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第一章 

神社や言霊など、歴史的なものも出てきます。親子の絆、友達の存在、切ない系、高校生の学園ものです。少々ボーイズラブを含みますので、苦手な方はお戻りください。


第一章



 夏の蒸し暑さが取れ、柔らかな陽射しがさすようになった。空は高く、すっと濁りのない青さが広がっている。

 東辞智加とうじはるかは、城南高校の正門をくぐった。銀杏の大きな木が立ち並び、黄色に色づき始めた実を、たわわに揺らしていた。

 目の前を楽しそうに生徒達が登校していた。大きなスポーツバッグを抱えている男子は、サッカー部だろうか。がしゃがしゃと忙しい音を立てて走っていた。


 そろそろ予鈴が鳴りそうだ。こんな遅い時間に登校することは、滅多になかった。いつもと違う風景に目をやりながらも、いきなり智加の眉間に皺が寄った。異臭だ。視線だけであたりを見回したが、これといって特別なものは見当たらなかった。


 この場所だからか、それとも人にいてか。


 突然、咽せ返るような臭気が迫ってきた。背後だ。咄嗟に息を止める。振り返ると、鼠の群れだ。山のように膨れ上がった鼠の大群が迫ってきていた。

 喉の奥から、ぐっと吐き気が込み上がった。智加は思わず口元を手で覆った。

 顰めた目で見てみると、それは群がる鼠を背負った男子生徒だ。大股で走り、校門に突進してきたのだ。

「ちょっと待ったー。遅刻じゃないよ、まだ一分前だし。って、あれ、風紀委員じゃないの? はあよかった。って、えー無言の君?」

 生徒は思いっきり喋って、慌てて口を押さえた。

 手や足を動かすたびに、生徒にたかった鼠がボタボタと落ちていく。チチっと鳴いて、足元を這いずり回っている。腐って皮膚が破け、骨が突き出し、大きく窪んだ目が爛々と光っていた。

 流石の智加も、これには顔が歪んだ。もちろん現実の鼠ではない。いわば死霊だ。それを大量につけて、よくもまあこうして普通にいられるものだ。

 半ば呆れて、じろりと睨み付けた。

「あの、無言の君だよね?」

 生徒は目をまん丸にして、嬉しそうな顔だ。

 智加は答えなかった。踵を返すと、さっさと歩き出した。

「あ、ちょっと」

 生徒が背後からついてくるようだ。鬱陶しい。真横に並ぶと、同じ歩幅でついてきた。

 理由があって、智加は人とは喋らない。最低限の受け答えしかしないから、ついたあだ名が『無言の君』だ。

 無言はいいとして、この『君』は源氏の君とか中納言の君とかの君で、なぜついたかと言うと、ぼうっと見蕩れるこいつの反応がそれだ。

「うわー。あ、ごめん。でもこんな近くで、うわー、あ、ごめん」

 背は高く、手足も長い。貧弱という細さではなく、筋肉はしっかりある。

 ストレートの黒髪は無造作に流して、目は一重で切れ長だ。しかしその程度だ。自分は何とも思っていない容姿を褒められても、嬉しくもなんともない。

 智加は歩くスピードを上げた。鼠を付けた生徒は、どしゃどしゃと追ってきた。

「オレ、3―Eの斉藤明来さいとうあき。明来でいいよ。東辞君、今日遅いよね? オレはいつも遅刻ぎりぎりなんだけど、こんな時間に会ったことないし。ちょっとびっくりした」

 満面の笑みだ。

(なんだ、こいつ。ペラペラと)

 智加はまじまじと見た。ようやく鼠よりも、本人に目がいった。

 自分より少し背が低いだろうか、少々痩せ気味だ。柔らかそうな猫毛が跳ねて、幼い印象になっている。大きな目は色素が薄く、ふっくらとした唇をしていた。

「東辞って3―Aだろ、理数選抜の? すごいよなー。あのクラスに入るだけでもすごいのに。この間の模擬試験の結果、見たよ。全国四位? もうありえねー的な、クラクラした。オレなんて過去最低の結果でさ。どうやったら点数上がるのかな?」

