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殺し屋

作者: 麻加瀬成之

 この作品を投稿する前、妻の尻に敷かれる老いた殺し屋が、引退を掛けて最後の大仕事をする、というストーリーの小説が既に存在することを知りました。この作品も似たような状況設定ですが、私はその小説を読んだことがないので、この作品がその小説と似ているのか似ていないのか、わかりません。しかし、状況設定が似ていても、内容まで似ていることは、おそらく、ないでしょうから、臆せずに投稿することにしました。

 なお、作品中、オバマ大統領の名が出てきますが、オバマが大統領だったころに書いたものです。そのころ、まだスマホが今ほど普及しておらず(特に高齢者の間で)、主人公らが持つ携帯電話は、ガラケーだという前提で書かれていることも、一言断っておきます。

殺し屋


1.



 朝。殺伐とした部屋。窓からは灰色の光。

 男は早目に起きて、ひとり、テーブルに付く。自分で焼いたパンにバターを塗って、黙々と食べる。

 彼は既に着替えていて、いつでも出掛けられる態勢。つまり、立ち食いでもしているように、トレンチコートを着込んだまま、パンをかじっている。家庭には、似つかわしくない光景。

 妻が遅れて起きて来て、テーブルに向かってはすに座った。

 

 数分間の沈黙。

 

 妻は、テーブルの上に置かれた紙袋に目を留め、それを片手で取り上げる。中には、数枚の紙幣。彼女は無言で数えて、「これだけ?」

 男は答えない。

 再び、「これだけ?」

 男は曖昧に、うなり声で答える。

 「お金、抜いたの?」

 「いや」男は不快感の塊になる「それで全部だ。それだけだ。」

 「ほんとに、これだけなの?」妻の声には、あからさまな猜疑。

 「ああ」男は、抑揚を抑えながら、「経費やら、なんやら引くと、それだけになる。」

 「経費って、なに?」

 「だから、いろいろあるだろ。銃の手配とか、なんとか。」

 「銃を使ったの?」

 「ん? んん。」

 「うそ」妻は、男を見ながら、「銃は使ってないでしょ。」

 男は、答えない。

 「最近は、どうせ、ナイフか、なんかでしょ?」

 「うん、まあ。」

 「経費なんて、たかが知れてるよね。」

 男は、新聞紙を邪険にたたんでテーブルの上に放り投げる。「このごろは、単価が安いんだ。わずか20万で殺しを請ける奴も出てきた。この業界も競争が激しい。」

 「単価下げないと、仕事ないの?」

 「うるさいよ。」

 「うるさい、じゃなくって。」

 「そうだよ。」

 妻は、黙って、紙幣を何度も指先ではじいた。「これじゃ、うちは、やっていけない。」

 男は、なにも言わない。なにも言えない。

 「出掛ける。」とひとこと言って立ち上がる。

 「どこへ?」

 「地球以外の、どこへも行かん。」

 「仕事?」

 「探す」

 「どうやって?」

 「知るか」

 ドアを開ける。いきなり横殴りの朝陽に襲われて、たじろぐ。

 「いいけど」背後から妻の憂鬱な声が、「私を路頭に迷わせないでよ。」

 ドアを閉めて、足早に螺旋階段を降りる。

 地べたに辿り着くと、降りてきた階段を見上げた。

 まるで倉庫だな。ここに入居した当時は、斬新なデザインが売り物のアパートだったのに。



2.



 歩く。ただ、歩く。どこへ? あてはない。

 どうする? どうしようもない。

 とにかく、気持ちを落ち着かせる必要がある。

 座ろう。でも、座る場所がない。

 まったく、都会って所は、ちょっと座りたい、という欲望を満たすだけが、そう簡単にはいかない。

 

 野良猫が目の前を横切る。からすが道路脇に置かれた生ゴミの袋をついばむ。腐臭が漂う。やだね。ああ、鬱の気分。こういうときは、掟やぶりをやらかそう。

 携帯を取り出し、こっちから連絡することを原則として禁じられている番号にかける。素っ気ない呼出し音が9回鳴って、老いた男の声が応えた。「なに?」不愉快そうな声だ。

 「すまんね。頼みがある。」

 「なんだ?」

 「金が要る。」

 「金はない。」

 「仕事をくれ。」

 「あるなら、電話する。」

 「積極的に、仕事を探してほしい。」

 「無茶をいうな。」

 「最後に、でかく稼いで、足を洗いたい。」

 「そりゃあさ。誰もがそう願うだろうが。どうした? 突然妙なことを言い出して。具合でも悪いのか? 今、どこに居る?」

 「家の近くさ。」

 「いつもの橋の上で待ってろ。会おう。」

 会って、どうする? ま、いいか。ヒマなんだから、指定された場所へ行こう。

 表通りへ。

 どやかましいゲームセンターの前を通り、地下鉄の駅にもぐる。強烈な向かい風を受け、コートの裾をなびかせながら階段を降りる。プリペイドカードで自動改札を通り、ホームへ。地下鉄なんて、待たせず、すぐ来てもらいたいもんだが、いいかげん待ちくたびれたころ、列車が入る。ドアの脇に立ち、目的の駅で降りるが、真っ直ぐには指定された場所へ行かない。わざと遠い出口から出て、なるべく細い裏路地を選んで複雑な経路を経る。誰かに尾行されているわけでもないのに、いちいちこうするのが癖になっている。

 やだね。でも、こうすると、町の野良猫さんたちに沢山会える。


 半地下式の鉄道の脇の道。時々場違いな喫茶店があるが、全体に灰色の地域。派手なラブホテルが、かえって殺伐とした雰囲気を強めている。

 目的の陸橋に着く。そこには、黒いコートを着た男が橋の中ほどに立ち、茫然とした態で眼下の鉄路を見つめている。


 2人の初老の男の、陸橋の上での出会い。

 トレンチコートの男は、黒コートの男のすぐ脇まで来て、じっと立っている。

 のに、黒コートの方は、依然として眼下を茫然と見つめ続ける。

 「なに、見てんだ?」

 「鳩がいるんだ。」

 「は?」

 「あの枕木の上に」と、下方を指差し「鳩がいるんだ。」

 「それで?」

 「ところが、どうも、飛べねえみたいなんだ。よく見ると、脚が折れているようで、枕木に直接胴体が接していて、立てねえみたいなんだ。そんなふうだってえと、どうも、羽ばたくこともままならねえみたいで、飛べねえんだな。」

 「あ、そう。」

 「さっきから、何台もの列車が上を通り過ぎているんだが、じたばた羽ばたこうとするだけで、一向に飛べない。あの鳩は、あのまま死んじまうのかな。」

 確かに、枕木の上でむなしく羽ばたく一羽の鳩が見える。しかし、脚が折れているのかは分からない。あんな遠くの小さいものが、よく見えるな。

 「あのね。」トレンチコートの男が言う。「鳩の心配する前に、俺の心配してほしいんだけど。」

 甲高い汽笛の音がして、貨物列車が通り過ぎた。

 黒コートは、トレンチコートの男に背を向けて歩き出す。

 「朝っぱらから、なんだ。」と、黒コート。「どうしたんだ? 妙なこと言い出して。」

 「別に、妙じゃないだろ。もう引退したいんだよ。」

 「やめたくなったのか。」

 「うん。だから、一発、でかい仕事をしたい。」

 「でかい仕事なんて、あるわけねえ。」

 暗い表情の男が二人、荒涼とした町を前後に連なって歩く。

 「座って話そうぜ。」トレンチコートの男の提案。

 「じゃあ、喫茶店にでも。」

 たまたま近くにある、小汚い店を指して「そこで?」

 「少しは店を選べ。腐ったコーヒーなんぞ、飲みたくねえ。」

 などと言うから、初老の男二人で、延々と歩き続ける羽目になる。

 20分ほど彷徨った挙句、ようやく許容範囲の雰囲気の店に出会う。

 壁も天井も床も白い、今風のインテリア。

窓際に、ふたり、向かい合って座る。


 コーヒーを注文して、しばらく沈黙。

 いったい、こいつは、とトレンチコートの男は思う。自分から会おうと言って呼び出しておいて、こっちが黙ってりゃ、いつまでも黙ってるつもりかい。

 仕方なく、「あのなあ」と切り出す。

 「ああ?」

 「なんとか、ならんのかね。」

 「なにが?」

 「なにがって、最近、しょうもない仕事ばっかだろうが。でかい金になる仕事は無いのかね。」

 「無いね。今どき、大金払って、こいつを」と、右手で人を刺す真似をしながら「人に依頼するやつはいねえ。」

 人前だ。少し気になる。もっとも、傍で見ていて、黒コートの動作の意味を理解できる人はいないだろうが。

 「プロの仕事を正当に評価する、という考え方は、今の世の中には無いのかね。」

 「ないんだろうな。」黒コートは、内ポケットからオランダ製のシガリロを取り出し、火を付けてから、店の奥に向かって「煙草、吸って、いいかい?」

 「どうぞ」という返事。

 「遅いよ。」と、トレンチコートの男。

 「なにが。」

 「吸い始める前に訊け。」

 「吸いかけてから訊けば、ダメとは言いづらかろう。」

 「甘いね。近ごろは、ダメな場合は、どうしたってダメだ。よしんば普通の煙草が良くても、そいつは臭いが強烈だから、嫌われるだろ。」

 「一度良いと言ってから、ダメとは言えまい。ところで、きょうび、食うに困ってる奴はゴロゴロいる。そこへ持ってきて、ネットのせいだな。闇サイトとかなんとかいうのにゃ、わずか10万、20万で、殺しを請け負う話なんざ、ざらにあるらしい。」

