婚約破棄された使えない代筆令嬢ですが、私がいなくなったら、元夫の商会が破綻したらしいです
「お前はいつまでもそうだ、エルナ!」
書斎の扉が、叩きつけるように開いた。
怒鳴り込んできたのは、婚約者のアデール・ロイター。
仕立ての良い上着に、きっちり整えられた金髪。整った顔立ちの男だが、その目元には近頃、隠しきれない驕りが浮いている。
「何度言わせる。お前は使えん女だ」
「……」
「社交性もなければ、可愛げもない。一日中こうして引きこもって、机の上で黙々と書き物ばかり。全く見るに耐えんわ! たまには外に出たらどうだ、この根暗!」
「しかしアデール様、こちらのノルデンへの書状がまだ——」
「ったく、メルリアを見てみろ!」
私の言葉は、いつものように途中で踏み潰された。
「素敵な笑顔で、綺麗な顔立ちで、人当たりがいい。
商談の席だって、お前なんかより、メルリアが隣にいてくれたらどれだけ捗ることか」
そう頭を抱えたアデールを見て、私は筆を置いた。
使えない。冷たい。可愛げがない。しまいには別の女の名前を出して、呆れられる、か。
親同士の縁談で婚約者になって以来、六年。
ロイター商会代表でもあるアデールがその期間、私を婚約者らしい目で見たことは、ただの一度もない。
そもそも、使えるか使えないかで人間価値を決めつけるこの男にそのような柔な感情を期待する方が愚かしい。
薄紫を無造作に束ね、化粧気のない顔に翡翠色の瞳の私。
彼が『見るに耐えん』と吐き捨てたそんな見た目の根暗女は、一応ロイター商会の書状を一手に担っている。
私自身、文才と呼べるほどではないにせよ、筆にはそれなりの自信がある。内容もまた、それに見合うものだと自負している。
商会のファーストコンタクトは、必ず手紙から始まる。些細なことでもこまめに手紙を送り続ける私の役目は、取引先との信頼を築くうえで、かなり重要なもののはずだった。
そう信じていたのだが、使えないだの、可愛げがないなどと婚約者からの罵詈雑言を浴びせられ、心も限界に迫っていた。
アデールとの婚約関係は、両家が取り決めた政略上のものに過ぎない。それに、両家の協力が家業を続ける上でどうしても要るのかと問われれば、それもまた違ってくる。
なぜなら、そもそもリーデ子爵家は、すでに商会の実務からは退いているからだ。つまり、この婚約がなくなったところで、双方に大した影響はまったくと言って無いのだ。
だったら、もういいだろう。
「では、婚約を取り消しましょう」
そんな思いで、私はあっさり言った。それを聞いたアデールはこちらを振り返り、読めない表情のまま、ゆっくりと近づいてきた。
「……お前、今なんと言った」
「ですから、そう不満をぶつけるほどわたしが使えないのでしたら、婚約を破棄いたしましょう、と。双方にとって、そのほうがよろしいかと存じます」
「婚約破棄か。お前から言い出すか、全く笑える」
「ええ。お嫌でしたか?」
「……いや」
アデールは、ふん、と鼻を鳴らし、一節置いた。
「もともと私から言うつもりだったがな。そう、私が先にそう言おうとしたのだ。わかるか、お前から言ったのではなく、俺からだ。なんたってお前のような根暗女が俺を振れるわけがないからな。だから、世間には俺が先に婚約を破棄しようとしたと言え。
さもなければ……わかるな?」
汗を垂らしながら、そう弁明し、しまいにはどちらが先に婚約破棄する提案をしたのかについて脅しをしてきたアデールを見て、私は彼に聞こえない程度にため息をついた。
——どちらでもいいじゃない。
そんなちんけな争いはできれば避けたく、いまにも吐き出そうな数年間の苛立った想いは胸にしまった。
こうして、双方の合意のもと、婚約破棄はあっけなく決まったのだった。
その日のうちに荷をまとめ、私は故郷へ帰った。
馬車に揺られながら、不思議と、惜しいものは何もないと思った。ただ一つ、言えるとしたら海の見える丘を越えたとき、私はふと、北の方角を想った。
——あの方は、今年の長い冬を、無事に越されるだろうか。