 まったくのため口で遠慮会釈もない。自分にこんな風に接する生徒は皆無で、智加は変わったやつだなと思った。

「文系?」

 最低限の言葉を返した。

「は?」 

 明来はぽかんとなって、目を丸くした。聞こえなかったのか。

「Eなら、文系だろ?」

「あ、ごめん。なんかちょっとびっくりして。東辞ってこんな声をしてるんだ。へえ、いい声だなあ」

 明来がうっとりとした目で見てきた。確かに、自分の声を聞く人間は少ないだろう。じろりと見ると、慌てて返事をした。

「あ、うん、文系。児童教育に行きたくて。保父さんになりたいんだ」

「そう」

「なんか、ちっちゃな子供が沢山いて、わーわーなってるのって好きなんだよね。犬っころみたいでさ。オレ一人っ子だから、そういうの憧れるんだ。東辞はどんなとこに行くの? うわっ」

 と、明来は盛大にすっ転んだ。智加は心の中で大きな溜息をついた。こんな何もない平地で、どうやったら転ぶのだろう。明来の足元を見ると、鼠がうようよとたかっていた。ああ、それでか。

「大丈夫か?」

 智加は手を差し伸べた。

 突然、明来が智加の足にしがみついた。

「っ?」

 流石に驚いた。唖然となって明来のつむじを見ていると、当人がばっと顔を上げた。

「あはは。蟻がさ」

「アリ?」

「そう、危なかったー。もうちょっとで踏むとこだったぞ」

 セーフ、と地面の蟻に向かって親指を立てた。

 智加は開いた口が塞がらなかった。目の前にいるのは人か珍獣か。その視線に気づいたのか、明来が赤くなって頭を掻いた。

「えっと、あ、あはは。ごめん。いやーオレってよく転ぶんだよね」

 これだけ憑けて、それでも無頓着でいられるのは、その性格のお陰だろう。転ぶくらいで済んでいるのは、ほとんど奇跡だ。

 明来はのほほんとして、屈託のない顔を向けている。智加は呆れて、眉間に手をやった。

「馬鹿か」

 刹那、ぎょっとなって口を覆った。智加はばっと明来を見る。

「ん? どうかした?」

 きょとんとした顔だ。

「なんともないのか?」

「え、何が?」

「頭痛とか、しないか?」

「いや、全然」

「1+1はなんだ?」

 にぃー、と笑って言う。

「まさか。お前には効かないのか?」

 智加は目を剥いた。自分が発した言葉で、影響を受けない人間など、そうそういるわけがない。

 しかし、明来の様子は何も変わっていなかった。ふと足元を見ると、チチっと鳴く鼠が鬱陶しい。学校では力を使わないようにしているのだが。

「なら少々乱暴でも、構わないな」

「え?」

 智加は明来の肩を左手で掴んだ。途端ざっと波が引くように、鼠がボタボタと落ち始めた。智加の清浄な気は、彼らにとって殺虫剤のようなものだ。細い肩にぐっと指を食い込ませた。

「いたっ」

 智加は明来に向かい、いや実際は鼠に向かって、ふうっと息を吹きかけた。

「うわっぷ」

 小さな息が突風となって、明来を襲った。倒れそうになる身体を、掴んだ左手が辛うじて立たせていた。

 鼠の大群は一瞬にして消え失せた。さっぱりしたと思った瞬間、智加の顔が曇っていく。

(おかしい、匂いが消えない。鼠が原因じゃないのか?)

 その時、明来の胸から、ぎらりと光るものが目に飛び込んできた。

 智加は目を瞬かせた。

「そこに、何を持っている?」

 明来が目を剥いた。大きく開いた両目が、微動だにしない。今まで明るかった顔が、一気に暗くなっていった。そしてまた、明来の身体に鼠が湧き始めた。腐った臭いが充満していく。

