第三章
智加は、市長の中島の自宅を訪れていた。そこでひょんなことから、明来の過去を知る。明来の笑顔の下にあったものが、腐った鼠の存在と繋がっていく。
第三章
週末の土曜日、智加は中島市長の自宅を訪れていた。先日のお礼にお昼をご馳走したいと言う。プライベートだから、気楽に遊びにきてくれという話だった。
JRの駅から、バスで二つほど行ったところに、中島の自宅があった。どれほどの豪邸かと思ったが、意外に質素な作りの和風の一軒家だった。
「やあ、いらっしゃい」
「お招き頂き、ありがとうございます」
智加は玄関で会釈した。言葉には細心の注意を払った。普通の人に言っても影響のない言葉を選んだ。
「さあさ、堅苦しい挨拶は抜きだよ。上がって」
中島はポロシャツにズボンというラフな格好だ。玄関には、茶道でもしているのか、小さな山野草の生け花が挿してあった。
中島に連れられて座敷へ行く。床の間には、秋らしい満月にススキの掛け軸がかけてあった。
年配の女性がお茶を持って入ってきた。白いエプロンがよく似合っている、ほっそりとした優しそうな女性だ。
「家内です」
智加は頭を下げた。
「初めまして。主人が大変お世話になったそうで」
「いえ、こちらこそ。いつも父がお世話になっております」
「智加君と呼んでいいかな? 遠慮はいらないからね。自分の家だと思ってくつろいでくれ。うちの息子は独立して、今は家内と二人暮らしなんだ。久しぶりに息子が帰ってきたようで嬉しいよ。あと、喋りにくいことは、言わなくていいからね」
智加は笑みで返事をした。自分の能力のことを聞いているのだろう。
笑うと、中島は皺が深くなった。薄くなった髪をぺろりと撫でると、妻を見て頷いた。
冷茶と水羊羹が智加の前に出された。ガラスの器はレース刺繍のような細工があって、とても綺麗なものだった。
「今日は暑かったでしょう。冷たいものにしました。どうぞ」
頂きます、と言って智加は器をそっと取った。
「綺麗な細工ですね」
「おお、これは嬉しい。実は家内の作でして」
照れたように、中島が妻の顔を見た。
「エッチングガラスといいます」
器を目線まで上げて透かすと、白い綺麗な花が浮かびあがった。
「リンドウですか?」
「はい。花が好きなもので」
智加は視線を戻して、部屋を見渡した。座敷の障子が開け放たれ、小さな庭が目の前に広がっている。芝生の緑色が鮮やかで、大小の庭石にもたれかかるように、赤い萩が咲いていた。
「綺麗ですね」
「花はお好きですか?」
「はい。仕事柄、万葉集をよく読みますので」
「万葉集を? リンドウで俳句はありますか?」
「リンドウは、一首しか詠まれてないので非常に珍しいです。万葉名を思い草といいます」
「ほう、思い草か」
中島が声をあげた。
細いエッチングで描かれたそれは一輪で、花弁は広がらず三部咲きだ。
智加は記憶を辿った。ひっそりと、ただ一輪咲いた青い竜胆が、朝露を手につけて浮かんできた。
「道の辺の 尾花がしたの 思ひ草 今さらさらに なにか思はん」
「なにか、強い思いを秘めたような。ちょっと寂しい歌ですね」
奥方がふいに手を頬にあてた。
「今更なにを思い悩むことがありましょう。貴方一人をただ信じ、頼りに思っています」
しんとした座敷に、さわさわと外からの風が入ってきた。庭先にいるのだろう、りーんという虫の音が聞こえてきた。
ふと視線を戻すと、奥方の頬をつと涙が零れていた。
「おい?」
中島が慌てて奥方の袖を引っ張った。
「あ、ごめんなさい。なんだか急に」
奥方はエプロンの裾をめくって、目頭を押さえた。
「申し訳ありません」
能力は使ってないつもりだったのだが。智加は頭を下げた。