なぜそんなことを案じるのか、自分でもわからなかった。
◇
エルナがいなくなっても、アデールの日常は何も変わらない。
——はずだった。
手紙くらい、自分で容易に書けるだろう。
むしろ自分ほど優秀な人間なら、エルナより良いものを書けるはずだ。
そう信じて、アデールは上機嫌に鼻歌まじりで、商会の未来を楽観していた。
さらに、エルナの陰気な手紙から一転、急に見違えるような書状を書いてしまっては不審に思われかねない。そう考えたアデールは、念のためエルナが残した手紙の下書きを開き、内容を確かめた。
「なんだ、これは」
だが、アデールはそう小馬鹿にするように笑いながらそう言った。
要件、詳細、確認——どの手紙にも、その三つが律儀に踏まれ、おまけに世間話まで添えてある。
「商売にこんな回りくどさが要るか。やはりあの女、我がロイター商会の痛手だったか。
奴との婚約破棄という素晴らしいご決断、やはり見事だったぞ、アデール」
自分に言い聞かせて、信じて疑わないアデールは手紙の控えを閉じ、自分の流儀で筆を執った。
アデールの手紙は、要件だけが短く並んだ。
世間話の一つもなく、相手方の心配もせず、近頃のロイター商会の商売繁盛に気を良くした調子そのままに、文面はほとんど命令文に近かった。
「まあ、こんなもんだろ」
そうして自信満々に送られた手紙であったが、数週間が経っても返事が一通も戻らなかった。
「おかしいな。もしやちゃんと送られていないのか?」
痺れを切らしたアデールは、今朝、屋敷に戻ってきた早馬に問いただすかのように詰め寄った。
「おい、お前。手紙をちゃんと届けるのがてめえの仕事だろうが。まさかお前もロイター商会の痛手か?」
「……い、いえ」
使いの女は戸惑いながら答えた。
「たしかにお届けしているはずですが……」
「——では、なぜ返答がない」
「えっと……お言葉ですが、エルナ様の手紙の腕がアデール様よりも凄かったからじゃないですか?」
「な・ん・だ・とぉぉぉぉぉ!!!???」
正直に言葉がポロッと出てしまった早馬の者に対して、アデールは大声で、彼女をさらに威圧した。
「全く、お前もクビにするぞ? いいのか? 田舎の故郷で、貧乏生活をする家族に金の仕送りをしなくていいのか!」
しかし、そう言われても早馬はオドオドする様子もなく、困惑さえしていた。
「いや、あの私の家族、王都に住んでるんですけど……」
「やいやい! 口答えするんじゃない! お前の人生は俺の手中にあることを忘れるな!」
怒りを奮ったアデールに、早馬は何か思い出したかのように袋の中をむさぶり始めた。
「そういえば、同盟家のジークハルト大公さまから、今朝一通、お返事が届いておりました! こちらどうぞどうぞ!」
「お、おう」
アデールの怒りを宥めるために、早馬は手紙を彼の胸に押し当て、勢いでその場を通そうとする。
その手紙を見た彼は、ふん、と鼻で言ったのちに、手で早馬を追い払った。
——ジークハルト大公。
ここから北に位置する年中極寒の隣国ファルードの大公にして、ロイター商会の最売上に貢献する藍染め織物の最大の取引先。この商会がここまで伸びたのは、半ば彼のおかげと言っていい。
アデールはそんな彼からの手紙の封を切った。そこには簡潔にこう記されていた。
『 アデール・ロイター
一体どうしたのだ。
近頃の貴殿の手紙は、まるで別人のようだ。何か障りでもあったのなら、遠慮なく言ってくれ。
快く力になろう。
ジークハルトより 』
「なんだ、やっぱジークハルト様はわかってんじゃねえか」
アデールは、その手紙を読んでほっとした。
たしかに、最近はエルナから言い渡された婚約破棄にムシャクシャしていて、ろくに夜も眠れていなかったのだ。それに気づかれるなんて……
——なんて心優しい人だ。
そう思い、ふと、倉に眠る在庫を思い出した。
半年前、アデールは、巨大な鏡ブームが来ると踏み、巨大鏡を500台、かなりの額でまとめて仕入れていた。というより、エルナが持ち運びやすさから携帯手鏡が流行るのでは、という提案をしたところ、そんなわけがないと、対抗するように巨大な鏡の商売を急いだのだ。