 明来は返事もせず、踵を返すといきなり走っていった。



 午前中の授業が終わり、昼休みとなった。智加のクラスは理数選抜クラスで、文系のEクラスとは別棟になっていた。渡り廊下を歩いて、明来のいるクラスへと向かった。

 休み時間で、ドアは開いていた。ここでも薄っすらと匂いが漂っていた。ドアから顔を出すと、近くにいる女子生徒に声をかけた。

「斉藤明来君、いますか?」

「え? きゃー東辞くん?」

 黄色い歓声に、わっとクラス中の視線が集まった。

「東辞くんよ」

「ちょっ、なんで?」

「いやん、そんな。見れない」

「裕子、いいー」

 遠巻きにいた女子達が、あちこちで声を上げた。文系クラスはやはり女子が多い。智加は無視して聞きなおした。

「斉藤君は?」

「あ、あの、お昼です。さっき出て行きました」

 びくびくと答える女性徒は、顔を押さえて真っ赤にしていた。

 智加はありがとうと言って、クラスをあとにした。

 ぎゃーという声が、背後で沸き起こった。


 廊下を出てしばらく行くと、例の匂いが漂ってきた。匂いのあとを追っていくと、外へと向かっていた。

(これじゃ犬だな)

 智加は舌打ちをした。上履きということを忘れ、更に匂いを追うと、旧校舎の方だ。建物を見ると、屋上に臭気の塊が見えた。

 智加は旧校舎に入り、階段を上がった。全体がひんやりとしていて、陰湿で暗い。屋上の錆び付いたドアに手をかけた。

 一気に開けた空は、今にも降り出しそうな重たい雲だ。雨を孕んだ冷たい風が吹いていた。秋晴れは午後から崩れると、天気予報が言っていた。制服のブレザーにシャツでは、ここでは寒いだろう。

 屋上には数人の生徒がいて、昼休みの息抜きの場所になっているようだ。フェンスに寄りかかって食事をする生徒や、携帯電話でわいわいと遊ぶ生徒がいる。男ばかりのたまり場のようだ。ちらりと智加を見ると、彼らはすっと視線を逸らした。女子のように騒ぐ輩はいないようだ。

 ぐるりと見渡すと、端にぽつんと一人座り込んだ明来がいた。智加は何も言わずに近づいた。

 足音に気づいたのか、明来が顔を上げた。

「あれ、東辞? あはは、偶然」

 明来はばつが悪そうで、へへと笑って下を向いた。

 智加は何も言わず、横に座った。明来の膝の上には、弁当箱がのっていた。

「食べないのか?」

 くいと顎でさすと、明来はまた乾いた笑いをした。

「オレが作ったんだけど、全然上達しなくってさ。クラスのやつに笑われそうで、たまにここで食ってるんだ」

 そういうキャラだとは思わなかったが、少々元気がない。智加は横から手を出すと、弁当箱の蓋を開けた。

「わ、やめろ。恥ずかしいだろ」

 黒く焦げた鮭に、金時豆の煮物は豆が割れてぼろぼろだ。ハムは焼き過ぎたのだろう、からっからに乾いて紙切れのようになっている。卵焼きだけが、やけに鮮やかな黄色をしていた。

「確かに」

「う。でも卵焼きは自信あんだ。綺麗な色だろ?」

 明来はどうだとばかり、胸を張って威張った。

 智加はひょいと指先で摘んで、ぱくりと口に入れた。

「あー、誰がやるつったよ?」

「まずい」

 ごくりと無理矢理飲み込んだ。

「ええ? そんなはずは」

 明来もすぐに卵焼きを食べた。途端げほげほと咽せ返って涙目だ。

「なんで、しょっぱいんだよ?」

「塩の入れすぎだ」

「でも本に塩少々って」

「少々って、どれくらい入れたんだ?」

「書いてあった通りだよ。少々つったら、小さじ四分の一だろ?」

 智加は眉間を押さえた。

「少々とは、指先で摘む程度だ」

「ええ、そうなのか?」

 途端しょぼんとなって、明来はため息をついた。何を思ったか、いきなり弁当箱に口につけると、がっと流し込んだ。むしゃむしゃと音が聞こえそうなほど咀嚼して、ごくりと飲み込む。そしてうえーと言ってしかめっ面になると、ペットボトルのお茶で一気にあおった。

