(2)前途多難な寮監生活
ピピピピピピ、と鳴り響く目覚まし時計の音。
のろのろと布団から手だけを伸ばし音をとめて、時計の針を眺めてから、あたしの一日が始まる。
寝ぼけ眼をこすりつつ時計を見るとまだ6時。
早い。早すぎる。
なんでこんな早起きしなくちゃならないのかというと、別にお化粧に時間がかかるの、というわけじゃあ決してない。化粧なんてぱぱっと5分で終わる。
ではなぜなのか。
………その答えは、というと。
「詠心センセー。ラジ体の時間っすよ」
週番の生徒が扉をノックしつつ眠そうな声をかけてくる。
あたしが寮監になって次の朝、ふざけた生徒が断りもなく部屋に侵入してきたのをパンチとキックの2段階で丁重におもてなししてからというもの、この部屋に無断で生徒が入ってくることはない。そして今日の週番も部屋に踏み込んでくる気配はなかった。よしよし。いい傾向だ。やっぱり最初が肝心。
すぐに行くと返事をしてから、あたしはいやいやながらも布団を出て着替え始めた。
長袖Tシャツ、ジャージのパンツ、靴下はいいや省略、などと惰性だけで手を動かして、誰が作ったんだかはた迷惑極まりない寮則にため息をつく。
そう、なんとこの橘男子寮では月曜から土曜の朝っぱらから寮生全員でラジ体、いわゆるラジオ体操をすることが規則で決められている。
それ自体はいいことだ。迷える若者は身体を鍛えるべし、というのはあたしの持論だ。たいへん結構。
でもなんでそれに寮監であるあたしも付き合わなくちゃならないのよ。
この規則を寮長である鷹司に教えられた時には、まじで即刻寮監をやめることを考えた。
だって、あたしはめちゃくちゃ朝が弱い。キング・オブ・低血圧といっても大げさじゃなくて、何しろ実家では母もあの父でさえ、台風をさけるかのように朝のあたしには話しかけてこなかった。
なのに、なぜ体操だ。それもラジオ体操。
勝手にやってろっつー話。
でも悲しいかな、寮則を変えるとなるとあのクソ忌々しい理事長にかけあわなくちゃならない。もちろん、あたしが朝弱いのを知ってるあの父親が寮則の改定になんて頷くわきゃーない。今だって絶対にほくそえんでいるに違いない。
ということで、寮監になってはや2週間。あたしはしぶしぶながらも早起きをしている。家族と友達が聞いたらびっくり仰天、卒倒すること間違いなしだろう。
さすがに生徒と一緒になって体操しなくちゃならないわけじゃなく、単なる監督していればいいらしいので、パイプ椅子をひっぱりだしてぼけーっと眺めているだけだけど、面倒なことには変わりない。
「―――…行くか」
ぱさついた髪はひとまとめに結び、顔は洗っただけのノーメイクのまま。妙齢な婦女子としては情けないとしかいいようのないカッコで、あたしは寮監室から外へと出た。
いいの。だって相手は生徒しかいないもん。
「はよーっす」
次々にかけられる生徒たちの挨拶に頷きつつ、ちっとも働かない頭のままぼてぼてと歩いた。
全館エアコン完備という贅沢極まりないこの建物は、朝でも昼でも夜でも、廊下だろうが部屋だろうが寒いことはない。おそらく夏になっても暑いということはないのだろう。
向かう先は大広間。寮には不必要なほどやけに広い部屋だ。
寮監室から少し遠いその場所に近づくにつれて生徒の数も増えてきた。けれどありがたいことにこの2週間であたしが極度の低血圧だってことは周知徹底されたらしく、話しかけてくるバカ者はいないはず―――。
「はよっす。相変わらず仏頂面」
前言撤回。
いたよ、いたいた。朝のあたしに話しかけてくるバカ、それもなるべくなら朝も昼も夜も見たくないバカが。
「―――…鷹司。あたしに話しかけんな」
暗雲を背中にしょって後ろを振り向くと、案の定いるのは寮長である鷹司。
我ながら物騒な声を出してると思うけど仕方ない。朝に話しかけてくるやつが悪いのだ。
なのに、このバカはちっとも気づきやしない。少しは空気を読め。このKYが。
「センセ。挨拶は」
生意気にも、こんなことまで云い返してくる。
「―――…おはよう」
いつもよりも2割増しで地を這う低い低いあたしの声に鷹司はやっぱり動じることない。あーあー、むかつく。
「詠心センセ、女ならさ化粧くらいしてきたら?すげー顔してる」
五月蝿い。
「それにその髪。結んでても寝癖全開じゃん」
五月蝿い五月蝿い五月蝿い。
云い返したくても朝のあたしは血もパワーも足りなくて、その元気がでない。それをいいことに、この鷹司はあたしに云いたい放題だ。
「あーあ。寮監が女に変わるっていうからもっと色っぽいセンセを期待してのになぁ」
と、ちらりと横目で鷹司があたしを見やる。
なによ。なんか文句あるってか。
「化粧してちゃんとなりしてれば見れなくないのに、朝はこんなだし、口は悪いし、色気はないときた」
悪かったわね。
どうせ低血圧ですよ。
どうせ口が悪いですよ。
色気なんて生徒相手にだしてどうするっての。
「あ、リョーチョーが詠心先生を口説いてるぅ。キャーヤラシー」
まぁた五月蝿いのがきた。初日にスーツケースを運んでくれた桑原だ。こいつは元気でいい子だけど五月蝿い。できれば朝は側にきて欲しくない。
じろりと睨んだあたしのどこを誤解したのか、桑原は挨拶をすると勝手に聞いてもいないことを説明し始めた。
「だってねリョーチョーってめっちゃ面食いなんだよ」
相手にするのは顔よし、スタイルよしとモデルでもやれそうな子だけと、今まで付き合ってたという学内で美人と名高いらしい女生徒たちの名前を順番にあげていく。
だからなんだっつーのさ。そんなことあたしに関係あるっていうのか?
