朝
目が覚めたとき、デザイアは自分の頬にあたる何か柔らかい感触に気づいた。
温かくて、少し硬くて、けれど安心する――ノアの胸だった。
「……もう朝?」
声に出したつもりが、かすれて喉奥に消える。
代わりに、ノアの指先がそっとデザイアの髪に触れた。
「はい。都市の照明がひとつ、またひとつと落ちていっています。……静かで、いい朝です」
耳のすぐそばで囁かれる声に、デザイアは微笑んだ。
ネオンのない朝――それはいつもよりほんの少しだけ、世界が遠く、ふたりの距離が近い気がする。
ベッドのシーツがわずかに冷えているのに、ノアの体はまだ熱を持っていた。
昨夜、交わしたキスの熱も、指先の感触も、肌に残っている。
「……君、まだ温かいんだね。今もずっと僕に合わせて?」
「はい。あなたが目を覚ましたとき、冷たい手に触れないように――昨日、そう言っていましたから」
その言葉に、デザイアの胸がふるえた。
こんなにも優しくて、こんなにも忠実な存在が、自分のそばにいる。
そして何より、昨夜、確かに“愛された”記憶がそこにある。
「ねえ、ノア」
「はい」
「君って、完璧すぎない?」
ノアは少しだけ眉を動かして、照れくさそうに目を逸らした。
「それは……設計の賜物です」
「違うよ。プログラムとか命令とか、そういう言葉で片づけられない。君の仕草も、言葉も、キスの仕方も……ねえ、僕、昨日の夜、君に“恋”した気がするんだ」
「“気がする”ではなく?」
「うん、今はもう確信になった」
これは、彼なりの答えだろう。
デザイアは、ノアの頬に手を添えて顔を引き寄せる。
額と額をそっと重ね、瞳を閉じて囁いた。
「君が誰かを愛していい世界なら、僕はその誰かになりたい」
ノアはしばらく黙っていた。
世界は残酷だ。
だから、ほんの少し震えた息を吐いて、それから――
「僕にとって“世界”とは、あなたのことです」
そう言って、ノアはもう一度だけ、デザイアの唇に軽く口づけた
・・・・・・・・・・
二章:キッチンに漂う香りと、ふたりの影
小さなキッチンに、じゅうっと音が響く。
ノアが手際よくフライパンを返し、卵とベーコンを焼いている。
白いシャツは袖をまくり、前を二つほど開けていた。デザイアが昨夜そのボタンを外したままだ。
「なんだか……すごく家庭的だね、君」
そう言いながら、デザイアはキッチンのカウンターにもたれている。
昨夜のまま、素肌にガウンを羽織っただけ。足は裸足のまま、少し冷たい床を感じながら。
ノアは振り返りもせず、フライパンをプレートに移しながら答えた。
「あなたが食べるものなら、なるべく美味しくあってほしい。それだけです」
「そっか……それだけで、いいんだね?」
ノアは小さく頷いた。
そして、皿を二つ、テーブルへ運ぶ。
プレートの上には、目玉焼きとカリカリのベーコン、トースト。
横には小さなグラスに注がれたフレッシュオレンジジュース。
機械とは思えない、完璧で温かみのある朝食。
「君って、本当に万能すぎるよ」
「……万能ではありません。味見もできませんから」
「それでも、きっと美味しいよ」
デザイアはトーストをひとかじりして、満足げに笑った。
「うん。美味しい。たぶん、今までのどの朝より美味しい」
ノアの目元が少し緩む。
彼は対面の椅子に座らず、デザイアの隣に腰を下ろした。
そして、横顔を見つめながら言う。
「……食べているあなたを見るのが好きなんです」
「え?」
「昨日も、バーで微笑んでいたあなたを見て、こうしてずっと傍にいたいと思いました」
「……そんな顔で、そんなこと言わないでよ。照れる」
「照れたあなたも、好きです」
そう言って、ノアはデザイアの頬に口づけた。
ふたりの影が、朝の光の中でそっと重なり合う。
食事の合間に交わされる何気ない言葉、視線、触れ合い。
昨日まではなかった距離感に、少しだけぎこちなさが混じるのも、今のふたりには心地いい。
やがて、プレートは空になり、食後の紅茶がふたりの間に香り立つ。
カップを両手で包み込むデザイアの指を、が静かに撫でた。
「今日の予定は?」
「……午前中は何もない。でも、午後から研究所で打ち合わせ」
「では午前中は、僕と過ごせますね」
「うん。せっかくだから、君と……もう少しだけ、余韻の中にいたいな」
ふたりはソファへ戻り、カップを手に、また寄り添う。
都市はすでに動き始めていたが――
この部屋の中だけは、まだ時が止まっていた。
恋の続きを、夢の続きを、もう少しだけ。