アデール曰く、「流行はとにかく大きいものだ」らしい。
金色の縁をあしらった、少し古っぽさがある気品高い品だ。ところが流行は来るどころか、エルナの予測通り、携帯手鏡ブームのせいで、500台の鏡はそっくり倉で埃をかぶり、仕入れの金が丸ごと寝てしまっている。
「そうだ。ジークハルト様に頼んで、これを隣国ファルードの貴族連中に流してもらえばいい。向こうから力になると書いてきたんだ。遠慮はいらん」
大公その人に、売れ残りの在庫の押し売りを頼む行為がそれがどれほど無作法か、舞い上がったアデールには、まるで見えていなかった。
彼は巨大鏡500台を捌いてほしい旨を乱暴に書き連ね、返事をしたためた。
しかも、手紙の封も以前のようには整えられていない。
——それきり、ジークハルトからも手紙は二度と返ってこなかった。
のみならず、今までの契約が、次々と打ち切られていったのだ。なぜだ、とアデールは嘆いたが、その理由は明白だった。
年中極寒の隣国ファルードでは、織物など暖をとるための道具は、国内でも巨大な生産網は確保されている。藍染め織物はかなり上質な素材で出来ているとはいえ、そんな暖をとる心得を持っている国家がわざわざ隣国の商会から織物を取り寄せる理由は他でもないエルナのおかげだった。
会ったこともない手紙の主にジークハルトは感銘を受けていたのだ。
手紙の包みに並んだ綺麗な文字列に、滞りないまでに丁寧な手紙の梱包。明らかに時間が費やされた手紙は一度ではなく、何度も届いた。
商会代表ほど忙しい者が、これほどまで丁寧な待遇をしてくれるのを受け、何度もしつこく送られてきた手紙をジークハルトは初めて開けると、彼はその内容にひどく感銘を受けたらしい。
しかし、その丁寧さも、美しいとまで称すことができよう内容も、全てが突如としてなくなったのである。
一体どうしたものか、と取り合う返事を書いてきたところ、返ってきたのは、突如とした在庫処理の押し付けの旨。
仕方なく、藍染め織物の取引さえ取りやめたのだ。
その契約破棄によるロイター商会の経営には十分すぎる大打撃を喰らわせた。やがて巷では、いくつか噂が流れた。
ーーロイターの当主は人が変わった。
ーーあの傲慢な手紙を見たか。
ーー呪われたんじゃないか?
ジークハルト大公の契約破棄は他の取引先に多大なる不信感を与え、見事、多くの取引先との縁も、ほとんどがスパリと切れていった。
信頼を失ったのだ。
「一体どこで間違えたんだ?」
アデールは自らに問うた。
業務自体いつも通りやっていたはず。経営方針も変わったところはない。変わったことといえば、エルナが辞めて、自分が手紙を書き始めたことくらいだ。
「まさか。あの女の手紙が、そこまでのものだったとでも……?」
◇
藁にもすがる思いで、アデールは、何かと廊下を急ぐメルリアを呼び止めた。
ゆるく巻いた明るい茶髪に、誰の前でもふわりとほどける華やかな笑顔。声まで甘く、たしかに商談の席に置けば花のように映える娘だった。
「メルリア。急だが、私のために手紙を書いてくれないか。君は人当たりもいいし、王立フェルゼン学院を出た経歴もある。手紙くらい、容易いだろう。なに、あのエルナよりも、よほど素晴らしいものが書けるはずだ」
そう言いながら、アデールの本心が、つい口をついて出た。
「——そうしてくれたら、君を妻に娶ることも、考えようじゃないか」
信頼回復で、業績は戻る上、綺麗な女も手に入る。まさに一石二鳥だ。
アデールは勝利を確信して小さく拳を握った。
ところが、メルリアは目を丸くすると、ぶんぶんと首を横に振った。
「私がエルナ先生の代行を!? そんな、できるわけないじゃないですか〜!」
アデールが冗談を言ったと思ったのか、メルリアはかなり強くドシっとアデールの肩を叩いた。
(え……力、つっよ)
あまりのパワーに野生の勘が危ないと感じたのか、アデールは二歩、メルリアから引いた。
(バ、バケモンか……? いやこんな綺麗な子がまさか……)
いやそれよりも、今この娘はなんと言った?
