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第四章

智加は偶然出会った明来に、親を亡くした子供たちが暮らす「ひまわり園」に連れて来られた。智加にとっては所詮他人事、面倒なことでしかなかった。失語症の女の子・瑤子に懐かれた智加は、言葉を交わす必要がないので、適当に相手をした。明来がなぜ笑顔でいるのか、明来の言うことはやはり智加には不要なことのように思えた。

第四章



 明来に連れられて、二十分もバスに乗り、歩道などない長い坂道を上った。両側には整備されていない樹木が鬱蒼と茂っていた。ところどころ、キーキーと鳴く声は鳥の声か、頭上をばさばさと大きな羽音が飛び去っていった。途端、目の前が急に開けた。

「着いた」

 明来が手をさっと差し出した。その門柱には、「ひまわり園」と書いてあった。

 思わぬ展開に、智加は目を瞬いた。

「ここは?」

「知ってんの?」

「いや、初めて来る」

「そっか。きっと楽しいぞ」

 そのまま連れられて、園内に入った。田舎の小学校のような木造の平屋だ。ガラガラっとガラス戸を開けると、明来は大声を出した。

「こんにちは。お邪魔します」

 すると奥から、きゃあという女の子の賑やかな声が聞こえてきた。ついで、バタバタと大きな足音が迫ってくる。

「きゃー、明来くん、いらっしゃい」

 小学校低学年くらいの女の子が、四、五人転げるように走ってきた。明来の手を両側から引っ張ると、嬉しそうに抱きついている。

「みんな、元気だった?」

「うん。元気。待ってたよ」

「ねえねえ、後ろのお兄ちゃんは?」

「あのお兄ちゃん、格好いいー。背が高いー」

 きゃっきゃと笑って、既に注目の的のようだ。後ろにいた智加は、その勢いにちょっと引き気味だ。女の子達はじーと見たり、そうかと思うともじもじして、ちょっと恥ずかしそうだ。

 明来が後ろを振り返った。

「このお兄ちゃんは僕の友達で、はるかって言うんだ。はるか兄ちゃんでいいよ」

 ええ? と智加は思わず眉間に皺が寄った。

「ビーズ作り、一緒にやりたいって。みんな、いいよね?」

「やったー」

 女の子が一斉に歓喜の声を上げた。

 智加は口をぱくぱくさせた。

「なんだよ? 死んだ魚みたいに」

 智加はぎっと睨んだ。

「ああ、もう、そんな怖い顔しちゃだーめ。いい? 楽しくしなきゃ。さ、入った入った」

 食堂で待ってるね、と言って、女の子らは先に走っていった。明来は智加の腕を取ると、ぐいぐい引っ張って行った。

「ね、可愛いだろ?」

 明来がにやりとした。智加は肩をすくめると、声を出すわけにもいかず大人しくついていった。

 食堂は広いテーブルがあり、女の子たちが先に座ってビーズ作りの用意をしていた。明来はカバンから袋を取り出すと、ビーズのパーツやテグス、ペンチ、紐などテーブルに広げた。

「はーい。今日はこのビーズでアクセサリーを作ります。好きなの使っていいからね。その前に」

 と言って、明来は端に座っていた智加の傍に来た。

「はるか兄ちゃんを紹介します。僕と一緒の学校に行ってます。すごく頭が良いです。顔は、ええと僕の次くらいにハンサムさんです」

 うそーっ、と女の子達が一斉に笑った。

「でも、はるか兄ちゃんは喉が悪くて、言葉が喋れないの。みんな、はるか兄ちゃんがお返事できなくても、許してあげてね」

「はーい」

「いいお返事です。じゃあ早速、今日は何を作ろうか?」

「ユキね、ペンダント」

 おかっぱ頭の女の子が、はいと手上げて言う。首元をきゅっと両手で押させて、満面の笑みだ。

「ここにね。じゃらじゃらって下げたいの」

「そう、ペンダントか。いいね。きっとユキちゃんに似合うよ」

「うふふ」

 小さく首をかしげて、今にも零れ落ちそうな笑みだ。明来も嬉しそうな顔をした。

「パーツはどれにする?」

「えーと」

 落とさないように箱に入れたパーツを、じゃらじゃらと回して探している。菱形の透明なパーツや、キラキラ光るガラスで覆われたイチゴ、編み込みビーズでできたインディアンの女の子、色々なパーツに目移りしているようだ。