 少し周囲が気になって、見回す。幸い、他の客はいない。店員は、店の奥で、なにか仕事をしている。老いた男どもの会話に興味を示す気配もない。

 「構造的不況業種、というわけか。」

 「そうだな。」

 「そりゃ、わかってんだよ。だから、辞めたいんだ。でも、このまま辞めるわけにはいかない。金がない。このまま辞めたら干上がっちまう。これしか、できないんだ。このトシで、別の商売を始めるか? 無理だね。退職金代わりに大金を稼いで、辞める。それしか無い。なんとかしてくれ。」

 「焼きいも屋でも、やったらどうでえ。」

 「ざけんな。」

 「回想録を書けよ。売れるぜ。」

 「捕まったら、どうする。責任取ってくれるか。」

 「そんなに大金が欲しけりゃ、オバマを殺れ。一生遊んで暮らせるぞ。」

 「契約を取って来い。契約さえ取って来てくれたら、オバマでも誰でも殺る。但し、軍資金として、少しの前金が欲しいけどな。」

 「現実を知れ。もう、そんな良い話はねえんだよ。すべては昔話。お伽話。そんな時もあった。だが、時代が変わった。以上、終わり。」

 「どうしようもないってことか。」

 「うん。どうしようもねえ。」

 「違うな。」トレンチコートの男は怒る。「営業努力が足りないのと違うか。」

 「営業努力?」

 「大金を払ってでも、確かなプロの確かな仕事を求める者は、必ずいるはずだ。いつの世にも、どこにでも、いる。隠れているだけだ。発掘しなけりゃならん。需要はあるはずなんだ。探す努力をしていないだけだ。」

 「ご立派なことを言うじゃねえか。んなら言うけどな。そもそも、俺たちの仕事に正当な評価、という概念が成り立つか。違法な仕事じゃねえか。俺たちが仕事して、依頼者が金を払わなかったとする。裁判に訴えて金が取れるか? 所詮、おれたちの仕事は、もらえただけが報酬だ。正当な報酬、という概念自体がねえんだよ。」

 「それは、法的な評価だろうが。俺が言っているのは、経済的な評価のことだよ。どんな仕事でも、その価値を経済的に評価することはできる。合法か違法かは関係ない。俺たちができる仕事の価値を正当に評価したら、そんな安い値はあり得ない。」

 「あ、そうかよ。夢でも見てろ。」

 「お前、努力が足りないんだよ。やる気がないんなら、引退しろ。俺はもっと若いマネージャーを探す。」

 この言葉は、黒コートをいたく傷付けた。あからさまに不快な表情を見せて、黙り込んだ。

 トレンチコートの男、あせって、「本気で言ったんじゃない。すまんな。」

 黒コート、相手を一瞥したが、すぐ視線を逸らして無言を決め込む。


 再び、長い沈黙。

 既にコーヒーは飲み干して久しく、何杯目かの水を飲んだ後、唐突に、黒コートが、「俺だって、考えてねえ訳じゃねえ。危機感は持ってんだ。なんとかする。少し待て。」


 ふたり、外に出る。

 「ところで」と、トレンチコートの男。「俺は家に帰りたくない。」

 「なんで?」

 「家にゃ、かみさんがいる。」

 「そりゃ、いるだろう。」

 「顔合わせたくないんだ。」

 「で、どうする?」

 「どっか、貸してくれ。」

 「どっか、て」立ち止まって考える「最近使ってない隠れ家があるが、そこで良いか?」

 「そこは、住めるか?」

 「どこでも、住めるだろ?」

 「ベッドとか、布団とか、あるのか。」

 「何もない。」

 「んじゃ、駄目じゃないか。住める所だ。」

 「贅沢なやつだな。じゃあ、俺の知り合いの画家のアトリエでいいか。」

 「住めるなら、どこでも良い。」

 黒コートは携帯を取り出して掛けるが、相手は一向に出ない。

 「待ってくれよ。話は付けるから。」

 ということで、知り合いの画家とかに連絡が付くまで、ふたり、一緒に歩く。

 

 街は、基本的に灰色。

 夜になれば、原色の光が輝き出すが、昼はくすんだ汚れ色。

 でも、見上げれば、たまにビルの壁が、真っ白く日光を反射していることも。

 そんな光と影の合間を、冴えない男がふたり、彷徨う。

 「しんどい。座ろう。」と、トレンチコートの男。

 「地下鉄に乗るまで、我慢。」

 「どこに、行くんだい。」

 「どこへって。アトリエだよ。」

 「まだ、許可取ってないだろが。」

 「どうせ、行くんだ。近くまで行っとこう。」

 「地下鉄なんて。車はどうした。」

 「こないだ、免許返上した。」

 「へ? どうして?」

 「運転に自信が無くなった。トシだ。」

 「もう、そんなんかい。」

 「ああ、そんなもんさ。お前も、そろそろだ。」

 「冗談。まだまだ。」

 「そう思ってんのは、お前だけだ。本当は、危険なんだ。」

 「あり得ん。運転できなきゃ、殺しもできん。殺せるうちは、運転できる。」

 「ばか言え。運転は、殺しより、はるかに高度だ。人を殺さないようにするってえのは、殺すよりも難しい。」

 こいつの言うことは、聞いた瞬間は妙な説得力がある。しかし、変だ。

 「お前の説はな、人間の生命力に対する誤った認識の上に成り立っている。人は、そう簡単に殺せるもんじゃないんだ。」

 「んにゃ。人間なんて、簡単に死ぬさ。腹にナイフを、ぶすって、10センチも刺せばいい。もろいもんだ。」

 そりゃ、そうだ。

 殺しなんて、子供でもできるな。考えてみりゃ。


 巨大な排水口みたいな入り口から地下にもぐる。

 巨大な芋虫みたいな列車に乗る。

 巨大な下水道みたいなトンネルを突っ走って、ホームに降りる。

 長い通路を行く。とても長い。無機的な壁に、色とりどりの広告がへばりついている。大抵退屈だが、若い女の写真には目を引かれる。いくつか階段を上り、また下る。足音が、微妙に渋く響く。

 乗り換え。色の違う列車に乗る。

 うんざり。

 疲れ切ったころ、目的の駅に着く。地上へ。空気が冷たい。汗をかいた身には、風がつらい。しばらく歩くと、「しんどい。座ろうぜ。」と、トレンチコートの男。

 「根性無し。」と言いながら、黒コートは近くのピッツェリアを顎でしゃくってから、とっとと中に入る。

 「飲み物だけの客、お断りって書いてあるぜ。」

 「心配するな。俺が食う。」

 ふたり、店の隅っこのテーブルに付く。そこからは、店全体を見回せるわりには、他の客からは見えにくい。

 そもそも、ふたり一緒にいるところを人に見られない方が良い、というのが黒コートの持論じゃなかったか。今日はすさまじく無防備だ。どうしたのかな。やっぱりトシかな。

 黒コートはパスタをふたつ注文した。トレンチコートの男は、コーヒー。

 再び電話を掛ける。出ない。

 「朝っぱらから、よくそんなに食えるな。」

 「もう昼近いぜ。近ごろ、早起きなんだ。」

 「何時に起きてんだ。」

 「6時かな。早い時で、5時。」

 「んなに早く起きて、なにしてんだ。」

 「散歩。」

 「散歩してる暇があったら、営業しろよ。」

 「うるせえな。俺は営業マンじゃねえ。」

 「仕事を拾って来るのが、お前の役目じゃないか。サボってんなよ。」

 「俺は網を張ってるんだよ。蜘蛛みたいによ。サボってねえ。」

 「その網、スカスカなんじゃないのか。何にも引っ掛からないじゃないか。」

 「ほんっと、うるせえな。だまってお前も食え。」

 「さっき食ったばっかだ。」

 黒コートは再度電話を掛ける。しばらく携帯を耳に当てるが、舌打ちして切る。「留守電にも、なりゃしねえ。」テーブルの上に携帯を放り出す。


 黒コートはパスタ2皿をひとりで平らげて、シガリロをふかし始める。

 トレンチコートの男は憮然とした表情で、コーヒーをすする。


 アンニュイな時間が過ぎて行く。

 トレンチコートの男がうとうとしかけたころ、テーブルの上の携帯が、ぶるぶる震え出した。振動で、テーブルの上を生き物のようにもぞもぞと這う。

 黒コートは携帯を引っつかまえて、耳に当てた。

 「俺だ。誰って、俺だ。つまり、俺だ。だから俺だ。そう、その俺だ。頼みがあるんだ。電話じゃ話しづらい。来てくれ。ここは」と言って、なにやら周囲を探し始める。

 「コルティヴァーレだよ。店の名前なら」と、トレンチコートの男。

 黒コートは、それを無視して、あせった風で身の回りを探しまくる。

 「だから、コルティヴァーレだって。」

 黒コートは、探すのを止めない。やがて、水の入ったコップの下のコースターに目を留めて、「コルティヴァーレだ。コルティヴァーレって店だ。」

 聞いてないな、こいつ。

 「お前なあ」と、トレンチコートの男。「人間としての素直さに欠けるんじゃないのか。」

 「なんの話だ?」

 「だから、店の名前は、コルティヴァーレだって言ってるだろうが。」

 「んなこと、知ってる。」

 まず、真っ先に、この男を殺すべきだな。

 