「エルナ……先生?」
アデールは首を横にブルブル振って、そう尋ねた。そして、ハハハと笑ってみせた。
「な、なーにを言っているんだね、君は」
「アデール様。もしやエルナ先生がどういうお方なのか、ご存じないんですか?」
そう言われると、アデールは思わずごくりと唾を呑んだ。
「……知っているとも。地味で、無愛想な、田舎者の——」
「エルナ先生は、王都でも指折りの名作家です!!」
メルリアは、たまらず声を上げた。その声には少々の怒りも混じっている。そして、彼女の振り上げられた手がいま一度アデールへ迫る。
しかし、今度は微かに当たらない。
(二歩下がってて、良かった……ぜ)
額から流れた汗を拭くと、念のためもう五歩ほど下がり、いつでも逃亡できる位置を陣取る。
「あの美しい文章に、みんな惚れ惚れしているんです。次の一冊を、王都中が待っているんですから」
「え、ソウナノ?」
「やはりご存じなかったんですね。それでよくエルナ先生の婚約者が務まってましたね」
「な、なんだ、その言い方は! メルリア、君もうちを辞めたいか!」
踏み込んでくるメルリアに、アデールは得意の脅し文句をぶつけた。だが先ほどの一撃が効いているのか、いつもの迫力はない。
それにメルリアはオドオドするどころか、満遍ない笑みでこくりと頷いてみせた。
「はい、もちろん辞めさせていただきます!」
「……はい?」
アデールの間抜けな声が漏れた。
「実は私、エルナ先生のもとで働くことが決まっていて、だから私、今日限りでここを辞めて、エルナ先生のもとで、修行するんです!」
「今日、限り……?」
「ええ! 私、ずっと先生の大ファンで。そもそも先生に少しでも近づきたくて、この商会に就職したんですから」
メルリアは、満面の笑みで晴れやかに頭を下げた。
「では、アデール様。今まで、ありがとうございました!」
愛嬌抜群の彼女は、今日のアデールにとって輝かしすぎた。
彼女が去ったあと、モロに食らったアデールはその場に立ち尽くした。
気の利かない、使えない女だと切り捨てた相手は、王都を魅了する売れっ子作家だった。そして、『華やぐ』と見込んだメルリアまでもが、その女のもとへ駆けていった。
ジークハルトを中心に、契約はすべて消え、商会において最重要な信頼を失った。残るは倉に眠る500台の大鏡だけだった。
ロイター商会の破産手当を申し込んだ後、アデールはようやく理解したのである。
自分が立っていた地面は、最初から最後まで、すべてエルナだったのだと。
そして、ロイター商会最大の痛手は、他でもない。
——自分自身だったのだ、と。
◇
その頃ーー。
私、エルナは故郷の家の縁側で、新しい物語を書いていた。最近は面白いことが多々あったおかげで、スラスラとペンが進む。
本の売り上げで得た印税は、これからの長らかな余生を過ごすほどはもうずいぶんと貯まっている。実はこれまでは大半の印税はこっそりロイター商会に注いでいたのだ。
ペンをとめて、私はふと気づいた。
「……そうか、もうあちらに送金しなくていいのよね」
なんだか、ずいぶん身軽になってしまった。
風の便りに、ロイター商会が大きく傾いたと聞いたけれど、やはり経営は予想外なことが起こるものだ。そう考えていると、ほどなくしてメルリアが数人を連れて訪ねてきた。
「エルナ先生〜!!」
ウキウキで手を振りながら、走ってくるメルリアに思わず私も口元が緩む。
書き手仲間が増えるのは嬉しい。今まで一人で書いていた物語を共有できる仲間ができたのは、なおさらのことだ。
——それから一月後のこと。
古い門の前に、一台の立派な馬車が停まった。
降りてきた人を見て、私は息を呑んだ。