「ユキ、これがいい」

 桜の花びらのパーツを取り出した。

「あ、それ可愛いいね。ビーズを数珠みたいに繋げて、それ下げたらいいかも」

「うん。そうする」

「私は、ブレスレット」

 今度は別の女の子が明来の手を取った。

「じゃあこれは?」

 明来がリーフ型のパーツを取ってあげた。

「ううん。こっちがいい」

 女の子は、アンティークな鍵のパーツを取って見せた。

「あ、それ、僕が使おうと思って。ごめんね」

「そうなの。いいよ。じゃあこっち」

 女の子は、キラキラ光ったダイヤモンドみたいな王冠を選んだ。

「ああ、それいいよね。お姫様みたいだ」

「うん」

 わいわいと明るい声が絶えなかった。

 ふと見ると、作業室の入口に女の子が立っていた。明来も気づいたのか、じっとそちらを見ていた。

「瑤子ちゃんは来ないよー」

「ねー」

 女の子たちが口々に言った。

 明来は席を立つと、そっと近づいていった。瑤子と呼ばれた女の子は、ずっと俯いたままだ。しゃがみ込んで目線を一緒にすると、そっと女の子の手を取った。

 何をするのだろうと見ていると、明来はそこにキラキラ光ったビーズを一つのせた。そのビーズを、指先でコロコロ転がした。色々な角度で光があたって、赤や紫に光っていた。

「これ、虹色ビーズなんだって。こうやると色が変わるだろ?」

 瑤子はじっと見ていた。

「お日様に当てると、どんな色になるかな?」

 小さな手のひらを少しすぼめて、瑤子はビーズを包むようにした。そのままで、しばらくじっとしていた。明来もじっと見つめていた。

「瑤子ちゃんと、一緒に作りたいな」

 瑤子はまだ小学校に上がったくらいか、テーブルについている女の子達より小さく見えた。

 今度は手のひらをそっと開けてビーズを見ると、ふいに頭を上げた。その顔が智加を見た。無表情だが、確かにこちらを見ていた。視線を追って、明来もこちらに注目した。

「あ、はるか兄ちゃんとやる?」

 瑤子はコクンと頷いた。明来は瑤子の手を取ると、智加の横に座らせた。

「よろしくね。はるか兄ちゃん」

 明来が満面の笑みで、瑤子を託していった。智加の頬がひくっと引きつった。こんな年頃の子供など、面倒をみたことはない。

 隣にちょこんと座ったまま、瑤子は虹のビーズを握ったままだ。下を向いてじっとしていた。智加は仕方なくビーズを幾つか取ると、テグスを少し切って目の前に出した。

 智加は無言だ。瑤子も無言だった。

 仕方なく、指先でビーズを一個づつ目の前に並べていった。赤の次はブルー、薄い黄色の次はグリーン。色を交互に変えて、作っていった。それはネックレスほどの長さに連なると、一つの輪になった。 

 智加はテーブルに肘をついて、顎をのせた。しばらく瑤子の反応を待つが、無反応だ。さて、どうしたものか。そのまま顔をかしげて見ていた。

 小さな頭で小さな顔で、髪はショートでふわふわとしている。空色のワンピースを着て、胸のところに白いリボンがついていた。足をぶらぶらさせていて、靴下は白いレースで、折り返しの部分が花柄になっていた。

 可愛いのが好きなのか。ふいに思いついて、ビーズの配置を入れ替えてみた。赤の次にオレンジを持ってきた。瑤子の目が少し動いた。次は、黄色を取り、ピンクと交互に並べてみた。ブルーとグリーンのパーツをはずして、明るい色に揃えてみた。その度に、瑤子の表情を見た。手のひらの虹のパーツをじっと見ては、テーブルの上の輪と交互に見比べていた。