 客のまばらな店内で、場違いな男ふたりが時間をつぶす。

 新聞を読む。氷をかじる。少し眠る。あくびをする。

 やがて、入り口の扉に付けられた鐘の音と伴に、似たような年齢の男が入って来た。不安げな顔だ。

 「朝っぱらから、呼び付けて、何の用です?」言いながら、黒コートの対面に座る。自然、トレンチコートの男の隣に座るが、その際、自分の太った身体が隣の身体に接触するのを気に留めないようだった。ちょっと厭な感じだ。

 「こいつを、あんたのアトリエに、住まわせてほしい。」黒コートが、トレンチコートの男を指しながら言う。

 「いやですよ。」

 「なんで。使ってないだろ。」

 「今でも使いますよ。大作を描くときは、使います。」

 「邪魔にはならんぜ。しばらく泊めるだけだ。」

 「でも、どうしてです。」

 「理由は訊くな。」

 「いやですよ。」

 「本気で断るつもりか?」黒コートはそう言うと、意味深げに上目遣いで相手を見つめる。

 すると、画家はあからさまに厭な顔をしつつ「まあ、いいですよ。でも、いつまでです?」

 「しばらくだ。」

 「いいですけど、私が使うときは、その間、出てってくださいよ。」

 その言葉を受けて、黒コート、トレンチコートの男を見る。

 トレンチコートの男、「いいよ。その際は言ってくれ。なんとかする。」

 話が決まり、3人、外に出た。


 路上で画家から鍵を渡され、トレンチコートの男ひとりでアトリエに行く。

 アトリエは、狭く湿っぽい路地に面したアパートの一室。古いが、造りのしっかりした洋風のアパートだ。売れない芸術家というのは、器用に、安くても絵になる物件を探して住みつくもんだな。

 暗い玄関を経て階段を上る。木の軋む音が大きい。

 階段の手摺りに凝った意匠が施されているのが心地いい。灰色の木のドアを、預かった鍵で開ける。殺風景な空間だ。

 微かな絵の具の匂いと、あちこちに置かれたキャンバスがなかったら、ただの空き家に見える。もっとも、キャンバスはどれも日に焼けて、長期間放置されていることは明らかだった。

 部屋の中央にベッド。こいつに寝ても大丈夫か。寝た瞬間、全身が痒くなりそうだ。

 木の椅子が4脚。どれも古くて、座ると壊れそうだ。

 壁にカーテンが2つ。開けようと引っ張ったら、破れた。

 背後に現れた縦長の窓からは、路地を挟んだ向かいの建物が見える。それも古い。人は住んでいるんだろうが、廃屋みたいな雰囲気を漂わせている。

 陰気だが、静かでいいか。

 これで住み処が決まった。昼食に出よう。



3.


 都会には、客に食事を提供する店が無数にある。それなのに、いざ食事をしようと出掛けると、適当な店を見つけるまで、長時間さまよい歩くことになる。これは確かにひとつの謎だが、この謎に対する明解な回答を見出したなら、偉大な社会学的業績といえるだろう。

 実際、昼日中から、初老の男がひとりで、緊張を感じることなく、周囲に違和感を持たれることなく、安心して食事を済ますことのできる店、そんな店は滅多にあるもんじゃない。

 どこでも、見回せば、たいていの人は連れと伴に食事している。そんな中で、ひとりで黙って食事をする、それは多大な心的エネルギーを要する、ある種の闘いにほかならない。

 気が滅入るな。

 しかし、緩い歩調で歩きながら、トレンチコートの男は独りの食事を回避する絶好の口実を見出した。財布の中身を点検したら、所持金が食事をするのに足りないことに気付いたわけだ。

 電話を掛ける。

 「なんだ。」黒コートは、今度はすぐ出た。

 「金が無い。昼飯おごれ。」

 「あきれた奴だな。そんな金も無いのか。」

 「金が無いのは、お前のせいだ。仕事を持って来んからだ。おごれ。」

 「俺は、食ったばっかじゃねえか。」

 「それは、さっきの俺の状況だ。お互いさまだ。なんとかしろ。」

 「今、どこにいる。」

 トレンチコートの男は、自分の居る場所を正確に伝えた。のに、黒コートは、「それじゃ、分からん。カトルズに来い。そこで会おう。」

 「カトルズって、お前のダチがやってる店じゃないか。やだよ。そんなとこ。」

 「どうして。」

 「どうしてって。お前のダチに、ろくな奴はいない。類は友を呼ぶ。」

 「お前が言うな。」

 「他に良い店、ないのか。」

 「ない。そこなら、ツケで食える。俺だって、そんなに金があるわけじゃねえ。」

 「たかが昼飯だろうが。」

 電話は切れた。

 仕方ない。ちょっと遠いが、歩いてその店へ行く。


 晴れた日の日中に、外を歩くのは久しぶり。

 空は青いもんだってことを、あらためて認識する。

 自分と同じくらいの年齢の、しょぼい男が、小さな女の子を連れている。孫かな?

 渋滞の道路をトロトロ走る車の間を縫って、小柄なバイクが駆け抜ける。ヘルメットの後ろから長い髪がはみ出て、足が小さく、腰がくびれているから、女だと分かる。そういえば、あんな女と寝たことないな。

 赤信号では、ちゃんと止まろう。車が来てなくても。みんな律義に立ち止まって待ってるから。

 目立つ行動は徹頭徹尾避ける。長年の間に身に染みついた癖。やだね。

 町の雰囲気って、変わらんな。どんなに新しい建物や店ができたところで、町は、基本的に表面は清潔そうで細部は薄汚く、楽しげだが騒々しい、明るさと暗さのコントラストが強烈な、健全な皮膚に病的なひび割れのある、少しばかり滑稽で、かなり鬱陶しい渾沌だ。

 こんな所に住んでて、大丈夫かな?

 人は都会生活で神経をすり減らし、神経どころか全身全霊をすり減らして、そのまま排水溝を流れる汚水の澱になっちまうんじゃないか。

 などと、考えているうち、道に迷った。

 確か、件の店はこの辺にあったはずだ、と思いながら、トレンチコートの男は同じ場所を行ったり来たりする。

 駄目だ。見つからない。

 よく通った道だし、周囲の光景も見覚えがある。

 あの店、つぶれたんじゃないか?

 不景気だからな。あり得る話だ。

 電話をかける。「店がない。なくなっちまった。」

 「ばかいえ。あるはずだ。ちゃんと探せ。」

 「いや、ない。どこへ行った?」

 「今、どこに居る?」

 目に付いた銀行の名前や、ビルの看板に書かれた名称を片っ端から言ってみる。

 「分からんな。筋が違ってんじゃねえのか?」

 「んなこと、ないだろう。」と言いながら、ひとつ隣の通りに移動する。

 あった。

 「あったよ。」とだけ言って、電話を切る。

 店に入る。意外と混んでいる。ランチタイム。

 いいのかな、こんな所で、殺し屋とマネージャーが会って食事したりして。

 ボーイに、人と待ち合わせだと告げる。選りに選って、真ん中あたりのテーブルに案内される。楽しげな客たちに囲まれて、ひとり、所在なげに座る。注文は待ち人が来てからでいいか、と尋ねられ、それでいい、と答える。

 実に居づらい。最悪の状況だ。目線をどこへやったらいいんだ?

 何をしていたら良い?

 こんな所、ひとりで居られる場所じゃない。早く来い。

 来ない。なかなか来ない。向こうから、この場所を指定しておきながら、一向に来ない。腹立つな。

 水ばかり飲みながら、頻繁に、これ見よがしに腕時計を見る。

 ここに来てから、少なくとも30分は経ってるぞ。

 電話をかける。出ない。何度もかける。出ない。

 「なにをやっとんじゃ。あいつは。」思わず、声に出す。

 隣のテーブルの客が、ちら、とこちらを見る。感じの良い中年の男性。同年輩の女性と同席。「いいね。あんたは。」と、言ってやりたくなる。「話し相手がいて。」

 すっかり腹が立って、もう店を出てやろう、と思い始めたころ、黒コートが現れ、トレンチコートの男の対面に座る。

 「遅いっ。」

 「遅いには理由がある。仕事の依頼が入った。」

 「どんな?」

 「また、安い仕事だ。どうする?」

 「安いって、いくら。」

 「40万。」

 ぶふっ、と、息が吹き出た。

 「断るか。」

 しかし今、金が無い。断れない。

 「いや、やるよ。仕方ない。やるよ。」

 「とりあえず、食え。詳しい話は、それからだ。」

 