 まるで漫画のワンシーンだ。智加は吹き出しそうになり、思わずそっぽを向いた。

 明来は袖口でぐいと口を拭くと、ペットボトルのキャップを締めた。

「オレの母さん、すごく料理が上手でさ。冷凍食品なんて入れたことなかった。卵焼きもただの卵焼きじゃないんだ。ほうれん草を包んだり、明太子を入れたり。豚の生姜焼きだって冷えても最高だったし、ひじきの煮物なんて滅茶苦茶美味かった」

 味を思い出したのか、うっとりとした表情だ。途端ふいと顔を伏せて、ぼろぼろになった煮豆を箸の先でつつき始めた。

「だからオレも、才能はあると思ってたんだけどな」

 うまくいかないね、と明来は目を細めて笑った。視線を落とした明来に、なぜか目がはずせなくなってしまう。

 横顔の白い頬はぱさぱさで、目は真っ直ぐ下を向いたままだ。そして何か言いたげに口を開けて、何も言わずにきゅっと唇を噛んだ。真っ白なご飯に箸を入れると、一口またほうばった。

 智加は黙っていた。今、明来が自分で弁当を作っているということは、母親はもういないということだろう。だからそんなものをふところに隠し持っているのか。

 明来は無言で食べ続けた。

 智加はすっと立ち上がった。

「明日、またここに来い」

「え?」

「俺のも作ってこい。食べてやる」

「とうじ?」

「ただし、卵焼きは甘いのにしろ」

 明来の顔がぱっと明るくなった。

 智加自身、こんな風に誰かと喋ったのは久しぶりだ。いや久しぶりなんてものではない。八歳の時、母と別れて以来初めてだった。

「水は朝露の水滴を 葉にも土にも貫きて 引き連なる水の流れは」

 目の前に、いきなり水滴が落ちてきた。ざざーっと降り出す突然の雨に、屋上の生徒らが方々に散って逃げていく。

 明来だけが、きょとんとした顔で見上げてきた。智加の髪や顔が、水滴に濡れている。

 明来だけが濡れていない。やはり効かないのだ。

「雨?」

「馬鹿」

 今度はしっかり言い放った。

「ええ、なんで? 朝もなんか言ってたけど、東辞ってもしかしてあぶない人?」

「あほ」

「なんなんだよー。無言の君なんて言われてるけど、全然イメージ違うじゃないか。口は悪いし、わけわかんないし」

 明来は小さく口を尖らせた。

「当たり前だ。タコ」

 明来は唇を突き出した。惜しいところだったが、タコにはならなかった。タコになった明来を想像して、智加はおかしくなった。



 授業が終り、智加は帰宅の途についた。自宅は学校から随分遠い郊外にあった。二十分ほど電車に乗り、そこから先はバスの本数も少ないので、家の者に送迎をしてもらっていた。

 校舎を出ると、薄っすらと陽が落ち始めていた。駅までの道には、楓が立ち並んでいる。葉の一枚一枚がうちわのように大きい、ウチハカエデだ。智加が通ると、かさかさと音を立てていた。

 しばらく歩くと、前方に覚えのある乗用車が止まっていた。ツードアのスポーツタイプで、サファイヤブラックだ。

 鬱陶うっとうしげにため息をついた。一人の男が車から出てきた。

「智加さん」

高宮たかみや

「お時間がありませんので、こちらまでお迎えに上がりました。お乗り下さい」

 男は智加の父親の秘書で、名を高宮義巳たかみやよしみと言う。

 智加が八歳で東辞の家に来てから、ずっと智加の教育係をしていた。年齢は三十代後半くらいで、いつもスーツにネクタイだ。一見サラリーマン風で顔つきも物腰も穏やかだか、武術の師範代も務める男だ。父の秘書兼ボディガードなのだろう。