 興味は持ってくれているらしい。

 明来のほうはどんどんアクセサリー作りが進み、もうテグスでビーズを繋ぎ始めていた。女の子たちの明るい声が飛び交っていた。

 よく見ると、明来はテグスとビーズの止め具を繋げるのに、苦戦しているようだ。ペンチを片手に、作り方の本と睨めっこをしていた。

「明来くん。それ、ここ。ここ留めるの」

「えー、どこ?」

「本見てよ。小さい輪っかの」

「えー、僕こういうの苦手なんだよ」

「もう、明来くんったら、使えないんだら」

「えーそんな」

 なんともだらしない表情だ。額の汗を拭いながら、本を必死に読んでいた。小学生に使えないと怒られ、智加は思わず笑いを噛み殺した。

「あ、これか。判った判った」

 パチンと小さな音がして、上手く留められたようだ。女の子の一人が、早速出来たネックレスを首に通していた。

「きゃー可愛い。見て見て」

 女の子が明来に抱きついて、大喜びしている。

 瑤子も彼女らの様子をじっと見ていた。ぎゅっと握り締めた虹色のパーツ。その表情は悲しそうな羨ましそうな、なんとも言えない表情だった。

 小学一年生くらいだろう。うんともすんとも言わない様子は、失語症なのだろうと予想はついた。ひまわり園という場所を考えても、理由は一つしかない。

 智加は輪の中央に、少し空間を作った。そこに虹のパーツを入れるとどうだろうと、瑤子の手をじっと見た。

 瑤子は首を横に振った。智加は静かに見守った。

 虹のビーズを持った手とは反対の手を、そっと伸ばしてきた。小さな人差し指がすっと近づき、輪になったビーズの赤に触れた。それをそっと横にずらすと、緑色のビーズに入れ替え始めた。

 幾つもの緑のビーズを近くに揃えると、瑤子はあちこちに入れ始めた。赤いビーズがどんどんはじかれて、輪の中には一個もなくなった。智加はその様子をじっと見ていた。

 緑とオレンジと黄色とピンクで、輪が出来上がっていく。その真ん中に、瑤子は虹色のビーズをそっと置いた。

 智加は思わず瑤子の頭を撫でた。ぽんぽんと触ると、一瞬びくっとして、瑤子が顔を上げた。そして口の端が少し上がったように見えた。

 智加はもう一度頭を撫でた。

 瑤子は、今度は見向きもしなかった。ただ虹色のビーズを、指であちこちに動かしている。どこに入れると一番綺麗に見えるか、どうも試しているようだ。

 智加はその様子をじっと見ていた。瑤子がついに虹のビーズを一箇所に置いた。そして手を引っ込めて、自分の膝の上に揃えて乗せた。それからじっと止まったままだ。

 決まった、と言うのだろう。

 智加はテグスを取ると、置いてある順番のまま、繋ぎ出した。瑤子がその様子をじっと見た。虹色のパーツのところにくると、瑤子の身体がふっと上がるのが判った。

「ん?」

 智加は咄嗟に、瑤子の顔を見た。

 瑤子が小さく口を開けていた。息をしているのか、言葉を喋っているのか、それは定かではなかった。

 ふと口を噤んで、瑤子はまた静かになった。繋がっていくビーズをじっと見て、両手を膝に置いてかしこまっていた。

 智加は作り方の本とペンチを借りて、ペンダントの留め具を合わせた。ネックレスのようにきちんと出来たそれを、瑤子に渡した。

 瑤子はそれを手に取った。小さな両手で、包み込んだ。そのまま胸元まで寄せると、ぎゅっと抱いた。

 途端、たたっと走って食堂を出て行った。

 智加はその後ろ姿を見ていた。ふと気づくと、明来がこちらをじっと見ていた。明来だけではない、女の子達もみな見ていた。わらわらと立ち上がると、瑤子のあとを一斉に追いかけていった。みな、手には出来たてのアクセサリーを持っていた。


