたての柔らかいお餅に、大根おろしの苦みが絶妙なんですよね」
「そうそう。あれから家内に言って作ってもらったんだけど、全然美味くなかったよ」
「そりゃ先生、オレの腕がいいから」
「おお、言うね?」
「ふふ、やっぱり料理人になろうかな。美味しいって言ってもらえるの、すごく嬉しい」
「そうかい?」
「はい。人が嬉しそうな顔していると、オレも嬉しいし」
「私もだよ。明来くんが笑っていると、嬉しいな」
「え?」
明来は目を見開いた。そしてつと下を向くと、少し唇を噛んだ。
「先生、変なこと言う。オレ、いつも笑ってるし」
「うん」
「変だよ」
「ごめんね」
謝っているのに、橋田はにやにやと笑っていた。
明来はもぞもぞして、なんだか居心地が悪かった。胸がもやもやっとして、なのに顔がにやけていった。
「あ、先週も行ったんです、ひまわり園。女の子達とビーズ作って」
「そうか。楽しかったかな」
「はい。瑤子ちゃんが、一緒にしてくれて」
「瑤子ちゃんが?」
明来はこくりと頷いた。
「笑ったり、話したりはできなかったけど、ただ一緒にビーズが作ってくれて、すごく嬉しかった」
「それはすごい進歩だね。きっと瑤子ちゃんも、明来君が喜んでくれたことを、いつか知るだろうね」
えっと、明来はまた息を飲んだ。
「ほんと? 瑤子ちゃん、いつか思い出してくれるかな?」
「そう思うよ。瑤子ちゃんの心の中には、明来くんやひまわり園のお友達が住み始めているんだ。いつも見ていてあげるんだよ。誰かが傍にいて、その誰かの笑顔が心に積もってくれば、その笑顔にしたのが自分だって、いつかきっと気づくだろう」
「笑顔にしたのが?」
「そう、明来くんを笑顔にしたのは、自分だってね」
「そうか。嬉しいな」
明来は呟いた。
「あと二ヶ月か。クリスマスなんてあっと言う間だね。今年もお餅食べたいな」
橋田は卓上のカレンダーを見た。
「今年は週末か。これなら私も行けそうだ」
「わ、絶対ですよ」
「よし。約束だ」
明来は笑った。橋田が急に手を出すと、明来の頭をぽんぽんと撫でた。くすぐったくなって、なんだかにやけてしまう。明来は胸元のお守りをぎゅっと握った。
橋田は机に戻ると、今日の処方をカルテに書き入れた。
「薬は同じものを出しておくね。また二週間後に来るんだよ。変わったことがあったら、いつでも来ていいからね」
「大丈夫です。オレ、すっごく元気だし」
明来は片腕をぶんと振り上げた。その姿に橋田も微笑んだ。
挨拶をすると、明来は診察室を出ていった。
明来はいつものように学校へ行った。もともと智加とはクラスが違うので、約束でもしていなければ顔を合わすことはなかった。東辞家訪問以来、ずっと智加の姿を見ないままだ。
ご両親なるものに会ったが、憤慨することばかりだった。それを素直に受け入れている智加にもだ。
「あーくそくそ。東辞のばかやろー」
課外が終わって、人気のいない廊下で、明来はひとり言が止まらなかった。
「だいだい、なんだよ。男のくせして、いじいじしやがって。イヤならイヤって、はっきり言えばいいだろう」
くそーっと明来はまた大声を出した。
その時、背後から声がかかった。
「斉藤くん」
「わ、びっくりした」
「斉藤明来くんだよね?」
一人の女性徒が、廊下に立っていた。
「あ、うん。そうだけど。君は? 同じクラスじゃないよね」
「前から一度お話ししてみたかったの。良かったら一緒に帰ってもいい?」
にこっと微笑んだ顔に、明来もつられて微笑んだ。
その子は三年C組の生徒だと言った。シャギーの入った長い髪で、色白で大きな目だ。
連れ立って歩くと、女生徒は明来より随分背が低かった。鞄に沢山のマスコットを付けていて、ぬいぐるみの熊や猫、ビーズでできたイチゴがキラキラ光って綺麗だった。
ひまわり園でビーズ作りをした日を思い出した。思わず、顔が綻んだ。