「いえ、違うんですよ。ちょっと昔のことを思い出して」
「お客様の前だぞ」
「わかってますよ」
ぷいと口を尖らせた奥方が、随分可愛らしい。中島とはだいぶ年齢差があるようだ。
「聞いてくださいな。この人、俺を信じてついてこいって言って。十八の私を北海道から連れてきたんですよ。それなのにもう苦労ばかりで」
「おい?」
中島が素っ頓狂な声を上げた。
「飯山の学校だって、あんなところ危ないって言ったんです」
「それは終わった話だろ」
「でも。あんな水もない山の中」
「だからこそいいんだ」
「私は反対だったんですよ」
「お前はそういつまでも。だいたい智加君に祈願してもらったんだぞ。なにを失礼なこと言うんだ」
中島がぎっと目を吊り上げた。
「だって、だって。私も見たかったんですものー」
奥方がきーと呻って、中島を掴み、口を尖らせた。
「なんだそこか? いや、智加君、申し訳ない。私が地鎮祭のことをあれこれ喋ったもんだから、家内も行きたかったと駄々をこねましてね」
智加は急におかしくなった。口を押さえて笑いを堪えると、二人の顔を交互に見比べた。
「機会がありましたら、次回は是非」
「きゃあ、ほんと?」
奥方が手を合わせて喜んだ。意外と子供っぽいところがあるようだ。
ったく、と中島がテーブルに肘をついて顎を乗せた。
「あなた、肘」
奥方の目頭がきっと上がる。
はいはい、と言って中島が肩をすくめた。
「ご出身は北海道なんですか?」
「ええ」
「それでリンドウを」
はい、と奥方は言った。
智加は見る。ふっと微笑むと、奥方もふわりと笑った。
「青く凛とした姿が好きなんです」
「リンドウの魅力ですね」
「万葉集、読んでみようかしら」
「はい、是非」
「昔の人は風流ね。お花を見て、歌を詠むなんて」
「歌の中の花も、ここに咲いている花も、どれも同じ花なんです。時が変わっても、花の形はなんら変わらないんです」
「ああ、それってすごいわ。万葉の世と同じ花を、私たちも見ているんですね」
「はい。同じように感じられないのは、見る人の心が変わったからだと思います」
「見る人の心か?」
中島がふいに言う。
智加は少し躊躇した。
「そうですね」
小さく頷いて、下を向いた。一瞬の間が空いた。
お料理をお持ちしますね、と言って奥方は立って行った。
中島が目の前のお茶を一気に飲んだ。
「先日の地鎮祭は立派なものだったね。とても感動した。どうしたことか、あれからすっかり身体の調子までよくなってね。非常に気持ちのいいことばかりなんだ」
「神事は場を浄化しますから。その場にいらっしゃった方も、一緒に浄化されたのだと思います」
「神官のお仕事はいつから?」
「十六からです。まだ三年ほどです」
「それはびっくりだ。堂に入ってて、とても立派だったよ。素人から見れば判らないが、大変な苦労があっただろうね」
「実際は、八歳から父の元で学びました」
「八歳? まだ小学生じゃないか。遊びたい盛りに、辛いことも多かっただろう」
「いいえ。東辞に生まれましたので」
「素人考えで恥ずかしいんだが、神道とは一体何なんだろう?」
中島がテーブルに身を乗り出していた。素直に色々不思議なのだろう。
「特別なものではないと、私は思っています。神は、そこここにいらっしゃるもので、庭先の小さな花にも、このガラスの器にも。思う側の心に、それはあると思うのです」
「では何か特別なことをしなくてもいいと? 仏教のように念仏を唱えるとか?」
「はい、何も。神を敬う気持ち、それだけで十分です。それは普通に日本人の心にあったものです。ただ日々の生活の中で、埋没していっただけだと思います」