 それから一時間ほどいて、園長に挨拶したり、お茶を飲んだり、歓談をした。終始、瑤子は端で俯いたままだった。それでも、皆の輪の近くにいた。首から提げたペンダントを時折触って、じっと見ていた。

 次に来る約束をして、ひまわり園をあとにした。


 あたりはだいぶ暗くなっていた。バス亭までの道すがら、明来が話し始めた。

「瑤子ちゃんね、半年前にお母さんを亡くしているんだ。それから上手く喋れなくなって。今はおばあちゃんとお父さんと暮らしているんだけど、週末はよくここに来てるんだ。同じ境遇で、同じ年頃の女の子が多いから、何かきっかけができればって」

「そう」

「今日初めてだったんだ。女の子たちの輪にいたの。一緒に遊んだのって」

「お前にも、懐いてないのか?」

「うん。もうだいぶ通っているんだけどね」

「なんで俺だったんだ?」

「オレ思ったんだけど、喋れないのが同じだって、思ったのかも」

「同じか」

「共感できるものが、あったんだろうね」

「喋ってはなかったがな」

「うん。それでも十分だよ。一緒にビーズを作ったんだ。虹色のパーツ、気に入ってくれたし」

 明来は歩きながら、前を真っ直ぐ向いていた。足元は暗く、ところどころある街灯は、明来の後ろ姿を照らしていた。

「なんで、そんなに一生懸命なんだ?」

「え、オレ? そんなことない。普通だよ」

「ひまわり園の子らは、幸せだな」

 明来はつと視線を寄こすと、小さく首を横に振った。

「ううん。なかなかね。前に進むなんて、簡単なことじゃないから。東辞、あのさ、もし隣で泣いている子がいたら、東辞だったらどうする?」

「どうもできないな。そいつの苦しみは、そいつにしか判らないだろ。何言っても、偽善にしかならない」

「それはそうなんだけど。でもずっと傍にいたら、いつか笑ってくれるんじゃないかなって、思ったりしない?」

「それで、救ってるつもりなのか?」

 明来はばっと首を振った。

「救うなんて、とんでもない。そんなことできないよ」

「ま。そうだな」

「でも、信じることはできる」

(信じる?)

 中島の言葉が蘇った。信じて信じて、信じ抜くこと。そう言っていた。

 智加は苦笑した。

「信じるって、なにを?」

「瑶子ちゃんが、笑っている未来を」

「未来ね。楽観的だな。なにを根拠に」

「根拠なんてないよ。瑤子ちゃんのコップに、注ぐだけだよ」

「コップ? なにをだ?」

「信じる、を」

「はあ? コップが割れてたらどうするんだ?」

「それでも注ぐだけ。底から抜けていってもいいんだ。ただ注ぐ、それだけだよ」

 明来は笑った。ふいと下を向くと、とぼとぼと歩き出した。

「俺には理解できないな。人が人を救えるなんて、思わない」

「そうだね」

「だったら、お前はどうなんだ? 救われたのか?」

「え、なんのこと?」

 明来は立ち止まった。

 智加には見える。ぼたぼたと、腐った鼠が落ちていく。

「いや、なんでもない」

 智加は自分の顔が歪むのが判った。踵を返すと、先に歩き出した。

 車一台通らない静かな歩道で、鈴虫の鳴く声が聞こえてきた。歩道の両側には、ススキの穂が沢山茂っていた。

 明来は早足で追いついてきた。

「なあ、東辞。笑っただろ?」

「いつ?」

「瑤子ちゃんの頭を撫でた時」

「笑ってない」

「笑ったよ。オレ不安だったけど、連れてきてよかったって思ったもの」

「知らない世界を、見ただけだ」

「ふん。意地っ張りめ。これ、やる」

「え?」

 明来が握り締めた拳を、前に突き出した。ぷらりと下がった皮ひもに、鍵のパーツが揺れていた。先ほどひまわり園で見たパーツだ。

「要らん」

「え、なんで? ったく素直じゃないな。ほら、とっとけって」

「なんだんだ。お前は」

「これ見たら、思い出せよな」

「はあ?」

 明来からぐいぐいと押し付けられて、仕方なく受け取った。それは携帯ストラップだ。自分は持ち物にあまり執着しないため、ストラップやキーホルダーの類はつけなかった。家の鍵も持たされたことはない。