 智加が後部座席に座るのを確認すると、高宮は車を発進させた。男にしては綺麗な指が、ハンドルを左に切った。徐々に加速していく中、高宮が話しだした。

「今から県境の飯山いいやまの麓まで行きます」

「飯山? 随分遠いな」

「はい、申し訳ありません。そこで十時から地鎮祭が行われます。主神を、智加さんにという依頼です」

「直接、東辞に?」

「はい。担当の神官が急病で、神事が行えなくなったそうです」

「日程変更はなしということか?」

 ええ、と高宮が苦笑いをした。

「中島市長が見学に来られるので、予定変更はできないそうです。最後の任期に、どうしても建設したかった小学校の予定地です。随分思い入れが強いようです」

「判った」

「場の設定は私が致しました。装束もお持ちしています。現地に着きましたら、すぐに支度をして下さい」

「父は?」

「もちろん来られます。市長とご一緒です」

 智加はバックミラーの中の高宮をじっと見た。ふと気づいて、高宮が視線を寄越す。

「なにか?」

 智加はふいと横を向いた。

 窓の外は国道に入る手前で、車の往来が多い。横断歩道で止まっている母と子は、手に沢山の買い物袋を提げていた。何か喋って、笑い合っている。小さな男の子は、ぎゅっと紙袋を握り締めていた。望みのものを買ってもらって、喜んでいるのだろうか。嬉しそうに母親を見上げて、微笑んでいた。

 否も応もない。親父の命令なのだ。

 東辞の家は、神社だ。明治に途絶えた白山神道しらやましんとうの末裔である。宮中の祭儀を平安時代から明治初頭まで執り行ったが、当時絶大な人気を得た吉川神道に圧倒され、政府の弾圧で埋没させられた。

 以来、東辞家は表立って神社仏閣の様相を呈していない。神社本庁の傘下にも入っていない。つまり平たく言えば、単なる私設宗教団体に過ぎない。

 だが東辞と言えば、この世界で一目置かれる存在だった。東辞の血統にのみ生まれる天賦の才、それが言霊を操る能力だ。言葉には霊的な力が宿り、それを声に発する事で神力が発動される。忌み嫌われる言葉や呪詛の言葉を発すると災禍が起こり、逆に祝福の言葉を発すると幸福が訪れる。

 つまり智加が発する言葉に、不可能はないということになる。

 東辞の家に連れて来られるまで、智加は母親と二人で暮らしていた。母も東辞の人間で、どういう経緯があって家を出たのかは知らなかった。ひっそりと見つからないように暮らしていたのは、幼心にも判っていた。

 自分の出生がどうとか、能力がどうとか、考えたこともなかった。ただ、母親と約束したことは固く守っていた。他人と言葉を交わさないこと。特に人を傷つけるような言葉は、決してテレビの中の人にも言わないことだった。

 幼い頃は、とても苦痛だった。友人もできない。クラブにも入れない。その中で暮らしていけたのは、唯一母には何でも話すことができたからだ。彼女も特殊な人間で、智加の言霊の影響をまったく受けなかったのだ。

 現在は東辞の家で、厳しい修行を積み、智加は神官になった。



 高速を飛ばし、二時間ほどで、現地に到着した。地鎮祭は四隅に竹を立て、注連縄で結ぶ。その中に土地の神が光臨するのだ。工事の無事を祈願し、禍をもたらす禍神を清め鎮めるのだ。

現場では、東辞の者が場の作業を進めていた。祭壇の後方には参列者の席が用意され、工事関係者らしき人が既に座って待っていた。

 智加は装束に身を包み、簡単な潔斎を行った。

 切り開かれた山の一角で、しんと静まりかえり動物の声もしない。パチパチと松明の焼ける音だけが聞こえてきた。異様な静けさだ。

 場を見ようと、智加は四方を歩き始めた。松明の灯りが照らしているが、足場は悪く、整地もされてない。山を切り開いた野ざらしの土地なのだろう。岩がごつごつと顔を突き出していた。

 工事は全く進んでいないらしい。普通、整地が終わってから、地鎮祭を執り行うものなのだが。

 智加はしゃがんで、赤黒い土を手に取った。湿気を孕んだそれは、ねっとりとしたコールタールのようで、暗い念が染み込んでいる。空気も重い。

 智加は立ち上がった。背後に控えている高宮を見遣った。高宮はスーツ姿のまま、じっとこちらを見ていた。

 肌寒い風が智加の体温を奪う。ぞくりとする背中はそれだけではない。

 嫌な予感がする。神経を研ぎ澄ましても、ここには何も感じられない。真っ暗な闇があるだけなのだ。

これで今夜地鎮祭をするつもりだったのか。東辞に頼むからには何かあると思っていたが、これではいっそ笑いが込みあがるというものだ。高宮の苦笑いももっともだ。

 つまり、神官が逃げ出したのだ。

 ここには、産土神がいない。

(いつもの祓え言葉では、無理だな)