「確かに。私も今回の地鎮祭を見ていなかったら、こんなことは思わなかっただろう」
「それはとても有難いです」
智加は表情を和らげた。
「私もかげながら応援させて頂くよ。何か困ったことがあれば、いつでも相談にのるからね。遠慮はなしだ」
中島が満面の笑みで言った。
智加は頭を下げた。
「そうそう、あの後、飯山を掘り返したんだ。ぞろぞろ出てきたよ、不発弾。あたりに住民はいなかったから、大事にはならなかったけどね。処理が大変で、自衛隊も三日がかりだったよ」
「ありがとうございました」
「いやこちらこそ、本当にありがとう。私の念願だったんだ」
「学校建設ですね」
「そう。実は私は、特別施設で育ちましてね」
「はい?」
「私は十八で父を亡くして、父一人子一人だったので身寄りがなくてね。十八ということでもう成人だったが、親のいない子供達が一緒に暮らすひまわり園というところで、半年お世話になったんだ」
智加は中島の顔を見つめた。皺の深い顔が、恥ずかしそうに歪んでいる。
「自分だけが辛いって思ってたんだが、もっと小さい子が頑張っている姿を見て、ようやく立ち直ってね」
「市長」
「市長なんて無粋な呼び方は嫌だよ。中さんでいいよ」
「済みません」
「あはは。立ち直るとか、そんなご大層なもんじゃなくてね。ただ、前を向いてみようって思うようになったんだ。後ろばかり、本当に後ろばかり、振り返ってたからね」
あ、確か写真が、と言って、中島は立ち上がった。分厚いアルバムを持ってくると、智加の前に広げた。
「毎年、年末には訪問しているんだ。餅つき大会が楽しみでね。これは去年の写真だけど」
木臼を囲み、小学生から高校生くらいまでの十数人の子供達が、記念撮影をしていた。その端に、園長先生らしき年配の男性と女性と、中島が並んで立っていた。
予想は、てっきり寂しい顔の子供達だろうと思っていた。だが、皆心から楽しそうな笑顔で、正直意外だった。
「楽しそうですね」
「そうだろ? ここは互いに助け合い、心で接する子供達ばかりなんだ」
「こんなに幼くて」
「そうなんだよ。辛い経験をしている子供達ばかりなのに。人に優しくすることが出来るんだ。今だにそうだ。いじめなんてない。私はここの卒業生であることが、誇りなんだよ」
「素晴らしいですね」
「学校建設のきっかけはこれでね。山奥に、インターネットもゲームない、自然の中で過ごせる環境を作ってみたかったんだ。情報革命は人を豊かにしかもしれない。が、その代償は安くはなかったと思っている。だから、昔に立ち返りたいと思っているんだ」
「未来は懐かしいですね」
「おお。その言葉を知っているんだね?」
「ええ、テレビの受け売りですが」
「私もその言葉には、頭を殴られる思いがしたよ。経済が破綻して、原始に戻って、テクノロジーが懐かしいと思えるような長い時間が過ぎれば、人は人を大事にできるんじゃないかなって」
「そうですね」
「さっき智加君が言っていたように、万葉集の時代と心が変わってしまったってこと、私もそう思うよ。ひまわり園には、それがあった。環境を作ってやれば、もしやと思ってね」
智加は破顔する。
「まあ、そんなに上手くはいかないだろな」
中島はまたぺろりと、頭を手で撫でた。湯飲みを取ると、一口お茶をすすった。ごつごつと太い指だった。
「いえ、きっとそれが一歩になると思います。あの土地は、良い土地に」
一瞬、言葉が詰まった。
「え?」
「あ、いえ。良い土地になります」
智加はそう言って俯いた。それ以上言葉が出なくなり、視線が彷徨った。目の前には、リンドウが緑茶の美しい緑色に透けていた。
「そうか。智加君にそう言ってもらえると、嬉しいな。夢だからね」
市長の顔に皺が深くなった。