 明来はすたすたと歩き出した。





「智加さん。第八巻三章第六段を暗唱してください」

「ここで?」

「はい。お部屋では嫌でしょう?」

 帰路の走行中、車内で高宮が言い出した。むっとしながらも、智加は車外に視線を移し、そらんじ始めた。

 夕暮れが迫った国道に車体の影が伸びて、対向車はほとんどない。歩道では小学生がスポーツバッグを下げて、自転車を飛ばしているくらいだ。野球のユニフォームを着た、まだ幼い少年だ。バッグのほうが大きいように見えた。

 智加はぼんやりと見ていた。あのくらいの歳だったか。父から命じられた暗唱は、三巻とも幼い頃に覚えたものだ。

 東辞にきて三年で叩き込まれた。さほど苦労はなかった。

「此の斎庭に 神籬挿立て厳の磐境と祓清めて 招奉り坐せ奉る 掛けまくも畏き産土大神御年神等の」

 智加は目を閉じた。朗々と口から溢れる祝詞は、車内を埋め尽くしていった。

「では、四章の十三段を」

「火の恵は 生活の上に無くて叶はぬ奇霊の力なるも 一速び給ふに至り手は 人々の痛く歎き慨たむ事になも有りける」

 ふと、智加は言うのをやめた。高宮は怪訝な顔で、次の課題を出した。

「では、二十六段を」

「火産霊の荒び健び給ふ事無く 夜の守日の守に守り幸へ給ひて」

 途端、胸の火傷がちりりと痛んだ。ふいに押さえた胸元には、制服の内ポケットに携帯電話が入っていた。鍵の形のストラップに、指先が当たった。

「智加さん?」

 祝詞が止まった。

「忘れた」

「あなたという人は。それでは私が叱られます」

 高宮の意図はばればれだ。第一これは地鎮祭の祝詞ではない。鎮火の祝詞だ。

「どこへ連れて行くつもりだ? 方向が違うと思うが」

「済みません。少々、お付き合い願えますでしょうか?」

 バックミラーの中の高宮は、目を細めて微笑んだ。今日は眼鏡をかけていた。薄いフレームだ。真っ赤に充血した目が、見てとれた。コンタクトレンズで目を傷めたのだろう。

 それから国道を一時間ほど走り、山の工事現場に到着した。そこは中島市長の依頼で地鎮祭を行った飯山だった。

 今は整地もされ、工事のフェンスがぐるりと囲み、関係者以外の立ち入りを禁止していた。

 看板には、『飯山小学校建設予定地』と書いてあった。

「今日は許可を頂いております。中に入りましょう」

 高宮は先に降りると、智加の座っている後部座席のドアを開けた。降りろと暗に命令しているようなものだ。

 智加はしぶしぶ立ち上がった。一歩踏み出した途端、ぞくりと背筋が粟立ってきた。

 辺りを見ると、薄っすらとした電燈が照らしていた。

 右側前方には、小さなプレハブの事務所が立っていた。回りには小型のショベルカーや機材、ダンプカーに積まれた土砂があった。

 智加は歩き出した。柔らかい地面に、深い足跡がついていった。

 焦げた匂いがどこからか漂ってきた。足元には黒い土、じっとりとした湿気がまとわりついた。しんと静まった空気。まるで殺虫剤でもかけられたかのように、何も孕んでない。緑の匂いも木々の熟れた果実の匂いもない。今の時期なら、山は収穫の季節だ。それぞれ熟れた果実をたわわにつけ、芳醇な香りを漂わせているはず。だが、全く山の生気が感じられなかった。

