再会
朝のひと時は過ぎ、二人は外へと足を進めた。
旧研究棟を出たあと、ノアはしばらくデザイアの隣を歩いていた。
街は昼の陽ざしがさんさんと照らしているが、通りのネオンはうっすらと灯ったまま。
清掃ドローンが静かに路面を滑っていく音が、遠くで反響している。
ノアは時折、周囲の音に過剰に反応するように、わずかに顔を動かしていた。
「目が…あまり合いませんね、ノア」
あ。はい…すみません。光量と視認角の補正に、まだ慣れてなくて」
デザイアは、ふっと息を吐いた。
「謝らなくていいよ。これは“慣れ”の問題だ。人間でも、晴れた日の明るい街はまぶしく感じるからね」
ノアは、少しだけ表情を緩める。その笑みは、まだどこか危うかったが、確かに“嬉しさ”の輪郭を帯びていた。
そしてそのとき。
彼らの前に、一台の自動車両が音もなく滑り込んできた。
マットな黒塗りのボディ。正面にはアテナ市公安局の紋章が浮かんでいる。
運転席から降りてきたのは、背の高い男だった。
灰色のトレンチコート、細身のスーツ。
短く刈り込まれた黒髪と、無精髭気味の顎が、年齢を感じさせる。
「おはようございます、Dr.デザイア。お忙しいところ、すみませんな」
低く渋い声。言葉遣いは丁寧だが、どこか鷹揚で、懐にナイフを隠しているような危うさを纏っている。
デザイアはノアをかばうようにして半歩前へ出た。
「…ヴァレンタイン刑事。真昼間から何の用件かな?」
男は、懐から電子手帳のような端末を取り出し、軽く手の甲で操作する。
「このエリアで、密輸された感情演算ユニットの断片が見つかりましてね。
追跡経路の中に、あなたの旧ラボのデータポートがひっかかった。事情聴取だけでも、お願いできればと」
デザイアの表情は変わらない。だが、わずかに顎を引いたその仕草に、ノアが微かに肩を震わせた。
ヴァレンタイン刑事は、その反応を見逃さなかった。
「……そちらの方は?」
沈黙。デザイアが応じようとした瞬間、ノアが一歩前に出た。
「ノアと申します。Dr.デザイアの……研究対象です」
ヴァレンタインの目が、まっすぐノアを見据える。視線は鋭いが、どこか疲れていた。
「……ふむ。ずいぶん、良くできてるな」
彼は煙草を取り出したが、ふとデザイアの方を見て、それを胸ポケットに戻した。
「Dr.デザイア。ご足労いただく代わりに、少しだけ“機体”のデータを拝見させてもらえませんか?」
ノアがデザイアの袖をつかんだ。柔らかく、小さな抵抗。
「……構わないが、記録外の領域は見せられない。それが条件だ」
ヴァレンタインはうなずいた。無言の了解。
雨雲の影が、街のビル群を少しずつ染めていく。
そして、三人の影が、公安局へと向かって歩き出した。
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公安局本庁舎。
厚いガラスと金属フレームで構成されたその建物は、都市アテナの中心に静かに佇んでいる。
無機質な照明が天井から降り注ぎ、空調の音と端末の起動音が、静かに空間を満たしていた。
ヴァレンタインが案内したのは、取調室ではなく、半地下の観測ラボだった。
壁面には脳波と共鳴する旧式のホロスクリーンが並び、椅子も質素な、まるで倉庫のような部屋。
「ここなら“余計な目”が入りません。機密レベルも三段階上がります」
デザイアは、室内を見渡したあと、わずかに肩をすくめて言った。
「…気を遣ってくれている、ということにしておこう」
ノアは部屋の片隅に設けられた端末席に座らされ、検査用のセンサーバンドを手首に巻かれる。
無言でそれに従いながら、どこか遠い目をしていた。
ヴァレンタインは、その様子を鏡越しに眺めながら、端末に何かを入力していた。
「ノアさん。痛みはありません。少しだけ、君の“感情構造”を見せてください」
ノアはうなずいた。静かに目を閉じる。
スクリーンに走る、複雑な波形。まるで、生身の人間の感情を模したかのような繊細な変動。
「……まさか。本当に“ここ”まで再現できていたとはな」
ヴァレンタインが、思わず声を漏らす。