銀髪に、底の冷たい青色の瞳。まだ若いのに、その立ち姿には玉座の重さが滲んでいる。
背は高く、けれど胸に抱えた手紙らしき束を握る彼の手は、緊張で硬くこわばっていた。
「ジークハルト・フォン・ノルデンと申します」
名前だけは、この世の誰よりよく知っている人だった。
「大公様が、なぜ、こんな田舎へ……」
「不躾をお許しください。どうしても確かめたいことがあって、海を渡ってきました」
彼は、手にした束を、そっと掲げた。
「この二年、私がロイター商会と交わした手紙です。これを書いていたのは——貴方ですね」
「……どうして、それを」
「少し調べてみただけです。とても洗練された素晴らしい手紙でした」
「は、はぁー」
「そこで、無礼は承知ですが、私のために手紙を書いてはくれないでしょうか?」
そう言われて、なぜ、わざわざ隣国の大公がこんな田舎にきたのか、すべて納得した。
私の代筆能力を買って、私を隣国ファルードの外交官やらとして雇うつもりなのだろう。
しかし、わざわざ大公さま本人が打診とはずいぶんな買い被りで。
——ならば、考えてやっても……。
しかし、私はいやいやと首を振った。
「私はもうすでに代筆の職務はやめておりまして、現状わたしは作家としての活動を——」
「いえいえ」
ジークハルトは、かすかに笑った。そして、思い立ったかのように口を開いた。
「申し訳ございません。やはり茶化さずにはっきりと申し上げるべきですね」
「……」
「エルナ嬢——私と文通を続けてください」
「は、はい……?」
その提案に思わず、わたしは情けない声が漏れた。まさかそんな提案をされるとは思ってもみなかった。
だって、何? わたしと文通を?
「幼くして大公位を継いだ私の周りには、大公という権力そのものから何かを得ようとする者ばかりがいました。誰の言葉も、まず裏を読まねばならない。そんな私を玉座ではなく、一人の人間として見てくれたのは、後にも先にも、あの手紙を送った貴方だけだったのです」
ジークハルトはそう言うと、まっすぐに私を見つめてから、私の手をそっと握った。なんだか気恥ずかしくなって、私はとっさに顔を伏せる。
「ちょっ……」
「私はずっと、貴方を探していました」
かなり積極的なジークハルトにそんな言葉を言われても、わたしは不思議と嫌だと思わなかった。そして、ふと思い出す。
『あの方は、今年の長い冬を、無事に越されるだろうか』
ロイター商会を出たあの日、丘の上でふと胸をよぎった説明のつかない想いの正体が、いま、ようやく腑に落ちた。
わたしは、ずっと、この人を案じていたのだ。会ったこともない、この人を。
「エルナ嬢」
彼は私の手を離すと、一枚の白い便箋を、そっと差し出した。
「無礼を承知で、もう一度だけ申し上げます」
「……はい」
「私に手紙を書いてはくださいませんか?
——今度はエルナ嬢ご自身の名前で」
もう私の方から何も問うことはなく、そのままジークハルトの要求を飲み込むことにした。
「では、また後日、どこかで。私はこれから、首脳会議に出席せねばなりませんので」
いささかキザな台詞を口にしたと気づいたのか、ジークハルトはそれを取り繕うように、『首脳会議』などという大層な用件を持ち出して、そそくさと馬車へ乗り込んだ。
けれど、その耳が、ほんの少し赤らんでいたのを、私は見逃さなかった。
互いに手を振り合い、お元気で、と声をかけた。
私は書斎室の机につくと、ジークハルトからもらった便箋を見つめ、ゆっくりと羽根ペンを手に取った。
白紙を目の前にして、私は立ち止まった。
自分の手紙を、想うあの方に書く。
たったそれだけのことなのに、なぜだろう。
——まるで、私の中に春が来たようだった。