 2時間後、ふたりは、ビルの屋上。

 トレンチコートの男が双眼鏡を構える。そこからは、あるマンションの一室が障害物なしに見える。

 「あれか?」と、トレンチコートの男。「あの女か?」

 「そうだ。」

 「まだ若い。」

 「うん。」

 しばらく観察。

 そのマンションは、やたら背が高く、奥行きのわりには間口が異常に狭く、ドミノ牌みたいな形をしている。軽く蹴飛ばしただけで、倒れそうだ。

 その4階の窓が開いていて、中が見える。

 女がひとり、窓枠に身を半分隠すように立ち、街路を見下ろしていた。物憂げな面持ちだ。

 「あれを殺れってか。」

 「うん。」

 「一人暮らしか?」

 「そうだ。」

 「素人でも、やれそうだ。」

 「いいじゃねえか。そこをあえて依頼するってんだから。逆に言や、だから安いってことだな。」

 「ふん。」

 「さっさと殺ってくれ。完全成功報酬制だ。」

 「前金なしか。」

 「うん。」

 「ふうん。」

 「いつまで見てんだよ。まるで覗きみてえじゃねえか。」

 女は、もうずいぶん長い時間、じっと街路を見下ろしている。

 「なに見てんだろ。」とトレンチコートの男。

 「知るかっ。さっさと殺ってくれよ。」

 「尾行したいから、車を手配してくれ。目立たない車を。」

 「分かったよ。すぐ届けさせる。」


 実は、女は、特段、何かを見ていたわけではなかった。

 ただ単に、「物憂げに窓の外を眺める」ということをしてみたくて、やってみただけ。でも、やってみたら、別に面白くともなんともなかったので、やめてベッドに寝転んだ。

 既に、ふたりの男は屋上を離れていた。

 女が、もし、ちょっと上を向いたら、怪しいおじさんたちが自分を見ているのに気付いただろうが、女には視線を上に向ける理由が無かった。

 「あああ」と、ベッドの上で女。「生きてんの、やだな。誰か、殺してくんないかな。」



4.



 一台のバンが、西に傾きかけた陽の光を浴びながら角を曲がって来る。

 商用車。全身、真っ黄色。ドアに、派手なロゴと、宣伝文句が書いてある。

 トレンチコートの男は、路上に立ったまま、その車を見ていた。すると、バンは、トレンチコートの男の目の前に来て止まる。中から40歳そこそこの男が降り立つ。

 「まさか、これか?」トレンチコートの男が尋ねる。

 「うん。」

 「目立たない車を手配してくれ、と言ったんだが。」

 「よくありそうな、平々凡々な社有車だろ。目立たない。」

 「目立つっ。一度見たら、覚えちまう。」

 「1日使ったら、別のに変えりゃいい。」

 「んな、面倒な。」

 「プロだろ。そのくらい、しろよ。」

 「ふん。」と言って、トレンチコートの男は、眉間に皺を寄せながら、ドアパネルに書かれた文字を読む。「しつこい水虫、根こそぎ退治。アスリット、ってなんなんだよ。」

 「つまり、製薬会社の車だってことだな。」

 「俺に、これに乗れってか。」

 「いやなら、引き揚げようか。」

 「いいよ。乗るよ。」

 男が、車の鍵を差し出す。トレンチコートの男が受け取ろうとすると、相手は、手を引っ込めた。

 「なんだよ。金は後だよ。」

 「車を届けてくれて、ありがとう、は?」

 トレンチコートの男は、数秒間、口を開けて相手を見つめた。そして、ひとつ溜息をついてから、思い切り頭を下げて、「これは、これは、誠に有り難うございましたっ。」

 すると男は鍵を差し出す。ひったくって車に乗り込んだ。

 「あの野郎、いつか殺してやる。」


 トレンチコートの男は、女が住むマンションの玄関が見える、はす向かいの場所に車を止めた。

 窓を開けるわけにはいかないから、暑いのは我慢。

 うまく、出て来るところを目撃できるかな。

 昔は一瞬も油断無く、何時間も張り込みができたものだ。近ごろは、寝ちまうんだな。もし金があったら、助手を雇うんだ。そいつに見張らせておいて、目標が出て来たら起こしてもらおう、と考えていたら、本当にうとうとしかけた。いかん。

 とにかく待つ。

 退屈。でも、待たねば。

 トイレに行きたくなってきた。我慢できるかな。早く出て来てほしいな。でも、この状態で出てこられたら、トイレに行きたいのを我慢しながら尾行しなけりゃならん。それもつらいな。

 どうにも我慢ならなくなってきた。近くにコンビニなかったかな。確か、100メートルばかり戻った所にあったはずだ。行こう。もし、その間に女が出て来たら、今日は縁がなかったと思って諦めよう。

 車を降りる。足早に歩き、コンビニを探す。

 あった。入って、店員に、トイレを借りる、と断って、店の奥へ。

 入ろうとして、ドアノブの表示が赤になっているのに気付く。

 くそっ。誰だ、こんな時に入ってんのは。早く出ろ。

 どうしよう。どうしようもない。待つしかないじゃないか。

 だから、早く出ろ。ったく、何してんだ、トイレの中で。一人で公共のトイレを長時間塞ぐな。なに考えとる。アホッ。

 トイレの前を行ったり来たり、十数回往復したころ、ようやく鍵が開いて、中からおばさんが、ゆったりした動作で出て来た。

 その巨体を押しのけるようにして、中へ。

 用を済まして、あせって戻る。

 時間を使っちまったな。この間に、女は出ちまったかもしれない。仕方ない。それなら、それで、帰るの待とう。

 しかし、やな車だね。この車には乗りたくないな。と、ためらっている時、マンションの玄関から女が出て来た。

 奇跡的偶然。

 車には乗らずに、そのまま後をつける。

 女は、Tシャツの上に大きめのジャケットを羽織り、無粋なショルダーバッグを肩に掛けて、デニムのパンツをはいている。流行には無頓着みたいだ。歩く速度が遅いから、どうしても追い付きそうになる。時々、距離を保つために立ち止まらなきゃならない。

 立ち止まって、相当な距離が開くまで見ていると、妙なことが起こった。

 女は住宅街の真只中を歩いているが、小さな四つ辻を通り過ぎた直後、脇の道からひとりの男が現れた。背後から見たところ、まだ若そうに見える。その男、明らかに女の後を追っている様子。女が道の右側に寄れば右側に、左側に寄れば左側に寄り、女ばかりを凝視しながら、わざと付けていることに気付かれたいみたいに、傍から見て少しばかり滑稽なほど、後を追ってござい、といわんばかりに小走りに追い付こうとする。

 結局、追い付いて、なにやら話し掛けている。女は、わずかに斜め後ろを振り向き、瞬間、視線を向けただけで返事もせずに歩いて行く。すると、男は、躍起になって追いすがり、彼女の背中に触れたり、腕を取ろうとしたり、あくまでも熱心に話し掛ける。

 すると、突然、女が決然とした態度で振り返り、険しい表情で言葉を発した。何を言ったか分からないが、とにかく、ぴしゃり、となんか言ったわけだ。

 男の方も、なんかぐずぐず言っている。すると、女は再び、すさまじくきっつい口調で言葉を返す。

 つまり、公道上で口論を始めたわけだ。

 トレンチコートの男は、徐々に現場に近付く。二人の会話の内容は、部外者には理解できないが、要するに、男が女にしつこく付き纏い、女が振り切ろうとしている、という構図は見て取れる。

 トレンチコートの男は、ふたりのすぐ近く、手を伸ばせば届く距離まで来て立ち止まった。

 ふたり、驚いた顔でトレンチコートの男を見る。

 「お前な」と、トレンチコートの男は、若い男に向かって、「こうなるには、事情があるんだろうが、ここらで止めとけ。もう、この女に近寄るな。話し掛けるな。電話もするな。後も追うな。半径100メートル以内に入るな。」

 若い男は、唖然としてトレンチコートの男を見ていたが、「あんた、誰?」

 「誰でもいい。すぐ、立ち去れ。」

 再び、「あんた、誰?」

 トレンチコートの男は、早業で相手の頚部を右手で掴む。ぐっと締め上げると、若い男はじたばたしながら、両手で、自らの首に噛み付いた手を掻きむしった。

 「優しく言っているうちに、素直になった方がいい。」トレンチコートの男は、相手を背後の塀まで押して行き、その後頭部を塀に1回叩き付けた。首を持った手を離して、顔面を2回殴る。さらに左の拳をみぞおちにめりこませると、若い男はその場にへたりこんだ。続けて軽いキックを喉仏に見舞う。咳き込んで、ぐったりする相手に向かって、「お前か、この女の殺しを依頼したのは。40万円で。」

 「知らない。」と、かすれた声で、かろうじて答える。

 「とっとと消えろ。地平線の向こう側まで飛んでけ。」

 すると、若い男は、腹を押さえながら、もと来た方へと這うように歩いて行った。およそ、飛んで行く風ではないが、仕方がない。

 「あんた、何もの?」女が言う。ショルダーバッグのストラップの根本を片手でしっかりと掴みながら、あからさまな不審の目をトレンチコートの男に向けている。

 「何者かは、おいおい説明しよう。突然だが、そこいらへんで、コーヒーか、茶でも。」

 「コーヒーと、茶以外なら、飲みます。」

 この返事には戸惑ったが、「では」と、女を伴って、付近の適当な喫茶店を探した。


 トレンチコートの男はコーヒーを、女はオムライスを注文し、ふたり無言で待った。コーヒーが運ばれ、トレンチコートの男は、飲み始める。オムライスがやって来ると、女は何も言わずに食べ始めた。