「それ可愛いね。ビーズの、キラキラしている」
「うふふ。イチゴの可愛いでしょう? なかなか見つからなくて、インターネットで見つけたの。私こういうの大好き。小さくてキラキラして可愛いの。斉藤くんは、趣味とかあるの?」
「趣味か、あんまりないなー。あ、そうだ、今は料理が趣味かな」
「ほんと? すごいね。私料理苦手だから、料理のできる男の人って憧れるな」
「そう?」
「うん。どんな料理が得意なの?」
明来はうーんと言って空を見上げた。
「卵焼き、かな」
そう言って、なんだか照れくさくなった。
「卵焼き? あはは。斉藤くんって可愛いね」
「でも、全然美味くないよ。焦げちゃうし」
「私は出汁巻き卵がいいな。斉藤くんは?」
「ええと、そう、甘いやつ。お菓子みたいな」
「甘いの? 美味しそうだね」
へへと笑って、明来は下を向いた。
学校を出てしばらく行くと、中央公園があった。その先に、女生徒が利用する電車の駅があった。
課外の補習が終わったあとで、辺りはすっかり暗くなっていった。夜間、この公園を突っ切って駅へ向かう生徒は、ほとんどいなかった。公園へ入ろうとする女生徒に、明来は足が止まった。
「そっちから行くの? もう暗いよ。表通りを行こうよ」
「でも、こっちの方が近道だし」
「そうだけど」
「街灯あるし、斉藤くんがいるから、平気じゃない?」
女生徒はにっこり微笑んだ。確かに灯りはいくつか点いていた。ベンチの下は明るいが、樹木が立ち並んだ歩道は鬱蒼として、やはり暗い。
「でも」
と言った時には、女生徒は既に公園の中へ入っていた。明来は仕方なく、あとを追いかけた。
やはり人っ子一人いない。あたりは薄暗く、キーキーと風で揺れる遊具の音がした。通りから少し入っただけだが、気温が低い。
明来はネクタイは嫌いなので外している。シャツの襟元のボタンも開けて、スカスカだ。制服のブレザーは冬用だか、明来はぶるっと震えが起こった。
ずんずん前を歩く女生徒は、中央の広場を通り過ぎ、低木の生い茂ったベンチのあたりで待っていた。
「君、足が速いね」
はぁはぁと息を切らして傍に行くと、いきなり明来は肩を掴まれた。ぎょっとなって振り返ると、そこに黒いジャージ姿の男が立っていた。
年の頃は二十歳を過ぎたあたりか、ひょろりとした背の高い男で、にやにやして明来を見下ろしていた。
明来は、女生徒に振り返った。逃げろっと言おうとした口が、ぴたりと止まる。
なんと彼女は、笑っていた。
「君は?」
「誰にも興味がないなら、良かったのよ」
「え?」
「なんでいつも一緒にいるの? そういうの許せない。すっごくムカつく」
「なに言ってるの?」
「バカには判らないでしょうね。東辞君の素晴らしさが。彼ね、私たちのカミなの」
「ええ?」
「神よ、神。天才で神々しくて、孤高で、誰の者にもならない。私たちとは違うのよ」
「神って東辞が?」
「呼び捨てにしないで、汚らわしい。彼のオーラ見たことある? 虹色で透明でキラキラして、すごく綺麗なの。あ、そうか、あなたみたいな凡人には、オーラが見えるわけないか」
きゃははっと笑って、女生徒は鞄を揺らした。マスコットのイチゴが街灯に反射してキラキラと光った。
「きみ、変だよ。なに言ってるの?」
「彼はそこにいるだけでいいの。だから誰も触れちゃいけなかったの。あなたも、あなたも、あなたも。みんな、誰もっ!」
「落ち着いて。ね、もう暗いから帰ろう。お母さんも心配しているよ」
「ばっかね。そんなの関係ないわ。私には東辞君だけ。東辞君がいれば幸せなの。彼は神よ」
「そんなのおかしいよ。あいつは神なんかじゃない。普通の人間だよ。オレたちとなんにも変わらない。ばか言って笑って」
刹那、女生徒が金切り声をあげた。明来は思わずひっとなって身が竦んだ。ヒステリックな声が、耳の奥できんきんと鳴った。