「写真、見てもいいですか?」
「もちろん、どうぞ」
智加はアルバムを繰った。集合写真のあとは、個々に写っているスナップ写真だ。中島が杵を振り上げる姿や、小さくお餅を丸める女の子達。男の子らは外ではしゃいで遊び回っていた。
その中の一枚に、智加はぎょっとなった。
なんと明来が写っている。パーカーにエプロン姿で、女の子達の間に入って餅を丸めていた。
「え?」
「どうかしたかい?」
「いえ、ちょっと知り合いに似ていて」
「どの子?」
智加が指を差した。
「ああ、明来君だね。彼はひまわり園で暮らしている子じゃないんだけど、しょっちゅう遊びに来ているよ」
やはりそうだったのか。智加はまじまじと写真を見つめた。
「友達かな?」
「はい。同じ学校で」
「そういえば彼も三年生だったね。城南高校って言ってたかな」
「同級生です」
「やはり智加君とは縁がありそうだね。明来君もいい子だよ。すごく世話好きで、子供達に慕われている。特に女の子に人気かな」
「そうですか」
「お母さんを亡くしたそうだ。火事で」
智加は口を噤んだ。そういうマイナスの言葉は使えなかった。
「辛いだろうね。随分、病院にも通っているみたいだ。彼は病院の先生が連れてきたんだ。いつも笑っているけど、病院の先生は心配していた。彼は明る過ぎるってね」
「それは?」
「傷は、決して癒えることはない。ただ、それとどう付き合っていくかだ」
「はい」
「私も実際そうだったからね。まず、現実を受け止めるまでが一苦労だ。あそこは同じ境遇の子供達がいるからね。生活していく中で、同じ苦しみを持つ友達を見て、初めて自分というものが判るんだ」
「そうですね」
「でも明来君は、最初から明るいままでね。てっきり、ボランティアの少年とばかり思っていた。先生から聞いてびっくりだよ」
「学校でも、明るいです」
「そうか。病院の先生が、彼はまだ受け止めていないんじゃないかって、言っていてね。子供らを癒そうと懸命で、自分から視線を逸らしているように思えて。私も気になってね」
「他人には、何もできないと思います」
智加は言った。中島の目を真っ直ぐに見た。中島はふっと逸らすと、微笑んだ。
「いや、そんなことはない。私達に出来ることは一つある」
「何が、でしょう?」
「信じることだよ」
「信じる?」
「子供達を信じる。信じて信じて、信じ抜いて。そして待っているんだ」
「それで、何が?」
智加は怪訝な顔を隠せなかった。それに何の意味があるというのだろう。他人など何もしてくれない。
「智加君がいるなら、彼も安心だね」
中島は答えなかった。穏やかな顔で、微笑んだままだ。つられて微笑もうとするが、どうも上手く笑えなかった。
その時、襖を開けて奥方が入ってきた。お盆に載せた料理が、目の前に披露される。ちらし寿司に稲荷に、白身魚の吸い物、茶碗蒸し。野菜サラダに豚肉の煮物など、家庭的な料理がずらりと並んだ。
「うちの定番の料理でね。お口にあえばいいんだが」
「すごいご馳走ですね。お手間をかけさせたでしょう。申し訳ありません」
「何を言ってるんだ。若いんだから沢山食べなさい。お寿司は好きだったかな? 生魚は良くないかと思って、ちらしにさせたんだが」
「ありがとうございます。大好きです」
「さ、どうぞ」
奥方が智加の分をよそって出した。
ちらし寿司の甘酢の匂いが、食欲を誘った。智加の好きなものばかりだ。
お皿によそい終わると、中島は両手を合わせた。それが合図のように、奥方も手を合わせる。智加も一緒に手を合わせた。三人で一斉に声を出した。
「いただきます」
食事会も終わり、智加は玄関に向かった。
「今日は大変ご馳走になり、どうもありがとうございました」