 ふた口くらい食べたところで、女が切り出す。「偶然じゃないよね。」

 「なにが?」

 「あんたの出現。」

 「うん。」コーヒーをずずっと啜って、「この世に偶然はない。」

 「何もの?」

 「殺し屋。」と答える。

 女は、目を見開き、「あんたが?」

 「うん。」ちょっと考えてから、「実は、あなたを殺すように依頼された。」

 「わたしを?」

 「うん。」

 「じゃ、わたしを狙ってたんだ。」

 「うん。さっきまでは。」

 「じゃ、今は?」

 「やめた。」

 「どして?」

 「おそらく、あいつが依頼者だが、あいつには、間違いなく金はない。」言いながら、コーヒーを飲む。

 「おそらく? なんで、おそらく、なの? 依頼者の顔、知らないの?」

 「マネージャーが仕事を取って来る。殺し屋と依頼者は、お互いを知らない方がいいってのが、俺たちのポリシーでね。」

 「あ、そ。」

 女は、旺盛な食欲でオムライスを食べる。大きな皿に盛られたオムライスは、すぐに無くなった。次いで、特大のタンブラーに入ったジンジャーエールを飲み始める。

 「やめないでよ。」だしぬけに、女が言う。

 「なにを?」

 「私を、殺すのを。」

 「なんで?」しばらく見詰めてから、「殺されたいのか?」

 「うん」女は、明るく答える。

 「もしかして、あんた自身? 依頼者は」

 「違うよ。あ、だけど、私が改めて依頼したら、殺してくれる?」

 「依頼ならマネージャーを通してくれ。もっとも、マネージャーを通したところで、この仕事は断る。」

 「どして?」

 「自殺の手助けをするほど、落ちぶれちゃいない。」

 「殺し屋が自殺の手助けすると、落ちぶれたことになるの?」

 少し考えて、「まあ、なんとなく、そんな感じだ。」コーヒーをぐっと飲んで、「よかったら、理由を聞かせてくれ。」

 「理由?」

 「だから、殺されたい理由だ。」

 女は、考えこんだ。そして、「ある日、歩いていて、気が付いた。私の人生、楽しくない。」

 「あるだろ。なんか楽しいこと。ひとつくらい。」

 「ない。」

 「見つけてないだけだ。」

 「見つかんないと思うよ。」

 「そうかな?」トレンチコートの男は、コーヒーカップを口に持って行き、空なのに気が付いてテーブルに戻す。「仕事は? それとも、学生さんか?」

 「学生? 私、もう26なんだけど。」

 「見えないね。二十歳そこそこかと思った。」

 「若く見られても、嬉しくない。」

 「じゃ、仕事は?」

 「辞めちゃった。面白くないし、一生懸命働いても、お金貯まんないし。」

 「遊びは?」

 「この世に、面白い遊びって、ある?」

 「趣味は?」

 「趣味ってのは、人生が楽しい人がやること。」

 「男は?」

 彼女は、舌を出し、吐く真似をして、「げっ」

 「じゃ、女は?」

 「あほ。」そう言うと、女は、空になったグラスの中の氷を、ストローで、つんつん、と突つく。氷が少し溶けると、底に溜った水を飲む。しているうちに、だしぬけに、「げーっぷ」と、ゲップをひとつ。

 「あのなあ。」と、トレンチコートの男。「女の子が、人前で派手にゲップするもんじゃない。」

 「男なら、いいの?」

 「男でも、良くない。」

 「ゲップは、下品かな?」

 「おれは、そう思う。」

 「ふうん。」

 

 トレンチコートの男の携帯が震えた。

 「なんだ?」

 「お前、」黒コートの声。「たった今、余計なこと、しなかったか?」

 「もう、耳に入ったか?」

 「入ったか、じゃねえだろう。依頼者がすっかんかんに怒って、自分が雇った殺し屋に、なんでボコボコにされなきゃならんのだ、とわめいとる。大事な依頼者をぶちのめすってえのは、どういう了見でえ。」

 「あんな奴の依頼は断れ。金は持ってなさそうだ。第一、真剣な依頼じゃないさ。」

 「ものすごく真剣そうだったぞ。」

 「そう見えただけだ。動機がやわだ。」

 「とにかく、すぐ会おう。話がしたい。今どこに居る?」

 「今どこかって訊かれてもね。分かり易い場所に着いたら、電話するさ。」

 電話を切ると、女が訊く。「マネージャー?」

 「うん。」

 「怒ってる?」

 「うん。」

 「ところで、話を戻すけど、ゲップは、なんで下品なの?」

 「ゲップは、おならと同じだ。体内のガスを外に出す、ということに変わりはない。上から出るか、下から出るかの違いだ。」

 「ふうん。」女は、少し考えてから、「あ、ちょっと待って。」と言うや、もそっと立ち上がり、テーブルをまわってトレンチコートの男のそばに寄り、背中を向けた。そして、お尻を男の顔の方に突き出し、ガスを一発音を立てて放出。そして、座り直す。呆然として見つめるトレンチコートの男に向かって、「ども。」

 トレンチコートの男、しばらく間を置いてから、「あのなあ。」

 「ん?」

 「お前、一応、女の子だろ。」

 「なにか?」

 「いや、いい。」



5.



 「ターゲットと仲良くなるなんざ、掟破りだぜ。」

 薄汚れた赤煉瓦の壁を背にして座るトレンチコートの男に、黒コートが言う。

 「仲良さそうに、見えるかね?」と、トレンチコートの男。「俺とこの女の間では、今、激しいバトルが展開していたんだ。俺はこの女の依頼を断り、その報復に、女は俺におならを一発かました。」

 そこは奥が行き止まりのガード下。通路ではないから、人通りはない。女は、トレンチコートの男と並んで立っている。

 「まったく平和な光景じゃねえか。」黒コートは大儀そうに座りながら、「依頼って、なんだ。」

 「このコは、自分自身の殺しを依頼したんだ。」

 「あほくさ。自殺の手伝いなんぞ、やってられっか。死にたきゃ、勝手に死ぬがいい。」

 トレンチコートの男は女に視線を投げた。彼女は特に反応なし。

 「そんなことより、おかげで、せっかくの40万がパアだ。」

 「あの男は、払わんよ。もし、このコを殺ってたら、ただ働きだったさ。」

 「なにを根拠に。」

 「これからは、いくらか前金を取ってくれ。」

 「今どき、前金を払うような客はいねえ。」

 「あのさあ。」二人の会話に、女が割って入る。「あんたたち、なんか、面白い話聞かせてよ。珍しい商売してんだから、いろんな体験してるでしょ。いろいろ聞かせてくれないかな。」

 「人に話すような」と黒コートが言ったところで、電車が頭上を通過した。けたたましい騒音と、光の明滅が3人を包む。

 「人に聞かせるような話はない。」と、トレンチコートの男。

 「なんで?」女は承知しない。「今までやった仕事の話を聞かせてくれりゃ、いいんだよ。単に、それだけのこと。」

 「こいつの話は、ちっとも面白くねえぞ。」と、黒コート。

 「面白いか、面白くないかは、私が判断するさ。とにかく、聞かせてよ。」

 「ふん。」と、トレンチコートの男。「じゃ、話すか。」

 「よせよ。」と、黒コート。

 「いいだろ。どうせ、ヒマだし。前にやった仕事のことを、話して聞かすだけだ。」

 「んじゃ、好きにしろ。」

 「んん。昔は、楽しかったな。」

 「どのぐらい、昔だ?」と、黒コート。

 「ずいぶん、昔だ。」

 「だから、ずいぶんって、どのくれえだ。」

 「とにかく、ずいぶん昔だ。あのころは、金があった。しこたまあった。客は金払いが良かった。前金でたっぷりもらってな。それで新しい道具をこさえたもんさ。今でも忘れん。狙撃用の銃を作った。あれは良かった。奇跡的に命中精度が高かった。短時間で大勢殺らにゃならんかったから、タマ送りに工夫したよ。一発撃つと、すぐ次の実包が用意されるんだが、弾倉なんてない。おまえさん、」と、黒コートを指差し、「俺の横に座って、ベルト状に繋がった実包を手に持って、送ってくれたな。一発、また一発。一人倒れ、もう一人倒れ、」

 「ちょっと待った。いつの話だい。」黒コートが遮る。「あれか? あの、テラスで遊んでる連中を、全部殺ったときのことか? だとしたら、お前の記憶は混乱してる。あんときゃ、俺が、やつらの逃げ場をなくすために、テラスと建物の間の出入り口の鍵を内側から掛けたじゃねえか。その出入り口のガラスは丈夫な防弾ガラスだった。だから、奴ら、ガラスを割って建物の中へ逃げ込むことができねえ。念のために防弾ガラスを使って、それがかえって裏目に出やがった、ざまあみろ、なんて、俺は喜んで、やつらが倒れて行くのをガラスの内側から見てたよ。だから、そん時、俺がお前の横に座ってタマ送りなんぞ、する訳はねえ。俺が横ん座ってタマ送りしたなあ、あれだろ、ガラス張りのエレベーターに乗ってる奴を殺った時だろう。」