 智加は意識を集中させた。

 一筋縄ではいかない場合、事前調査や祓い神事を何回も行なうことがある。それが今日のいきなりで、本番の地鎮祭を行えとは、かなり乱暴な話だ。

「ふむ」

 智加は唇に手を当てると、周囲を歩き出した。高宮が視線で追ってきているのが判った。ずぶずぶと地面に足が沈んで、歩くのさえ億劫だ。

 智加は、主にその土地に住まう産土神を呼ぶ。更に神格化した風、火、金、水、土、樹木、更に転じて雷、竜巻、豪雨、地雷など自然現象も操れる。

 智加の言葉には神が宿り、負の気を転じて流すのだ。気が枯れて、穢れとなる。穢れは澱みを呼び、停滞し繋がりあう。

 この粘液気質、それが凝り固まるには何か依りしろがあるはずだ。

 智加は立ち止まった。顔を伏せ、意識を集中させた。黒髪がさらさらと落ち、すうっと人の声が遠のいていった。

 きりきりと頭の隅が痛む。その方角に顔を向けると、そこは祭壇だった。ずんと身体を突き抜ける重さ。それが真下にあった。高宮が整えたと言ったその祭壇だ。

 智加は振り向いた。

「高宮?」

 今の今までいた高宮が、どこにもいない。智加は、ちっと舌打ちをした。時間が迫っている。

五元之神ごげんのかみを呼ぶしかない)

 その時後方で、車の止まる音がした。中島市長と智加の父が車から出てきた。市長を伴って、父が祭壇の後ろに設置された席に座った。関係者はこれですべてのようだ。

 ちらりと見て、智加は中央に戻った。誰もが智加に注目していた。

(くそっ)

 智加は祭壇の前に立った。深呼吸をして、深く低頭をした。そして、顔上げた。目の前は真っ暗な闇だ。息を止め、パンと拍手かしわでを打った。場が水を打ったようにしんとなった。

 神事が始まった。

 四手を左右にゆっくり振る。ざっざっと紙の房が擦れる音が響いた。それを中央で止め、大祓おおはらえの祝詞のりとり始めた。

 抑揚のない、静かな声が延々と続いていく。まるで歌うような、どこで切れて、どこで呼吸をしているのかさえ判らない。


「此の飯山の里の地内の佳所を祓い清め、ひもろぎ立て招ぎ奉り坐せ奉る産土大神、大地主大神達の大前に恐み恐みも白さく」

 ばっと四手を中央で止める。

掛巻かけまくも畏き産霊之大神達の、奇しき神霊に依りて」

 ゆっくりと頭を垂れ、祝詞は朗々と流れていく。

 参加者が陶然と智加に見入った。ある者は口をあんぐり開け、ある者は腰を半分上げて身を乗り出している。智加の声に聞き入っているのだ。

 まるで清らかな水だった。澄んだ旋律が、透き通った湖のさざ波のようだ。寄せては全体を震わせていく。誰もが、智加の声に陶酔していた。

 風の揺らぎも、木々の揺らぎもない。全くの無風状態、無音、無感へと場が変化した。


「現出座る五柱の元津神もとつかみ

風の神志那津比古之志那津比賣之命

火の神火産霊之命

金の神金山比古之命金山比賣之命

水の神彌都波能賣之命

土の神埴山比賣之命達

是の五種の元津気を以て

世に所有物を生幸へ給へる」


 辺りに沁み渡った途端、八方よりさわさわと風が吹き始めた。松明の灯はめらめらと揺れ、水気は地面を潤し、錆びた匂いが充満していく。五元之神の光臨だ。

 智加の髪は揺れ、身体が薄っすらと光り始めた。

 風、火、金、水、土の五柱を、智加は自分の意識に繋ぎ止めた。延々と続く祝詞。目を閉じて、自分の周りに五つの柱を構想する。そこに神を下ろして自分の意識に繋ぎとめるのだ。