「だからぁ、そんなリョーチョーが“見れる”っつうことはさ、詠心センセのことめっちゃ褒めてるんだよ?」
「そうそう。口説いてるんだから邪魔すんなよタロ」
しらっとのたまう鷹司。
「ゴメンナサーーイ」
てへ、と舌をだして笑う桑原と、ふたりまとめてぎろりと睨みつけてやった。
バカだ。
こいつらバカ決定。
そうこうしているうちに大広間についたので、ギャーギャーとさわぐやつらから離れ、あたしは壁際にたてかけてあるパイプ椅子を組み立てどっかりと座る。朝からほんとう疲れた。
程なく毎度おなじみのラジオ体操の曲が流れ、生徒たちがやる気なさそうに動き出すのを眺めつつ、大きな大きな欠伸をする。今すぐ部屋に帰って布団にもぐりこみたいと心のそこから願ったけれど叶うわけもないか。
「よし」
姿見の前で何度も何度も確認OK。
顔よし、髪型よし、服装よし。
どっからみても完璧な女教師ぶりに、あたしはにんまり笑う。
今日はとうとう新学期が始まる。記念すべきあたしの教師生活の第一歩だ。
とりあえず昨日登校した時にあたしが担当するのは1年生の4クラスと判った。教科主任の中本先生に挨拶をすませ、おおよそのカリキュラムを習った。とはいえ今日、明日は全校生徒ともにレクレーションだけで授業はないのでそれほど緊張しなくていいのだけれど、朝礼で全校生徒に向かって挨拶をしなくちゃならない。
なんせ失敗するわけにはいかないのだ。何事も最初が肝心っていうでしょ。
ポケットにしのばせた挨拶のカンペを取り出してひととおり声をだして読む。しまってからもう一度暗唱して準備万端だ。さあどっからでもかかってきなさい。
「行ってきまぁす」
誰もいないけど、これは実家にいる時から云う癖がついてしまっている。
習慣って怖いなと思いつつ、あたしはバックを手に部屋を出た。
と、部屋を出て玄関までは良かった。
部活をやってない普通の生徒が出かける時間よりもだいぶ早いから誰にも会わずにすんで、このままいけば無事に学校に着くと思えた。
なんせ、ここの寮生たちはあたしをからかって遊ぶのが好きらしくて、またあたしとしても無視されるよりいいかと適当に相手をしてやっているからか、顔を合わせるとなかなか解放してもらえない。普段ならばかまわないけれど今日ばかりはそうもいかない。初っ端から遅刻するわけにはいかないのだ。
だから早く用意し出かけたのに。
なんでよ、なんでここに、お前がいるの?鷹司。
「化けたな」
失礼極まりない言葉をスルーできるほど驚いて、あたしはぽかんと口を開けて立ち止まった。
「なんでいるの」
もう一度腕時計を確認。ほらまだ8時前で、生徒が登校するにはだいぶ早い。
「待ってたからだろーが」
ちょっと、だからなんでよ、なんでよ。
「ほら行くぞ」
「な、なんで。あたし一人で行けるって」
「目的地は一緒なんだからいいだろ」
そりゃ確かにそうだけども。
でもね、さすがにあたしだって歩きながら心を静めようとかさ、いろいろ考えてたのにさ。流石のあたしも緊張ぎみなんだから。
それになんだか鷹司って苦手なんだ。年上を敬うってことしないし(それは他の生徒にもいえるけど)、なんかこう、得体の知れないところがあるっていうか。とにかく積極的に関わりたいタイプじゃない。
だからすたすたと歩き出した鷹司を見て、ちょっとため息。学校までの15分程度の道のりを二人で歩くのってかなり憂鬱。
「置いてくぞ」
どーぞどーぞ置いていってくださいな。そのほうが嬉しいから。
そんなあたしの内心の声を聞いたのか、鷹司はわざわざ戻ってきて、玄関から動こうとしないあたしの腕を掴みひっぱって歩き出した。
「はなせ鷹司」
「なんで」
「自分で歩ける」
「俺はこっちのほうがいい」
君の希望なんてきいてない。
けれど、がっちり握られた腕を振り回しても、手は外れない。
ああもういいよ、好きにしてよと投げやりになる。
なぜかやたらと機嫌の良さそうな鷹司を恨めしげに睨みつつ、あたしは長い長い坂道を下って学校へと歩いた。
そしてあたしはこのことを死ぬほど後悔することになる。
鷹司とのやりとりにぐったりと疲れきったせいか、朝礼では緊張もせず挨拶も滞りなく終わった。
るんるんご機嫌で校内を歩いていると、やたらと生徒、それも女子生徒たちから見られたのも好印象で受け入れられたのかな、なんて能天気に思っていた。
「詠心センセーーーーっ」
はた迷惑なほど大きな声とともに廊下の向こうから弾丸のように走ってきた桑原の一言が、そんなあたしを一気に地獄へと叩き落した。
「ねねね、リョーチョーと付き合ってるんだって?あーもーどうして教えてくれなかったのさ。タロウ寂しい」
よよよとあからさまな泣きまねをする桑原を前にあたしはかちんと固まる。
なに?