 「いいや、違うよ。そりゃ違う。エレベーターの時は、一人殺ればよかったんだ。あんときゃ普通の狙撃用の銃を使った。」

 「そうだったか? なんか、違うような気がする。」

 「うん。とにかく、右往左往する連中を順々に倒すのは楽しかった。ゲームみたいなもんだったな。」

 「テラスの床が真っ白でな。それが、血とトマトジュースが混じって、訳分かんなくなってた。あいつら、カクテル飲んでたから、床が色とりどりに染まったって訳だ。」

 「全員が倒れた後の静けさが良かったな。闘いの後の静寂。おれが一番好きなものだ。」

 「闘いの後の報酬。おれは、そっちの方がいい。」

 「お前の心は殺伐としている。」

 「おれを満たすのは、金だけだ。」

 「ちょっと待った。そこまで。」と、女。「あんた達って、すっごく話がヘタ。聞いてて、ちっとも面白くない。」

 「だから、言ったろ。おもしろくねえって」と、黒コート。「聞いたって、面白くねえって。」

 「そうじゃなくって。」と女が言ったところで、再び電車が頭上を通過する。電車が走り去るのを待ってから、「分かるように、話してよ。いつ、誰から、どんな理由で、どんな依頼があって、どうやって殺して、どうなった、という具合に順々に。」

 「ああ、分かった、分かった。」と、トレンチコートの男。「んじゃあ、あの件は、どういう人からの依頼だったね?」

 「あの件って?」と、黒コート。

 「テラスだよ。」

 「ああ、あれは、女だった。」

 「どんな女だよ。」

 「目が2つで、鼻が1個で、鼻の穴が2つで、口があって、よくしゃべる女だ。」

 「おまえ、どついたろか。たいていの女は、目が2つあって、鼻が1つで、鼻の穴は2つあって、口もあるだろう。よくしゃべるかどうかは分からんが。」

 「じゃ、何を聞きてえんだよ。」

 「若い女かよ、ばあさんかよ。」

 「んん、若かった。すんごくセクシーでな。初めて会った瞬間、思わず、抱きしめてペロペロ舐めたくなった。」

 「やったんかい?」

 「なにを?」

 「だから、ペロペロ舐めたんかい。」

 「やるわけねえ。例えば、の話しだ。」

 「じゃあ今度から、おれに舐めさせろ。」

 「んで、あの女、どうしてあの連中を殺したがってたかってえと、」黒コート、上目遣いで頭上のレールを見る。「なんでだったかな。」

 「覚えてないのか。」

 「いや、今思い出す。あの女、連中にひどい目に遭わされてたんだな。好きな時に呼び出されて、行けば輪姦されて。なぶりものにされて。何度も妊娠して堕ろして。きっかけは借金だったな。奴らから、ちょっと金を借りたのがきっかけで、そこから地獄に落とされて。んで、新しい男ができたんで相談したら、その男が金を出すってんで、殺し屋を依頼しようってことになった。」

 「悲惨な話だな。」

 「どれも悲惨だよ。殺しの依頼者ってのは。」

 「そんな目に遭うくらいなら、おれにペロペロ舐められた方が良かった。」

 「しかし、あの女、結局、金持ちの男の愛人になれたんだから、いいじゃねえか。終わりよければ、すべて良し。」

 「終わり? 終わってないだろ。当時、若かったんなら、今でもご健在だ。その女は、今は、どこで、何してるんだ?」

 「んなこたあ、知らねえ。」

 「どうして、知らないんだよ。だからお前は駄目なんだよ。金持ちの愛人っていうなら、いい客じゃないか。どうせ、また、誰か殺してやりたい奴の一人や二人、現れそうなもんだ。仕事が終わった後でもだよ、ちゃんとコンタクトを取り続けてだな、ころあいを見計らって、どうです、誰か殺ってやりたい人はいませんか、て訊けば、仕事の一つでも転がって来るだろうが。どうして、ほっとくんだよ。そういう努力をしないから、仕事がないんじゃないか。真面目に営業しろよ。」

 「ばか言うんじゃねえ。殺しの御用聞きなんざ、聞いたことねえ。」

 「御用聞きとは、言ってない。営業努力をしろ、と言ってるんだ。」

 「ちょっと待った。そこまで。」と、女。「あんたたちって、なに話してんの? ちゃんと話聞かせてよ。面白い話、あるんでしょ?」

 「んん」と、トレンチコートの男。「んなら、あれなんか、どうだ? あの話なら面白い。ほら、あの、『喋る床柱』の話。」

 「なんだ? 日本昔ばなしか?」と、黒コート。

 「ちがうっ。ほらあの、床柱が喋るやつだ。」

 「だったら、日本昔ばなしじゃねえか。」

 「そうじゃない。会社の経営を巡って、若い社長と頑固親父が対立して、社長の依頼で頑固親父を殺ったやつ。」

 「それと、床柱が喋るってえのと、どういう関係でえ。」

 「それが、その話じゃないか。頑固親父の霊が床柱に現れて喋るやつだよ。」

 「怪談めいた話だな。だとすると、あの、ちょっと儲かったやつかな。あの件だとすると、えらい高額な報酬だったよ。確か、600万くらいだった。そういやあ、もう少しで、あと1200万稼げるところだったのに。惜しかった。」

 「そこが、お前の商売の下手くそなところなんだよ。安くしてやれば依頼されたかもしれないのに、お前が報酬をまけないから、あんな結果になった。まけてやれば、あと2件、仕事が入ったんだ。へたくそ。」

 「うるせえな。殺しを安売りするこたねえ。」

 「だからさ。」と、女。「その話、なんなのさ。中身を話してよ。」

 「うん。」と、トレンチコートの男。「あの会社、何やってたっけな。確か、」と言うと、電車が頭上を通過した。けたたましい轟音の中で、過去の記憶をほじくり出す。「確か、和菓子を作ってた老舗だったな。」

 「漬け物じゃなかったか?」と、黒コート。

 「いや、和菓子だ。」

 「違うだろう。老舗っていやあ、漬け物だ。いや、佃煮だったかも。」

 「どうでもいいさ、んなこと。とにかく、なんかの老舗だ。そこの若社長が、先代と対立した。」

 「愛人を持つべきか、ということでか?」

 「違う。確か、インターネットだったよ。若社長が、これからは、インターネットを利用した通販をやらなきゃならんと主張したのに、先代が、うちは店舗での対面販売以外は認めない、と言ったわけだ。」

 「ああ、思い出した。あの頑固親父か。」

 「だから、最初から頑固親父と言ってる。若社長にしてみれば、時代の当然の要請で、ネットにお店のサイトを開いて、通販で商品を売ろうと思い立ったわけだ。ところが、頑固親父が反対した。でも、なんで、反対したんだろうな?」

 「ふん、だから対面販売以外は駄目って理由だろう。それと、あの頑固親父め、インターネットというもの自体を理解してなかった。息子がホームページを開こう、と言ったのに対して、『あんな訳の分からんもんは、やらんでいい』、とほざいたそうだ。いいか、インターネットを、あんな訳の分からんもん、て言ってのけたんだぜ。今どき、おれたちみたいな年寄りだって、インターネットを、わけ分からん、とは言わんぜ。まったく、たいした親父だ。」

 「時代錯誤ってやつだな。でも、若社長は、社長なんだから、親父が反対しても、そんなの無視してやっちまえば良かったんだ。どうして、親父を殺すって話になったんだっけ?」

 「株を持ってたんだよ。頑固親父が会社の株の大半を握ってたんだ。だから、若社長としちゃあ、親父に逆らえねえってわけだ。ヘタすりゃ、取締役を解任されるかもしれねえ。それであの若社長、困り果ててたんだ。あの若社長は、元来真面目な性格で、真剣に会社のこと、従業員のことを考えてたと思うぜ。本人の言うには、会社の経営は、あまりうまく行っていない。商品は良いんだが、いかんせん、店舗販売だけでは量は売れない。会社の経営を立て直すには、通販の導入は必要だってえんだ。ここで時代の波に取り残されたら、会社は消滅してしまう。お店の暖簾と大勢の従業員の雇用を守るためには、ネットを使った通販は必要だと、そう真剣に考えてた。ところで、母親も名目的な取締役で、会社の株をそこそこ持ってた。母親の方は、息子の話を聞いて、『そうだね、時代に遅れちゃいけないね』などと言っていた。だから、若社長、親父さえ理解してくれれば、自分の考えの通りにできると思ったわけだな。ところが、いくら理を尽くして説得しても、親父は首を縦に振らない。困り果てた結果、親父の殺害を決意したってえ訳だ。『あの頑固親父さえいなくなれば、すべてはうまく行く。』ってね。」

 「殺しの依頼者の動機って、いつも、そうだな。『あいつさえ、いなければ。すべてはうまくいく。』 ふふん。どうだか。」

 「まあ、そんな訳で、依頼があった。俺は、ちょっと吹っかけてやったよ。あの当時、殺しの相場は一件300万円程度だったんだが、600万円って言ったら、やってくれってさ。」

 「俺の仕事自体は、さして難しくなかった。強盗に殺られたように見せかけてくれ、という単純なものだったな。だから、珍しくもない散弾銃をぶっぱなしてやった。あの親父、頑固者のくせに愛人を囲っていやがったから、愛人のマンションから出て来たところを狙って、一発で仕留めた。そういや、あの愛人も若くて可愛かったな。ぺろぺろ舐めとくべきだった。」