 神経を五つに分けるようなものだ。一部の隙も緩みも許されない。集中力を途切れさせれば、神が切れる。

 ぐっと奥歯を噛んだ。

 途端、ぐにゃりとした液体が地面から溢れ出した。

(ようやく出たか)

 智加はくいと口角をあげた。ようやく現れ出した禍神まがつかみを、智加は一気に睨み付けた。

 延々と祝詞は続く。

 苦しさにのたうち回る禍神。ごうごうと地鳴りが響き、突風が沸き起こった。

 智加は五元之柱で周囲を塞ぐ。

 後方で、ぎゃっという情けない声が聞こえた。流石にこの事態が見える者もいたのだろう。

 放置され荒らされた土地で、恨みでもあるのだろうか、禍神は苦しげにのたうち回った。形も何もない、あるのはただの凝り固まった念だけだ。黒い液体が噴出して、まるで火山噴火のようだ。

 赤黒い熱が智加の身体にじゅうっとかかった。まるで火傷のような痛みだ。噴出する液体は弱まることがない。轟々と勢いをつけ、天を突かんばかりの激しさだ。怒り狂っているのだ。

「くっ」

 智加の口から声が漏れる。痛みに神経を向ける余裕などない。五元之柱で押さえつけているのが精一杯だ。

 囲い込むことはできたが、浄化するためには何かもう一手必要だ。智加の額に汗が滲み出た。

(なにか、ないのか)

 奥歯を噛んだ。その瞬間、智加の耳に風が叫んだ。ばっと天を仰ぐ。闇の中にさわさわと鳴る笹の音だ。智加はきっとなって上空を見た。

(竹だ)

 智加はばんと拍手を打った。

「奥山の、賢木の枝に、白香つけ」

 朗々と歌いだした。

「木綿とりつけて斎ひべを、斎ひほりすゑ竹玉を、繁に貫き枝貫き」

 天からざざーっという大音量が、一気に下りてきた。笹が動いているのだ。まるで地面に蓋をするかのように、覆いかぶさってきた。

(そして火だ)

「火の神火産霊之命、我に寄り八重に重なり、為さむっ」

 智加の身体がめらめらと炎に包まれていく。火の柱を自分に下ろしたのだ。真っ直ぐに突き出した指先から、炎が鳥のように走っていく。あまりの高温なため真っ白な光にしか見えない。

 竹の根は細く長く地下を這い巡り、このあたり一面を覆い尽くしているだろう。それを一気に焼き尽くすのだ。

 炎は一気に天へと駆け上ると、激しい火球となって辺り一面に降り注いだ。

 ずばーんっという地響きが起こった。あまりの出来事に、誰もが固唾を呑んだ。

 智加は大きく息を吐き、火の神の憑いた手を下ろした。

 竹は炎の豪雨で一瞬にして燃やされ、竹炭へと性質を変えたのだ。竹炭には泥水を真水に変えるほどの浄化作用がある。

 場が静まった。智加は目を瞑って拍手を打った。

 途端四方から、竹の割れる甲高い音が響いた。それが合図のように、空気が一瞬にて澄み渡っていった。

 それはまるで荘厳な滝だった。浄化され清められた透明度だ。気が上空から流れ始めた。

 智加は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。穢れは綺麗になくなっていた。

 神事は終わった。


 誰もが唖然となった。あの父親さえ呆然となって呆けている。智加の力は凄まじいものだった。

 無事神事を終え、市長と父親の前に行くと、深々と頭を下げた。市長は驚きのあまり声も出ないようだ。

「神事は無事に終りました。どうぞご安心下さい」

「ありがとう。ちょっと気が動転してしまって。あなたは東辞さんの息子さんかな?」

「はい。東辞智加と言います」

「まだお若いようだが?」

「十八になります」

「なんと、まだ高校生か? いや驚いた。東辞さんも素晴らしい息子さんをお持ちで、安心ですな」

「いいえ、お恥ずかしい。私から見ればまだ若輩者です」

 父が軽く会釈をする。

「これで念願の小学校を建てることができます。やれゲームだネットだなんて、そんなものより、泥んこになって野山を駆けめぐる子供達にしてやりたかった。川のせせらぎを聞き、木登りをして遊ぶ。そんな思い出を作ってやりたかったんです。本当にありがとう」