なんだって?
なんか一瞬あたしの耳が拒否反応を起こしたような…?
「朝一緒に手つないで登校したんでしょ?もー校内中すっげえ噂」
はい?
「いっつも遅刻すれすれなリョーチョーがわざわざ朝早く来たっつーし、すっげラブラブだって」
はいはい?
「リョーチョーもてるからなー。センセ、女子からそうとう恨まれてるよ?注意しないとね」
はいはいはい?
「でもダイジョブか。リョーチョーがついてるもんね」
はははと能天気に笑う桑原にようやく現実が帰って来る。
するとなにか?
女子生徒の視線は好意じゃなくて悪意満々ってわけか?
「あ、あれよ。鷹司くんと付き合ってるっていう先生」
「別に普通じゃん。あれのどこがいいっていうのよ」
ちょっと耳を澄ませると聞こえてくる声にがーんと頭を殴られた気分になった。
ばっちし反感買ってるじゃんよ、あたしったら。
一刻も早く誤解をとかねば。
「ちょ、ちょっとあたしちが―――」
そこに狙ったかのように響く校内放送。
―深草先生、3年A組鷹司率君、至急理事長室まで―
途端に大きくなるひそひそ声。
ああああ頭痛がする。初日から呼び出しってかい。それも鷹司と一緒にかい。
こりゃばっくれるしかないと回れ右をしたあたしの目の前に音もなく現れたのは、なんと校長先生。気配はちっとも感じなかったよ、恐るべし。
「じっくり説明してもらいますよ、深草先生」
見事なまでに光るつるぴか頭に青筋浮いてますって。やだ怖い。
ははは、と乾いた笑顔のあたしに能天気きわまりない桑原の声がかかる。
「ガンバレガンバレ、詠心センセ!」
校長先生が再度うながさなかったら、あたしは確実に桑原を殺してたと思う。
命拾いしたね、桑原くん。
その後、やたら笑顔な理事長と苦虫を100匹くらい噛み潰しましたっていう表情の校長先生相手に、あたしはひたすらに弁解を繰り返した。
っつーかクソオヤジ、なんでそんな楽しそうなの?
さらにむかつくことに、一緒に呼び出された鷹司はあたしとのことを否定しようとしなくて、怒り心頭を通り過ぎて呆れてしまった。
とはいえ、理事長はくさっても実の父親。さすがにはなっから噂は噂でしかないと見抜いていたようで、すぐに無罪放免となった。
そう、ただ狼狽えるあたしの顔を見たかっただけなのよ、あのクソオヤジはさ。悪趣味なんだから。
とにもかくにも、どうにかこうにか誤解を解いての帰り道。
もちろん別々に帰ろうとしたあたしに勝手についてきた鷹司のひょうひょうとした姿を睨みつけて、ずっと疑問だった朝の行動を問いただした。
そしたらやつはなんていったと思う?
「女よけ。いっつも新学期は女達がぎゃーぎゃー五月蝿いんでね」
ぶちぶちぶちん。
これはあたしの堪忍袋の切れた音です、はい。
もう我慢ならないと自慢の右ストレートを繰り出したら、生意気にも鷹司は手のひらで受け止めやがった。
「甘い甘い」
勝ち誇った憎ったらしい笑顔に、あたしも負けず劣らずにっこりと極上の笑顔を浮かべた。
「―――…フフフ。甘いのはアンタよ」
一瞬油断した鷹司の横腹に蹴りをいれると、沈みこむ身体とうめき声を無視したままさっさと歩き出した。
ハイヒールの先っぽで踏まれなかっただけマシだと思え。
今日一日だけでたまった鬱憤を少しだけ晴らして、けれども明日からのことを考えると気分が沈んでしようがなくて。
あーあとうなだれつつ、あたしは一人で橘寮へと帰ったのだった。
読心先生、暴力はいけません。