 「確かに事は簡単に済んだ。ところが、その後に問題が起こっちまった。首尾よく頑固親父を亡き者にした若社長だが、ちょいと油断したんだな。母親と相続の協議をする段になって、若社長、親父が持ってた株を全部相続したい、と言ったんだが、母親が、自分に相続させて欲しい、と主張した。結局、2分の1ずつ相続することに決まったんだが、そうするってえと、もともと母親が持っていた株と合わせて、母親が過半数の株を握る結果となった。息子は、ほんのわずかしか株を持たされてなかったんだな。でも、若社長、母親は自分の経営方針に反対しているわけじゃねえから大丈夫、と思ったわけだ。ところが、そうは、いかなかった。母親は、どうしたわけか、息子が旦那を殺したことに勘付いた。その理由は未だもって分からねえが、なんかの勘が働いたんだろうか、とにかく、母親が、ある日、息子にこう言った。『あんた、あの人と、同じことをした。』息子は驚いて、その意味を問うた。すると、母親曰く、『血は争えないね。あんたは、自分の父親と同じことをしたんだよ。あんたの父親は、昔、自分の父親、つまりあんたのおじいさんを殺したんだよ。』などと言う。若社長、驚いて訳を聞くと、母親の言うには、あの頑固親父、実は、若い時分に、創業者の父親と対立した。それは確か、個人事業を株式会社にするかどうか、つまり法人成りするかどうかで対立したってえんだな。法人成りなんて当たり前のことで、どうして創業者が反対したのか理解に苦しむってえもんだが、なんでも、その創業者、妙な偏見にとらわれていて、法人成りってえのは、税金逃れのためにするもんだ、とかなんとか訳の分からんことを言って反対したらしい。先代は、創業者のあまりの頑迷ぶりに手を焼いたそうだが、とうとう説得できないと悟ると」とまで言うと、黒コートは自分の首を右手で切断する動作をして見せて、「殺っちまったらしい。それも同じ手口だ。殺し屋を雇った訳じゃなく、自ら手を下したそうだが、強盗に殺られたように見せかけて、うまく殺っちまったそうだ。それで、株式会社になれたって訳だ。その過去を、妻である母親はずっと隠して来た。そりゃ、人に言えんわな。息子にも隠して来た。ところが、息子が夫を殺したと知り、その事実を告白して、『あんたも、同じことをした。』と、責めたんだ。」

 「因果応報って話じゃないのか。自分の親にしたことが、息子から自分に返ってきた。」

 「そういう考え方もできるってもんだが、その母親はそうは考えなかった。まるで気が狂ったみてえに、息子を責め始めたんだ。以前はインターネットを利用した通販にも賛成してたってえのに、突然、反対と言い出した。それだけじゃねえ。あらゆることについて、息子の経営方針に反対し始めたんだ。そのうえ、最古参の従業員を抱き込んで、息子は会社の伝統を破壊しようとしている、とかなんとか言って洗脳して、従業員にもなにかと若社長に逆らうように仕向けたんだ。これには、若社長、参っちまった。そこで、若社長から新しい殺しの依頼があった。今度は母親と最古参の従業員を殺ってほしい、という訳だ。そこで、俺は、一人につき600万円、ふたり合計1200万円、と請求したってわけさ。すると、そんな大金はねえってほざいた。びた一文まからん、と言ったら、ちょっと待ってくれ、と言うんで、いつまでも待つぜって言ってやった。」

 「だから、まけてやりゃ、良かったんだ。」

 「んんにゃ、まけられねえ。安売りはせんよ。ところが、そしたら、しばらくして、若社長が会いたいってえから、会ったら、妙な話をしやがったんだな。あいつ、すっかり痩せて、なんか生気がなくなっていた。急に老けた感じだったな。」

 「その妙な話ってのが、床柱のことだな。」

 「そ。あいつの家は、創業者が建てたもので、純和風の古い家だった。座敷に床の間があってね。立派な床柱があったんだ。俺も見たことあるんだが、立派な磨き丸太のやつだ。ある日、若社長が」と言うと、けたたましい轟音を立てて列車が通過した。黒コート、うるせえな、という顰め面で上を睨む。音が止むと、「若社長が、ある日、何の気なしに座敷に居ると、どこかで妙な声がする。聞き覚えのある声だ。どこからするかと見回すと、どうも床柱あたりから聞こえて来るみてえだ。そこで、床柱に近付いてみると、確かに、床柱が声を発してるんだ。その声は間違いなく父親のものだった。床柱に耳を近づけてみると、そいつは、はっきりと、『俺と同じことをした』と言ったんだ。若社長、驚いて飛びのいた。すると、床柱は、いよいよでかい声で、『俺と同じことをした』と、怒鳴る。若社長は、ころがるようにして座敷を出たが、その後、その声が耳に付いて離れねえっていうんだ。んで、俺は訊いてやった。どうするんだ? 金はできたのか?」

 「床柱が喋るって話を聞いた後に、そう訊くか?」

 「そしたら、あいつは、なんとかする、と弱々しく言うと、よろよろと立ち去ったよ。それから、3日後だ。あいつの家が火事になって、若社長が焼死体で見つかった。原因は放火だ。若社長が自分で火を付けたんだな。確か、母親は無事だったよ。うまく逃げたらしいな。」

 「で、会社は、どうなった?」

 「知るか、そんなこと。」

 「しかし、愚劣な話だ。」

 「あのさあ」と、女。「もっと面白い話ない? 殺しの手口が珍しいのとか。」

 「殺しの手口が珍しい?」と、トレンチコートの男。「何が、いいかな。」

 「あれなんか、どうだ。」と、黒コート。「ほら、あの、ピタラスイッチっての。」

 「なんだ、それ?」

 「だから、あったろう。あの、面白い仕掛けのやつ。ピタラとか、ピタララスイッチとか言うやつ。」

 「もしかして、ピタゴラ装置か。」

 「そう、その、それだ。」

 「悪趣味だった。」

 「いや、面白かった。大装置だぞ。苦労して作った。依頼者がどうしても、て言うんで、わざわざ大仕掛けを作ったわけだ。あれは永遠に忘れねえな。」

 「認知症にならなきゃな。」

 「二人で苦労して作ったろ。覚えてんだろ。」

 「ああ。ばかばかしい仕掛けだったよ。あの装置は、標的を椅子に座らせたなら、後は何もしなくて良い。俺の腕なんか必要ない。」

 「自動的だもんな。まず、標的を、確か中年のおっさんだったな。現場の倉庫に呼び出して、まあ、座れや、なんて言ってな。死の椅子に座らせる。そして、目の前に置かれたボーリングの玉みたいな球に、好きなように顔を描け、て言うわけだ。やっこさん、訳が分からず、なんで? て訊くけどな。いいから描けってしか言わない。向こうは、椅子の周囲に組み上げられた意味不明な装置を見回して、なんとなく不穏な雰囲気を感じ取ってな、だいぶ脅えていたから、理由も分からずに大人しく球を手に取って、テーブルに置かれたペンを持つ。どんな顔を描けば良い? なんて訊きやがるから、どんなんでも良い、好きに描け、て言うのさ。そしたら、あいつ、滑稽な顔を描いたもんだ。」

 「あの、」と女。「なんの話? 顔って、なに?」

 「それが、こいつの悪趣味なところでな。」とトレンチコートの男。「いわば殺人ピタゴラ装置ともいうべきものを作ったんだが、最後にオチがあってな。聞いてりゃ、分かる。」

 「うん。そいでな、そいつん前には、その球を転がせるレールがあるんだ。顔が描けたら、球をそこへ置けってえんだ。あいつ、素直に置きやがった。その瞬間、やつの運命が決まった。球が転がる。ころころとな。レールの途中には、様々な仕掛けがあって、面白い動きをするんだぜ。球はただ転がるだけじゃねえ。レールは所々途切れていて、時々、ぼこっと落ちたりする。落ちたら、すぐに別のレールの上を転がり始める。仕掛けってえのは、結局、球の進行を維持するためのものだがね。単純にレールを転がせばいいものを、わざと複雑にして、見て楽しむようにしてあるんだ。一番の見物は、低い所まで落ちて行った球を倉庫の天井近くまで持ち上げるところだな。球の進行に従って動き出した装置が、球を持ち上げるんだ。球がぶつかってフックが外れる。錘の重さで装置が動き出すと、球はいいタイミングで装置のカゴに入る。ギリギリギリ、てな、良い音がしたもんだ。球が徐々に持ち上げられて、再び高所にあるレールに落とされる。螺旋を描くレールの上を球が転がる。これがクライマックスだ。さっき、仕掛けってえのは球の進行を維持するためのもの、と言ったが、実はもう1つの機能があってな。それは、まわりくどい装置の連動を経て、最後に、椅子に座っている人物の首を目がけて、巨大な刀が水平に、ぶんって、振り回されるんだ。勢い良く、刃が水平に振られるように作るのが大変だった。試行錯誤したもんだよ。でも、うまくいったな。スコーン、と、刀を止めているストッパーが外れる音が倉庫内に響いたってえと、やつの首に金属の光が走った。肉と骨の切れる独特の音がして、生首が床に落ちた。ゴテッていったな。そこへ、螺旋のレールから離れた球が落ちて来るってわけだ。椅子に座ったまま、頭部を失った死体の上に、ちょうど頭のあった位置に、球が落ちて来る。ぼてっと落ちた球が、犠牲者の失われた顔の代わりに乗っかる、てえ寸法だ。だから先に顔を描かせた。本人に描かせた顔が、本来の顔に取って代わるってえ話さ。」

 「あの顔」と、トレンチコートの男。「ずれてたよ。なんか、おかしな方向を向いてた。ちゃんと前を向いてなかったよ。」

 「うるせえな。球の回転まで計算できねえんだから、しょうがねえだろ。顔が下向いて落ちて来なかっただけ、ましだろうが。」

 「ちょっと面白かった。」と女が言うと、頭上をけたたましく列車が走る。「ほかに、なんか面白い話、ない?」

 「もう、いいだろ。」と、トレンチコートの男。「つまらんぜ。仕事の話なんて。」

 「おれは、もう帰りたい。」と、黒コート。立ち上がりながら、腰を両手でさする。咳払いして、とっととガード下から出て行く。

 「あんたも、帰るの?」と、女。トレンチコートの男が、「ああ」と答えると、女は歩きかけて振り向き、「ねえ」

 「ん?」

 「あたしのこと、ぺろぺろ舐めたい?」

 「ん? うん。んん。まあな。」

 「あほ。」女は言い放つと、さっさと足早に去った。



6.