深々と頭を下げた。
「いや、こちらこそ。楽しい時間をありがとう。また、いつでも遊びにきてくれ」
「はい。ありがとうございます」
途端、奥方がばたばたと足音を立てて、奥から走ってきた。
「なんだい、お前。はしたない」
「これを」
奥方が智加に紙袋を差し出した。それはがさがさと音を立て、甘い匂いのするものだった。
「今揚げたんです。熱いから気をつけて下さいね」
「ありがとうございます」
智加は両手に持った。徐々にじんわりと熱が伝わってきた。
「ドーナツです。お召し上がりになりますか?」
「あ、はい。甘いものは好きです」
「それはよかった。子供達が小さい頃はお金がなくてね。よくそのドーナツを作ったんだよ」
「いやだわ、あなた。そんな質素なものを、なんて思われたら」
「いえ、とても嬉しいです。手作りのお菓子は大好きです」
「ホットケーキの粉で作るんです。油で揚げて、砂糖をまぶしただけなんですよ」
智加は紙袋の中を覗いた。茶色に揚がったドーナツに、雪のように真っ白な砂糖がまぶしてあった。揚げたばかりの香ばしい匂いが、鼻孔をくすぐり胸いっぱいに広がっていく。
香ばしい油、バニラの甘い匂い、小麦粉に牛乳と、あと何か、確か。
遠い昔、かいだ匂いだ。智加は一瞬目を閉じて、ゆっくりと息を吸い、まぶたを開けた。ほかほかと温かい。
「昔、母に作ってもらいました。懐かしいです」
「そう。良かったわ。また来てくださいね」
奥方が優しい笑みで言った。智加は頭を下げた。
中島の自宅を辞すると、駅に向かって歩き出した。時折、甘いドーナツの香りがした。先ほどの昼食といい、普通の家庭はこういう団欒なのだろう、と智加は思った。
東辞の家で、両親と食事することはほとんどない。何か行事がある時か、客人がある時だけだ。中島の家庭のような雰囲気は全くない。第一、東辞の顔ぶれで団欒など、考えただけでぞっとする。
智加は袋を握り締めた。ドーナツがぐにゃりと潰れた。
顔を上げると、空は高かった。
バスを降りると、目の前はJRの駅だ。繁華街を歩いていると、途端、腐った匂いが鼻をついた。
智加は顔を上げた。『橋田心療内科』と看板があった。その一階の薬局から、人が出てきた。なんと明来だ。出会いがしらに驚いて、目をまん丸にしていた。
「よう」
「とうじ?」
「病院?」
「え?」
智加はくいと顎で指した。その先には橋田心療内科だ。
「あ、ああ。風邪ひいちゃって」
明来は急にげほげほと空咳をした。
風邪ねえ、と智加はわざとビルの上方を眺めた。そして、ふいと明来に目を戻した。明来は慌てて視線を彷徨わせた。
「あ、いい匂い」
明来がとってつけたように、鼻をならして近づいてきた。手元のドーナツだ。
「食うか? 貰い物だけど」
「なに?」
「ドーナツ」
明来はぱっと顔を輝かせて紙袋を覗き込んだ。
「あっちに公園があったな。行くか」
「おう」
明来は我先に歩いていった。途中自動販売機で、智加はペットボトルの紅茶を二つ買った。
そこは、子供が遊ぶような小さな公園で、中央に砂場とブランコがある程度だ。人がほとんどいない。二人はベンチに腰を下ろした。
「ほら」
「あ、サンキュ」
智加がペットボトルを明来に渡した。ドーナツも袋ごと渡すと、智加は紅茶を飲み始めた。
「え。なんで、潰れてんの?」
「気にするな」
「持ってくる時に潰しただろ?」
智加は無視して紅茶をごくごくと飲んだ。
「うわ、これ手作りじゃん」
明来がドーナツを一つつまんで目の前にかざした。
それは、型抜きで作ったような綺麗な輪ではなかった。棒状に伸ばしたものをくるっと巻いてくっつけて、油で揚げたものだ。一つ一つ形がばらばらで、すぐに手作りだと判った。