 初老の市長は満面の笑顔だ。智加の手を握ると、何度も強く握ってきた。智加は小さく頷いた。そして真っ直ぐに市長を見た。

「市長、一つお願いがあります」

「何かな?」

「ちょうど祭壇の下、地下二メートル辺りに、不発弾があります。あれを取り除いて頂けますか?」

「不発弾?」

 市長は驚きのあまり、目を剥いた。父がじろりを智加を見た。

 金気かなけは水を呼び、汚れた金属は水気を汚し、土を侵食する。それが依りしろとなったのだ。

「爆発の危険はありませんが、なるべくなら撤去して頂きたいのです」

「もちろんだ。そんなものがあっては、大事な子供達に申し訳がない。それに君の言葉に疑いはない。始まる前と今では、全く空気が違う。私みたいな素人にも、十分判ったことだ。不発弾は取り除こう。約束するよ」

「ありがとうございます」

 智加は会釈をして、その場を辞した。

 高宮の車のところまで行くと、装束の襟元を緩めた。

(つうっ)

 ほっとした瞬間、胸に電気のような痛みが走った。見ると、先ほど浴びた禍神の呪詛が、火傷となって残っていた。額に汗が浮かんだ。胸に手を当て、静かに呼吸を繰り返した。しばらくすれば消えるだろうが、厄介だ。

 その時、背後で影が動いた。智加はすぐさま姿勢を正した。高宮だ。

「どこへ行っていた?」

「申し訳ありません。これを取りに」

 高宮が、両手に抱え込むほどの樹木を出した。

 智加はぎょっとなった。幾重にも重なった細い枝で、満開に咲いた白い花弁がたわわになって美しい。生命力溢れた立派な神木だった。

「センダン?」

「はい。お父様がご用意されたもので。緊急時には使うようにと」

「父が?」

 智加は目を剥いた。

 何の情報もなく、この地鎮祭をいきなり行えと言った父がだ。

「中国の故事でセンダンはあうちの花。非業の死を遂げた魂を鎮める霊木だ。知っていたんだな? ここで戦火が上がったことを」

「はい」

 高宮は悪びれずにさらりと言った。

 智加は言葉が出なかった。

「あれは、地鎮祭ではありませんよ。智加さん」

「なに?」

「ただの暴力です。禍神を力で祓ったのでしょう?」

 高宮の真っ直ぐな目が、智加を捕らえた。

「この状況で、やるべきことをやっただけだ。問題はない」

「確かに、竹を竹炭に変化させ、浄化するために使ったのは得策でした。あれほどの穢れを祓うのに、何も手札がなかったのですから。ですが、私は好ましいとは思いません」

 二人は立ち尽くしたまま、睨み合った。

 何の情報も与えられず、急場しのぎで禍神を竹炭で浄化した。平たく言えば、浄化の力で無理矢理消し去ったのだ。おかげでここは自然神すらいなくなった。まるで殺虫剤でもかけたかのように、薬品の匂いが充満し、虫の一匹もいない。

 高宮が言うように、本来なら禍神の怒りを鎮め、説得し、この土地の産土神にまで神格化するのが最善の方法だ。そうすれば地鎮祭のあと、この土地の守り神になっただろう。それは智加にも重々判っていた。

 この地は浄化できたが、禍神だったとしても、やったことは神殺しと同等だ。智加のやり方は神事とは言えなかった。

「議論するつもりはない。言いたいことがあるなら、親父に言え」

 途端、高宮は破顔した。肩の力を抜いたような、まるで幼子の悪戯を咎めるような顔だ。智加は怪訝な顔をして、その先を待った。

「傷はどうです?」

「は?」

「火傷をおったのでしょう? 診せて下さい」

 智加はかっとなった。

「さっさと車を出せ」


(続く)

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