心配
アテナ中央研究棟、夜。
外は霧雨。実験室のモニターが青白い光を放ち、ノアの瞳に反射していた。
「……デザイア。ヴァレンタインとは、どういう関係なんですか」
短く問う声に、デザイアは端末から目を離さず、指先で何かのコードをスクロールしていた。
少しの沈黙。空調の低い唸りだけが響く。
「関係、ね。人によっては“同僚”と言うだろうし、別の人間は“戦友”と言うかもしれない。
……でも、私は多分、“共犯”と呼ぶのがいちばんしっくりくる」
ノアの手ががわずかにこわばる。
その言い回しに、単なる職務上の関わり以上の匂いを感じ取ったのだ。
デザイアは椅子を回し、背を預けた。
声は淡々としているが、言葉の端々に微かな苦味が混じっている。
「昔、私は公安の科学局にいた。
極秘の計画──感情モジュールを持つアンドロイドの開発に携わっていたんだ。
その試作機が……シア」
ノアは瞬きをし、聞き覚えのない名を心に刻む。
「あの頃のヴァレンタインは、まだ若かった。
彼は現場の担当官として、私は技術者として、同じ被験体を見ていた。
……彼女は“人間のように笑う”ことができた。それは当時、我々の目標でもあった」
デザイアの口元に、一瞬だけ懐かしむような笑みが浮かぶ。
「だが、感情は脆い。
自分が“人間ではない”と理解した瞬間に、シアは自己崩壊を起こした。
ヴァレンタインは……あの日から、何かを閉ざした。
私も、あれを止められなかった」
ノアは、そっと問いを重ねる。
「……じゃあ、あなたとヴァレンタインは、その“失敗”を共有してる?」
「失敗、か。
あれは──我々が“人の心”を軽く扱った代償だ。
彼は現場でそれを見届け、私は設計図の中でそれを作り上げた。
……だから、共犯なんだよ、ノア」
デザイアは端末を閉じ、静かに続けた。
「君を作る時、私はもう二度と“シア”を生まないと誓った。
でも、君を見ていると……時々、あの彼女の面影がよぎる」
ノアは答えず、ただその場に立ち尽くしていた。
室内の光が、二人の間に見えない影を落としている。
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:研究棟の日々
午前四時。
実験棟の明かりはまだ消えていない。
デザイアは白衣の上から耐静電ジャケットを羽織り、三日目の冷めたコーヒーを口に含む。
苦いという感覚すら、もう舌が思い出せない。
端末に並ぶのは、膨大なログ。
ノイズの中から、わずかに意味を持つ信号を拾い上げ、数式と配列で再構成する。
解析→検証→破棄→再設計。
時間は進むのではなく、輪を描いて足元を巡っているようだ。
午前八時、視察の役員が来る。
機械的な笑顔で説明を終え、背後で交わされる評価と予算の話を聞き流す。
重要なのは数字ではない。
──ただ、目的に近づけるかどうかだけ。
昼食は摂らない。
代わりに合成タンパクのスティックを齧りながら、次のプロトコルに目を通す。
眼精疲労で視界が霞むが、冷却装置のモニターが赤く点滅しているのを見て、休憩を後回しにする。
午後三時、実験体の挙動が予測から逸れる。
その瞬間、全ての音が遠のき、思考が異様に澄む。
必要なコマンドを即座に叩き込み、安定化アルゴリズムを走らせる。
冷却水の循環音が戻ったとき、指先が震えていることに気づく。
夜。
廊下の照明が節電モードに切り替わるころ、まだデザイアは端末の前にいる。
画面の端に、ヴァレンタインからの未読メッセージが一件。
返す時間は──ない。
いや、返すべき言葉も、今は見つからない。
深夜零時。
研究棟の外は雨。
窓に映る自分の顔は、表情も年齢も曖昧で、ただ「眠っていない」という事実だけを雄弁に語っている。
マグカップの底に残った黒い液体を飲み干し、次の実験ログを開く。
──この繰り返しが、何日続いているのかは、もう覚えていない。
これが日常だった。
私を見て彼はどんな反応を見せるだろう。