明来はいただきます、と言って、早速一口食べた。
「美味い」
「そうか」
「これ揚げたてだろ? まだ温かいよ。ちょ、東辞も食べてみろって」
智加はむっとした顔を返した。
「折角お前にくれたのに。ちゃんと食べて、お礼言わないとダメだろ?」
「捨てるつもりだった」
「はあ、なんで? キライな奴から貰ったのか?」
「そうじゃない。きっと美味いだろうな」
「じゃ、なんで?」
智加は答えなかった。だんまりしていると、明来にぱちんと頭をはたかれた。
「いて」
「ほら、食べろ」
ぐいと明来が袋を突き出した。智加は仕方なく一つ取った。白い砂糖がぱらぱらと落ちて、手についてきた。一口かじった。
表面はカリっとして、中はふわふわの熱々だ。口に入れた途端、優しいバニラと卵の味がしてきた。そうか、卵も入っていたな。
粉のように沢山ついた砂糖が、とても甘かった。
「美味いな」
「だろ?」
明来はふんと笑って、得意気な顔だ。もう三個目に突入していた。大きな口を開けて、ぱくりとかじりついている。頬は膨らみ、顎がもぐもぐと動いた。智加はその横顔を見ていた。口元には白い砂糖が砂のようについていた。
思わず手を伸ばして、明来の口元を払った。ぱしんとはたくと、砂糖が落ちていった。
「うわ。びっくりした」
「小学生か。お前は」
ぱらぱらと白い砂糖が、明来の膝の上に落ちた。
智加は手にしたドーナツの残りを、全部口に突っ込んだ。もぐもぐ咀嚼して、ごくりと飲み込んだ。そのままがっくりと頭を垂れた。こういう甘さはふわふわして、イヤになる。
「果てるなよ」
「甘い」
「ドーナツだもんな」
「胸焼けしそうだ」
「あはは。焼けろ焼けろ。このモテ男」
「は?」
「どうせ、可愛い子ちゃんから貰ったんだろ?」
「可愛い子ちゃんって、発想が貧困だな」
「ふん。ほっとけ」
「俺が喋れるのは、お前くらいだ」
「へ? そういえば、無言の君だったよなー。全然違うけど」
「外じゃ喋らないからな」
「なんでだよ?」
明来はあっけらかんとして、ドーナツを食べ続けていた。指についた砂糖をぺろりと舐めた。
智加は手を伸ばした。明来の柔らかそうな髪を掴んだ。そのまますっと手放した。
「なにすんだよ」
「禿げろ」
「はっ?」
「効かない。なんでだろう」
「意味、わかんねー。なんだよ、この間から。人をタコとか禿げろとか」
言葉通りに取る明来を、しかとした。智加の視線は地面だ。一旦落ちた鼠が、明来の身体をまたよじ登っていた。髪に触ったのはそのためだ。祓った瞬間は離れるのに、むくっと起きて何事もなかったように這い上がってくるのだ。
元凶があったとしても、明来でなければ、祓えただろう。
「良いのか、悪いのか」
大きなため息をついた。
「およー、東辞君。珍しく落ち込んでるね?」
「なんだ、嬉しそうに?」
ふんと智加は鼻を鳴らした。
「くくく。よーし。お前に可愛い子ちゃんを紹介してあげよう」
「気色悪い」
智加はがばっと上を向くと、ベンチの背もたれにどっしりと体重を預けた。顔を上げると、真っ青な空だ。遠い上空に薄っすらと雲が横切っていた。
「失礼な」
明来はぷんと口を尖らせた。ドーナツは全部食べてしまったようだ。紙袋をさっさとたたむと、カバンに押し込んだ。
「行くぞ」
「は?」
「ほら、立って。きっと楽しいぞ」
「お前なー」
「いいからいいから。どうせ暇なんだろ?」
「暇って。お前こそ、受験勉強はどうなんだ?」
「ふ、それはそれ。これはこれ」
「理屈?」
「いいんだよ。後半の追い込みがすごいんだって、オレ」
明来は智加の腕を取った。
「まじかよ」
渋々と立ち上がると、智加は歩き出した。
(続く)