「バカバカバカ。なんて恐ろしい。自分がなに言ってるか判ってるの?」
女生徒が鋭い視線で睨み付けた。そうかと思うと、いきなり腰を曲げて笑いだした。可笑しくてたまらないと言った感じだ。
「あなたには罰が必要なの。これ、なーんだ?」
女生徒は手に持ったものを前に突き出した。
明来は目を剥いた。咄嗟に胸に手をやった。辺りを探す。ここにあったもの。
「オレのっ?」
「知ってるわよ。いつも大事そうに持っているものねえ。これが無くなったら、ちょっとは痛い目にあうのかしら?」
「返せっ。大事なものなんだ」
「これは罰よ。あんたが悪いのよ。当たり前のように、東辞君と喋って一緒にいて。生意気。図々しい」
「東辞とは普通に友達なだけだ」
「それがいけないのよ。東辞君は誰も触れちゃいけないの。皆のものであって、一人のものになっちゃいけないの」
「そんな理屈? 君だって喋ればいいだろ? あいつ普通に面白いやつだよ。口は悪いし、我がままだし。オレの弁当なんて勝手に食うし。無言の君なんて言われてるけど、あいつ全然」
パンと乾いた音が響いた。女生徒が手を振り上げ、きっと目を吊り上げて睨んでいる。明来は頬を押さえて、唖然となった。ぴりぴりとした痛みが走った。
「いったー。ぶっ叩くのも痛いのねえ」
女生徒は手首をくきくきと動かした。
次の瞬間、男に目配せをした。男がへらへらと笑いながら明来の正面に立った。ばっと腕を振り上げたかと思うと、いきなり顔面を殴りつけた。
ぶわっと横に吹っ飛び、地面に叩きつけられた。何が起こったか判らない。火がついたように顔面が痛い。げほげほと顔を押さえて蹲った。口の中を切ったのだろう、手に鮮血がついていた。
「う、げほっ」
「袋の中、見たわよ。なーに、きったない貝殻ねぇ。一体なんなの、これ?」
背中を丸めて蹲ったままだ。痛くて答えられるはずもない。
「大事に持っているから、なんかいいものかと思っちゃったじゃない。ばっかみたい。もういいわ。ほらあそこ、見て。焼却炉よ。今日は落ち葉を燃やす日なの。まだ火が燻ってるわ」
地面に突っ伏したまま、明来は目だけで前方を見た。そこには、鉄製の焼却炉があった。小さな窓が開けられ、その先にちりちりとした赤い炎が燃えていた。
「ぐっぅうっ。やめ。やめて、くれ」
明来は必死に声を搾り出した。男が明来の背中や腰を蹴りつけた。明来の身体はひくひくと痙攣して、まるで魚のように跳ねた。それが面白いのか、男は腹を抱えてひゃっひゃっと笑いだした。
明来は男の足にしがみついた。顔は腫れ、身体中砂だらけだ。
「大事なもの、なんだ。お願いだ。返してくれ」
「おい、見てみろ」
男が言った。明来が顔を上げると、女生徒が焼却炉の前でお守り袋をぶら下げていた。それをぶらぶらさせて、見せつけている。
そしてにいっと笑って、ぽんっと投げ捨てた。
「ああっ」
明来は愕然となった。先ほどの小さな火が、今は真っ赤に燃え上っている。明来の身体がぶるぶると震えだした。
「う、い、いやだ」
「明来」
「はなせっ」
誰かが腕を掴んだ。それを思いっきり突き飛ばした。明来は、転がるように焼却炉に走った。
「やめろ」
間髪入れず、炎の中に手を突っ込んだ。じゅっと熱風が吹き上がり、あまりの激痛に身体がはり裂けそうだ。
その手が、がしっと握られた。一気に引き抜かれて、赤く腫れ上がった指が、目の前に晒された。
「はなせぇ」
「明来」
「いやだ。はなせ」
「こっちを見ろ、明来。あきっ」
目を見開いた。なんと智加だ。煤まみれで、眉を吊り上げて立っている。途端、明来の両目にぶわっと涙が溢れてきた。
「とう、じ」
「なにやってるんだ。このばか」
「うあっ。あれが」
「ほっておけ、あんなもの」
「いやだ。いやだぁ。うっくぅ」
明来はなおも焼却炉に手を伸ばした。もがく明来の身体を、智加が押さえつけた。それでも必死に手を伸ばした。赤黒く腫れた指が、どうしても届かない。