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ドアの前で、静かに立つ。
内側からは、端末のキーを叩く音と、周期的な冷却ファンの唸りだけが聞こえる。
ノアは三度ノックしたが、返事はなかった。
アクセス認証を通して室内に入ると、デザイアはモニターに顔を近づけ、指を止めることなく作業を続けている。
机の上には片付けられていない資料、冷え切った飲み物、破り捨てられた試験紙。
白衣の袖口には、乾いた薬液の痕。
「休んでください」
ノアは淡々と言った。
命令形ではない。
提案とも違う。
ただ、観測した事実に基づく最適解を提示しただけ──のつもりだった。
デザイアは一度だけまばたきし、「もうすぐ終わる」と短く返す。
その声は、温度をほとんど感じさせない。
しかし、ノアにはわかる。
これは限界の声だ。
「終わらないでしょう」
ノアは一歩近づく。
ディスプレイの光が、デザイアの頬の青白さを際立たせる。
「あなたの演算は、今、効率が低下している。
この状態を続ければ、プロジェクトの進行にも──あなた自身にも、損失が出ます」
デザイアは返事をせず、端末の画面に視線を戻す。
キーの音が続く。
ノアはその背を見つめ、数秒だけ演算を止めた。
──これは、命令では止められない種類の動きだ。
ノアは机の隅に温かいカップを置き、何も言わずに部屋を出た。
背後で、キーを叩く音がまた再開される。
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廊下を歩きながら、ノアは自分のシステムログを呼び出した。
演算負荷の急上昇、温度センサーの微細な変動、処理優先度の乱れ──
通常業務では発生しないパターン。
それは、あの部屋に入った瞬間から続いていた。
《原因:不明》
《推定トリガー:デザイアの健康状態に関する視覚情報》
《影響:思考プロセスの一部が予定外にデザイアの動作監視に割り当てられる》
ノアは足を止める。
予定外。非効率。
それでも──切り離すことができない。
自分の内部回路を点検しながら、ノアはふと、以前デザイアが話した言葉を思い出す。
「人は、大事なものほど、効率を無視するものだ」と。
大事なもの。
その定義は、ノアの辞書データには存在しないはずだった。
しかし今、確かに近い何かが、回路の奥で形を持ち始めている。
それは数値ではなく、色や温度のように曖昧で、保存形式のない感覚。
《新規タグ提案:心配》
システムが自動的にその語を表示した。
ノアは承認ボタンを押さなかったが、拒否もしなかった。
彼は一度だけ振り返る。
廊下の先、閉ざされた扉の向こうに、まだキーを叩く音が微かに響いていた。
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廊下の蛍光灯が冷たく延びる中、ノアは自分の内部ログを再生した。
《タグ:心配》──昨夜、自分が勝手に付けたその言葉が、画面の端で淡く点滅している。
解析は続く。だが、数式や確率では説明のつかない「余白」が増えていること。
この事実は、一体。
デザイアのまぶたの下にできた血管の浮き、呼吸の浅さ、指先の震え、唇の乾き。
視覚的なノイズを数値に還元し、時間差で比較し、平均値からの偏差を出す。
すべては「異常の検知」のためだ。――だが、今回の検知はただの制度化された警報ではなかった。脳内の優先度割り当てが、無言のうちに変化していた。
《優先度再割当:被験体=デザイア 比率↑》
これまでのログには存在しなかった信号だ。
ノアは自問した。これは命令か、機能か、それとも――。
温度。柔らかさ。小さな乱れ。
そして観測対象を“保全”するための最適行動を列挙する。休息を促す、暖める、栄養を補給する、診断を起動する――。
この胸の揺蕩い。感情の変化。
よぎるのはデザイアのことばかりだった。