 智加は周りを歩いた。一見すると、緑が茂り、大きな樹木が育っている。普通の人が見れば、ただの開拓された山だろう。だが、智加が見ているのはそれではなかった。

 夜のとばりはすっかり降り、電燈の明かりでようやく見える程度だ。キーキーと鳴く鳥も、虫の声もなかった。

 神経を研ぎ澄まさなくても、判った。

 この土地には、何も生まれない。

 あの時、全てをぎ払った。火で焼いてしまったからだ。

「こんな」

 智加は俯いて、自分の足元を見た。智加の体重で、靴底がいぼり込んでいた。片手を伸ばし、一握りすくった。ゆっくりと、自分の目の前に持ってきた。強く握ると、指の間からぐにゃりと零れた。それはぼたぼたと、足元に落ちていった。

 中島市長の言葉が蘇った。


『智加君にそう言ってもらえると、嬉しいな。夢だからね』


 途端、ズキンと胸が痛んだ。火傷が、染みのように残っている場所だ。ドクドクと脈打ち、針で刺したような痛みが走った。この土地に未練でもあるのか。

(忌々しい)

 智加は立ち上がった。後ろを見ると、高宮がじっと見ていた。黒いスーツに身を包み、顔は無表情だ。そのまま、一歩二歩と近寄ってきた。

「お判り頂けたでしょうか?」

「なにがだ?」

「浄化の作用。あなたは方法を間違った、ということです」

「しかし、あの時は」

「あなたは、力を誇示しただけです。禍神より強いという自分の力を。この土地を清め、崇めたのではない。ただ、殺虫剤をかけたに過ぎないのです」

「あの怨嗟は、神格化することは不可能だった」

「禍神とはそういうものですよ。無理だから消すというのは、東辞の望む道ではありません。ましてや神道の」

「東辞の、望む道?」

 智加は愕然となった。何を望むというのだろう。八歳で引き離され、過酷な修行を強いられ、父の言いなりになってきた。

「望む道ってなんだ? 東辞が何を? 捨ててきたのはそっちじゃないか」

「智加さん?」

「要らないものは切り捨てる。人の気持ちなんて考えなしだ。力で捻じ伏せ、言うことを聞かせて。それが東辞のやり方だろ?」

「あの時のことを、仰っているのですか?」

 智加はぎりっと奥歯を噛み締めた。

「他になにがある?」

 高宮はため息をつくと、ふいに視線を下げた。

「大人気ない方ですね」

「なに?」

「過去は過去ですよ。そんな子供っぽい考え、早く切り替えなさい」

「たいそうな言いようだな。この俺に向かって」

「勘違いしてもらっては困ります。私はあなたの教育係。私がお仕えしているのは、あなたのお父様ですから」

 智加の眉間に皺が寄った。

「あなたは、これからが大事なんです。神官として華々しいデビューをし、名指しで依頼が来るようになった。神社本庁も、ようやくコンタクトを求めてきました。東辞がこの世界で復興できるかどうかは、あなた次第なんです」

「それが、そんなに大事なことか?」

「もちろん。他になにがあると言うんです?」

「だから、なんでもしろと言うのか?」

「なんでもとは、聞き捨てなりませんね。道理に背くようなことはしていませんよ。百年におよび、我々は虐げられてきたんです。一時の感情など、取るに足りません。それはあなたのお母様も、ご承知だったでしょう?」

「違う。お前らが母を」

「いえ、そうではないはず」

「な?」

「思い出して下さい。あの日のこと」

 智加は息を飲んだ。高宮の声が頭の中に響いて、記憶がオーバーラップする。

 あの日。智加は手で顔を覆った。あの時、母は。

「ちがう。俺は……」

 顔を横に振った。全身から、力が抜けていく。

「あなたが生きていく場所は、ここでしかないはず。そうでしょう?」

 そう言って、高宮は口を閉ざした。

 八歳の智加を、恐ろしげに見下ろしていたのは、母親のほうだった。自分がそうさせたのだ。

 ぎりぎりと奥歯に力が入った。

「この土地は、俺の失敗だ。これで満足か?」

 そう言い放って、智加は車のほうへ歩きだした。



(続く)

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