「諦めろ」
「いやだ。あれしかないんだ。とうじ、とうじ。お願いだ」
明来は何度も名前を呼んだ。頭を下げ、智加に懇願する。目はかすみ、打撲で口は切れ、上手く動かなかった。焼けて黒くなった制服の袖、指先は灰にまみれ、ぱんぱんに腫れ上がっていた。
その手で、智加の胸に手をついた。
「とうじ」
そのまま膝を折って、ずるずると崩れた。地面に突っ伏し、嗚咽を殺して泣き崩れた。
「東辞君、なんでここに?」
女生徒がわなわなと震えだした。
智加が目の前の男女をまっすぐに見据えた。顔は無表情で、切れ長の目は瞬きもしていなかった。凛とした静けさが辺りを包み込んだ。
「殴ったのは、お前か?」
「だったらどうだってんだよ?」
男は声を張り上げた。腕を突き出すと、智加の襟を掴み上げた。
「やめてっ」
女生徒が叫んだ。明来はばっと顔を上げた。
智加の口が動いていた。ぶつぶつとなにかを唱えだした。
「掛巻も畏き、鎌切之大神達、その悪しき神霊を持ちて」
言霊だ。ぶわっと足元から砂嵐が立ち始めた。
「ぐあっ」
途端、男が唸った。智加を掴んだ腕が、奇妙な形に捻じ曲がったのだ。情けない悲鳴を上げ、涎を流し泣き喚いていた。
それでも智加は、言霊を言った。
「ぐっ、ぐわ。やめろ。助けてくれー、弘美っ」
男が腹を押さえて蹲った。苦しいのかぐるぐると地面を転げ回った。がっと一声上げたかと思うと、泡を吐いて動かなくなった。
智加は、潰れていく男を見ながら、薄ら笑いを浮かべていた。
「とうじ?」
明来は智加の腕を掴んだ。何度呼んでも、智加はこちらを見ようとしなかった。
「東辞君。違うの。ごめんなさい、私」
女生徒が真っ青になって震えていた。
「あんた、誰だ?」
冷ややかな声が、彼女を貫いた。刹那、ぐにゃりと身体が揺れて、腰からぺたんとしゃがみ込んだ。まるで糸が切れた人形のように、ぐてんと座り込んでいる。それから頭をぶらぶらと揺らし始めた。
動きが妙だ。だらりと唾液が垂れ、恍惚とした表情は尋常ではない。
智加が更に右手を前に突き出した。
「やめろー」
明来が叫んだ。
その時、目の前に大きな影が立ち塞がった。それは智加の父親、東辞亘だった。聞き慣れない言葉を発すると、智加の身体がいきなり大きく跳ねた。
がっと呻いて、智加がゆらりと崩れ落ちた。その身体を別の腕が抱きとめた。高宮だ。
亘は智加の胸ぐらを掴み、無理矢理立たせた。
「この、馬鹿者っ」
気絶しかけている智加の顔を、一発殴りつけた。
唸き声が口から漏れた。薄っすら開いた智加の目が、亘を睨みつけている。
亘の罵声が響き、殴打する音が何度も響いた。明来は恐ろしさのあまり、頭を抱えて座り込んだ。
「総代、そのくらいで」
「口を出すな。あれほど躾たというのに。この馬鹿犬が」
智加は疾うに気を失っていた。
「さっさと運べ」
ずた袋のような智加を、亘は高宮に放り投げた。高宮の腕の中で、ぐったりとうな垂れている。額が切れて、出血が夥しい。黒い髪がべったりと貼りついていた。
亘が明来に振り返った。
ひっと思わず声が漏れた。明来は恐ろしさのあまり、指の一本も動かなかった。ガタガタと震えて、歯の根が合わない。恐怖で全身が粟立った。
「高宮」
「はい。承知しております」
高宮は後ろに控えていた男に目配せをした。黒いスーツを着た若い男だ。二人がすっと明来の方へ動いた。
男がばっと明来の腕を取った。途端、口にタオルが押し当てられた。ツンとする刺激臭に、明来はもがいた。
すっと吸い込んだ瞬間、意識が遠のいていった。
「記憶を消しておいて下さい」
高宮の声が響いていた。
ズキンズキンと、頭の血管が脈打っている。今、目を覚ましたら、きっと頭痛がするだろう。
明来は目を開けたくなかった。ううーんと唸ると、小さく身動きしてみた。