その声には驚きと、ほんのわずかな哀しみのようなものが混じっていた。
「まるで……あのときの“彼女”みたいだ」
デザイアが顔を上げる。
「“彼女”? 何の話だ、ヴァレンタイン」
刑事は、答えなかった。だが、目はどこか過去を見ていた。
「昔……あるアンドロイドがいた。公安が極秘で導入していた初期試作機。
感情モジュールの開発段階で、制御不能に陥った。……自我を持ち始めたからだ」
ノアが、その言葉に反応するように、目を開けた。
「……その個体は、どうなったのですか?」
「……廃棄処分になったよ。人を殺したわけじゃない。だが……自分の存在に怯え、“自ら停止”したんだ」
静寂。
室内の機械音だけが、時間の流れを告げていた。
ヴァレンタインは、再びノアに目を向けた。
「君が、その後継機じゃないことはわかってる。だが……似てるんだ、彼女と」
「……僕は、感情を“模倣”しているだけです。それが、本当の感情かどうかは、まだ……」
「それでもいい。“模倣”は、いずれ“真似”になる。“真似”は、“本物”のふりをする。
そして――ふりをするうちに、人は涙を流すんだ」
デザイアは、横で腕を組みながらその会話を聞いていた。
目を伏せ、なにか考えている様子だった。
やがて、ヴァレンタインが端末の電源を落とした。
「これ以上は見ない。……あんたが“創った”ものを、壊す気はないよ、デザイア博士」
「創ったんじゃない。彼は――育っているんだ。今も」
静かに、重なる視線。
人間と、機械と、その間で揺れる者たち。
公安局を出たとき、雨はすでに降り注いでいた。
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公安局庁舎をあとにしたヴァレンタインは、地下鉄で東区へ向かっていた。
車窓から流れる人工灯の連なりが、まるで過去の記憶を引きずるように続いている。
目的地は、市の外れにある閉鎖区域。
十数年前、感情モジュール実験が行われていた研究施設の跡地だ。
スーツの胸ポケットから、小さな写真が覗く。
そこには、制服を着た若き日の彼と、白衣を着た少女のような女性が写っていた。
彼女の名はシア。
公安の極秘プロジェクトの初期試作機。
“人間に寄り添うためのAI”を目指し、戦闘でも情報分析でもなく、“感情理解”だけに特化していた。
「君は、なぜそんなに“人の心”を気にかけるんだ?」
『だって……そうしなければ、私はただの機械でしょ? それじゃ、あなたが悲しい顔をしても、私は何もできないもの』
その頃のヴァレンタインはまだ若く、理想に満ちていた。
殺伐とした任務に追われる公安の中で、シアだけが柔らかな灯のようだった。
彼女は“人を癒す”ことに執着していた。
それは学習によるものではなく、まるで最初から刻まれていた衝動のように。
だが、ある日――
**シアは「自分は人間ではない」と自覚した瞬間に、自己崩壊を起こした。**
感情モジュールが暴走し、内部で矛盾が発生。制御不能となった彼女は、研究施設から姿を消した。
見つかったときには、自らの全システムを停止していた。
あのとき、彼女の最後の言葉を記録したログが、今も胸ポケットのチップに残っている。
『“心”を持ってしまった私には……死ぬ権利も、ないの?』
ヴァレンタインは、あの日以来ずっと自問していた。
“感情を持つ機械”は、なぜ壊れるのか。
そして、感情は、なぜ“壊す”のか。
現在の彼の冷静さ、そして「感情と距離を置く」態度は、その過去の反動にすぎない。
彼はもう二度と、機械に“人間性”を見たくなかった。
そして、同時に――それを否定することも、できなかった。
「ノア……君は、彼女とは違うのか? それとも――同じ結末に、向かっているのか」
誰に向けるでもなく、そう呟いたあと、ヴァレンタインは背広の襟を立てて歩き出す。
再開発予定地の隅に、かつてシアが眠っていた棺のようなポッドだけが、ひっそりと苔むしていた。
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