あれ、今日は学校だったろうか、そんなことをぼんやりと考えた。
途端、目がばちっと開いた。見慣れた天井だ。白い壁紙のそれは、一度明来がボールをぶつけて、茶色い染みができたものだった。その染みが目に入ってきた。ここは自分の部屋で自分のベッドだ。
その時、目覚まし時計の電子音が鳴り響いた。
ばっと起き上がって、机上の時計のボタンを押した。その横に、お守り袋が忽然とあった。
明来は一瞬で思い出した。
「なんで? あの時」
明来はそっと手を伸ばした。両手でぎゅっと握った。表面が少し焼けて、布がぼろぼろだ。それでも、それはちゃんとあった。中身もちゃんと。
明来は安堵のあまり、大きな息を吐いた。
「良かった」
そのまま胸に抱き締めた。愛おしそうに押し当て、またベッドにもぐりこんだ。
「痛」
その時、右手に鈍痛が走った。今、ようやく気づいた。目の前にあるのは、包帯でぐるぐる巻きにされた右手だ。左頬は腫れ、大きなカーゼが貼ってあった。ちくりとした反対の腕を見ると、静脈の上に注射針の痕があった。明来の顔が段々歪んでいった。
「東辞は?」
明来は床を見た。カバンが放り出されている。ファスナーの開いた口から、内ポケットに入っている携帯電話を取り出した。智加のナンバーに電話をかけ呼び出した。
だが、ツーツーという不通の音しか聞こえない。何度かけても同じ音だ。仕方なく携帯を机に置いた。
「とうじ」
明来はお守り袋を握り締めた。
その日を境に、智加は学校に来なくなった。十月も後半に入り、秋は随分深まっていた。歩道の銀杏は全て葉を落とし、地面は落ち葉で黄色に染まった。潰れた実が、腐ったような独特の匂いを漂わせていた。
受験も追い込みの時期となってきた。毎日のように補習を受け、学校を出た頃はすっかり暗くなっていた。頬の打撲も手の火傷も、手当てが早かったせいか、もうほとんど痛みがない。
明来の自宅は、学校からバス一本で行けるほどの近さにあった。帰りにスーパーにより、食材を買う。今日は、久しぶりに父が帰ってくる日だった。
ぽつぽつと街灯の点き始めた住宅街を、スーパーのビニールの袋を提げて歩いた。
自宅は新興住宅地の一角で、同じような家が建ち並んでいた。どの家にも玄関の明かりが点いている。玄関灯の点いていない家が、明来の家だった。
門をくぐると、萩の花が目の前を掠めた。
「今年は、よくもってるな」
明来は花弁一つを手に摘んだ。白い花はまだ咲いていて、今年は花期が長い。秋の長雨がなかったせいか、例年より花持ちがいいようだ。二、三本引き抜くと、手にしたまま、がちゃりと玄関の鍵を開けた。部屋の中は真っ暗で、しーんとしていた。明来はすぐに玄関灯をつけた。今日は電灯はつけっぱなしだ。そう思うと、自然と顔が綻んだ。
キッチンのテーブルにスーバーの袋を置いた。洗面所の戸棚から花瓶を取ってくる。ガラスの一輪挿しに、萩を挿してテーブルの上に置いた。
父親と二人暮らしで、その父も出張が多く、滅多に帰ってこない。殺風景で、何もないキッチンが、すこし和らいだ。
「さーて、今日は鍋だ」
明来はブレザーを脱いで、ジャージをはおった。一緒に夕食が取れるのは二週間ぶりで、今日のメニューは父の好きな鍋だ。
パックの鯛の切り身を、沸騰した湯にさっとくぐらせた。臭みが取れたら、少量の酒をふる。野菜は春菊と白菜、にんじんを輪切りにしたものと、もやしもつけた。しめじとえのきは鍋には必須だ。出汁はあっさり和風出汁で、最後にうどん玉を投入するのが、斉藤家の鍋だった。
その時、留守番電話が点滅しているのに気づいた。聞いてみると、
「父さんだ。今日帰る予定だったんだが、電気系統の故障でな。すまん、帰れなくなった。来週は絶対帰るから。それとデジカメで撮った画像が見つかったから、お前のメールに送ったよ。でも、まあそうだな、気が向いたら見てくれ」
「はあ、またかよ」
明来は大きな溜息をついて、用意した沢山の野菜を見た。
父親は列車を整備する技術者だ。各方面に移動も多いが、急な事故や故障には二十四時間体制で対処しなくてはならない。家を空けることが多かった。
「なんだかなー」
少量の材料を取り、残りは冷蔵庫へしまった。一人分なら行平鍋で十分だ。簡単に出汁をとって鯛の切り身を入れる。あくを取ったあとで、しめじ、白菜、春菊、マロニーとごちゃ混ぜに突っ込んだ。
「お、なかなか良いにおい」
ぐつぐつと、湯気が立ち始めた。明来は自然と顔が緩んだ。
白菜がしんなりしたところで火を止め、鍋ごとリビングに持っていった。薬味は葱とゆずこしょう、つけだれはポン酢と胡麻だれだ。
まずは鯛の切り身をぱくりと食べる。ほくほくと温かく、白身の淡白な味が胡麻だれによく合った。
「うっまーい。オレ天才」
明来は満面の笑みだ。
テレビの電源を入れると、面白ペットビデオが始まった。投稿者の動画で、タタタッと走ってダンボール箱にすぽんと入る猫の動画だ。次は帽子を被った猫が映っている。嫌がってぶんぶん身体を揺らすのが、まるでダンスをしているようだ。
「あはは。可愛い」
今度はオカメインコの求愛行動だ。
「へー、ほっぺが赤いんだ。なんかラブラブで赤くなってるみたいだな。いいなー、オレも彼女欲しいな。インコだっているのにさ。って、まずは受験なんだけど。目指せ、現役合格」
明来はがくりと俯いた。
「ああ、言ってて虚しくなった。無理っぽいのに」
第一志望の大学には、ほど遠い成績だ。ふいに口を閉じて、まだ湯気のたつ鍋を見た。行平鍋で作ったため、材料がごった煮になっている。
「東辞。何点って言うかな? 七十点、いや、味はいいから八十点か?」
「三十点」
その時、テレビの司会者が叫んだ。
「わ、びっくりした」
画面では、投稿ビデオの採点が始まっていた。ゲストが次々に電光掲示板に数字を出している。オカメインコは三十点だ。
「なんだ、インコの点数ね。鍋かと思った。東辞なら見た目が悪いって、三十点言いそうだしな。あの我がまま王子め」
目の前では、点数がどんどん流れていった。明来は急に黙り込んだ。ソファに足をあげ、両手でそれを抱くように座る。携帯電話を出すと、リダイヤルの画面を呼び出した。そこには、智加への何件もの履歴が残っていた。
明来は何もせず、携帯のフリップを閉じた。
ふと思い出して、二階の自室に上がった。パソコンの電源を入れ、メールを受信した。
父からのメールだ。それには添付ファイルがついていた。画像をクリックすると、遊園地の写真が現れた。
「あ、これ」
明来は思わず声を上げた。
それは、家族三人で旅行した時の写真だった。
明来は小学校二年生くらいで、髪が短く、半袖シャツを着ていた。大きな噴水の前で、母が明来に抱きついていた。
母は笑っていて、肩くらいに切った短い髪で、毛先がカールしたように跳ねている。丸い顔で、ふっくらしていて、目は大きく色素の薄い茶色だ。
写真を撮っている父に、手を振っていた。
「そうだ、短く切ったんだった。女みたいだって言われて、カチンってきて。でも結局、短いのもイヤだったんだよね」
明来は自分の髪の毛を引っ張った。ピンピンと毛先がカールして、あちこちに跳ねていた。
写真の髪と、今の髪を見比べた。そして、今の髪をまた触った。母の髪は、もうちょっと長いようだ。
写真を引き伸ばして、母を大きくした。
毛先の跳ねた髪は自分と同じで、色素の薄い目も一緒だ。目じりのところに小さなほくろがあって、それは明来にはないものだった。
明来は指で母の顔をなぞった。
パソコンの液晶画面がぐにゃりと歪んだ。目も頬も髪も、触っても潰れるばかりだ。それでも、母は笑っていた。
明来は唇を噛み締めた。ただぐっと噛み締めて、胸に下げたお守りを握り締めた。
(続く)