 ガード下を離れ、トレンチコートの男はアトリエに向かった。

 他に行く所もないから、仕方がない。

 小さな電球に照らされた暗い階段を、大儀そうに上る。木の軋む音。ほのかに鼻に付く黴の臭い。

 鍵を開けてドアを開く。外から聞こえる都会の騒音以外、なにも聞こえない。部屋に入り、後ろ手にドアを閉めて鍵をかける。その金属音が、室内に妙に響いたものだ。

 床が汚い気がして、靴のまま上がる。

 孤独には慣れていたつもりなのに、自分以外に誰もいない空間に帰ることが、こんなにも落ちこんだ気分にさせる、ということに今さら驚く。

 窓に寄る。向かいの建物は、やはり無人だ。窓の下の路地は狭く、通る人も無い。見るほどのものもないので、ベッドまで行く。靴を脱いで、服のまま寝転ぶ。

 そのまま眠りについた。



7.



 翌朝、面積の小さな窓から射し込む陽の光で目覚める。

 ベッドの上で起き上がり、しばらく茫然。血圧が正常に戻ってから、立ち上がった。

 さて、どうしよう。何もすることが無いな。

 こんなとき、会いたい人物に会うといい。

 部屋の隅の白い陶器の洗面台まで行き、簡単に口を漱ぐ。古びてまだら模様になった鏡を見る。ひどく見にくいが、一応、顔は映る。あまり多くはない髪の毛を、手のひらで撫で付けて、寝起きじゃないように装う。

 さて、出掛けよう。


 約1時間後、トレンチコートの男は、女のマンションのドアの前に立った。

 ドアをノックする。

 返事がない。

 再び、ノックする。

 物音もしない。

 居ないのかな、と踵を返そうとした時、中から

 「ふぁあい。」と、低い声。

 そこで、さらにノック。

 「どぁれ?」不機嫌そうな声だ。

 「おれだ。」

 「おれ様?」

 「うん。」

 しばらくの静寂。

 突然、鍵がはずれる音がして、女がチェーンを付けたままドアを開ける。目が腫れぼったい。寝間着なのか部屋着なのか、ぶかぶかの、面妖な模様のある、なんとも名状し難い奇妙な服を着ている。

 「来たの?」と、女。

 「うん。」

 「何しに?」

 「一緒に散歩でもしようと。」

 「なんで?」

 「気が晴れる。」

 「ふうん。」女は、考えてから、「そこで、待ってて。」

 そう言ってドアが閉じられてから、トレンチコートの男は、ずいぶん待たされた。

 えらく待たされた。とても待たされた。軽く20分はたった。

 ゴン、ゴン、と、再度のノック。

 「じゃかあしい。」と、女の声。仕方なく、無言で待つ。

 さらに15分ほど経過したころ、ドアが開いた。

 「おまた。」と言って出て来た女は、昨日と同じ格好をしている。顔は、ほとんどすっぴんに近い。じゃあ、なんでこんなに待たせたんだ?

 トレンチコートの男が先に立って歩く。エレベーターの前に立つと、女はさっさと通り過ぎて行く。

 「おい。」

 女は、「エレベーター、嫌い。」と言って階段へ。

 「4階から階段で降りるのは、きついな。」仕方なく、ついて行く。息を切らして1階まで来ると「いつも、こうなのか?」

 「何が?」

 「いつも階段かよ。」

 「うん。閉所恐怖症なの。子供のころ、閉じ込められたことがあって。」

 「トラウマかい。」

 ふたり、前後に連れ立って歩く。

 「でも、どこへ?」と、女。

 「考えてない。どこへ行きたい?」

 「別に。どこへも。」

 「なるべく寂しい所がいい。人のいないところ。町中でも、閑散としている所、知らんか?」

 「なぜ?」

 「人の大勢いる所は嫌いだ。」

 「ふうん。」

 ふたり、無言で歩き続けた。

 低い建物が並ぶオフィス街。既に通勤時間は過ぎて、人影はまばら。起伏のある曲がりくねった道を行く。時々猫が横切る。

 自動車の音。誰かが何かを叩く音。ふたりの足音。

 黙々と歩く。

 だしぬけに女が「地下鉄は、平気?」

 「なんで?」

 「人が大勢いる所は、だめでしょ?」

 「この時間帯なら、そう混んでないな。」

 「じゃあ。」と言って、女はトレンチコートの男の前に出る。

 表通りへ。少し行くと地下鉄乗り場がある。

 「どこへ、行くんだ?」

 「どこってほどでも、ないところ。」

 十数分、地下鉄の列車に揺られる。ある駅で、女が降りて、トレンチコートの男も続く。改札を出て、長い通路、長い階段、再び通路、そして階段を経て地上へ。

 殺伐とした、コンクリートだけの風景。港に近い工場地帯。ほのかにタールのような臭いが漂う。リズミカルな機械音。何かを削る金属音。

 ふたり、無言で歩く。

 長い灰色の塀に沿って行く。小さな運河を渡る。錆びた金網のフェンスに囲まれた広大な工場。大型車両がカーボン臭い排気を吐きながら重々しく走る。

 巨大な倉庫の立ち並ぶ埠頭。

 関係者が立ち入っていいのか悪いのか、曖昧な場所へ、女は歩いて行く。少し小高くなった所へ。工場への引き込み線のレールが見える。

 「ふう。」と言って、女は、ころがっている瓦礫の上に座る。

 トレンチコートの男も、すぐ近くの瓦礫に座る。

 しばらく、ふたり、無言のまま。

 「なあ」と、トレンチコートの男。「仕事してないって、言ってただろ。どうやって食ってるんだ?」

 「貯金、使ってる。」

 「貯金は、たんまりあるのか?」

 「ないよ。」

 「無いよって、まだ、あるんだろ?」

 「そろそろ、無くなる。」

 「無くなったら、どうする。」

 「餓死する。」

 しばし、沈黙。

 「やめろ。」と、トレンチコートの男。

 「なにを?」

 「死ぬのは、やめろ。」

 「なんで?」

 「とにかく、死ぬのは、よせ。」

 「死ぬのを止めるのは、生きるのを止めるより、難しい。」

 「確かに、生きるのは簡単じゃない。」トレンチコートの男は、片足で地面の土をぐりぐりひねくりまわす。「殺し屋風情が、こんなことを言うのは生意気かもしれんが」

 「生意気? その歳で? じいさんが、なに言っても、生意気はないんじゃない?」

 「んん。んなら言うけどな。俺は不思議に思うよ。俺たちが住んでいるこの日本という国は、先進国だよな。アメリカより、はるかに歴史が古い。人間らしい文化的生活を始めてから、ヨーッロパよりもずっと長い歴史を持つ。文化的な先進国のはずだ。なのに、この国で生きるのは難しい。なんでだ? 先進国なら、楽に生きられていいはずだが。なにも豪邸に住んで、高級車乗り回して、毎日うまいもん食って、有名なシャトーもののワインを飲んで暮らしたいって訳じゃない。単に生きる、ってこと。そんなことが簡単じゃない。なんでだ? 働こうと思えば普通に働けて、普通に働いてりゃ、楽に生きていけるっていうのが文化的な先進国ってもんじゃないのか? どうなってんだ? よく分からんな。」

 「お金のためなの?」

 「なにが?」

 「殺し屋。」

 「そうだよ。他になにがある?」

 「人を殺すのが楽しいとかは、ないの?」

 「どっちかっていえば、殺しは、好きじゃない。」

 「なんで?」

 「人を殺すと、死体が残る。死体は無様だ。いやだな。あれは。」

 「あ、そ。」

 再び、沈黙。

 「ねえ」と、女。「どうして、私と散歩を?」

 「気晴らしになる。」

 「ならないよ。」

 「なる。」

 「散歩なんて、『同一空間における同一事物の移動』にすぎない。」

 「なんじゃ、それ。」

 「萩原朔太郎、知らない?」

 「知らん。知り合いか?」

 「んなわけないでしょ。有名な詩人だよ。」

 「詩には縁がない。人の死には縁があるが。」

 「もしかして、それ」と、女。「腹を抱えて笑っていい?」

 「やめてくれ。」

 「退屈。」

 「移動が問題じゃない。歩くという運動に意味がある。肉体を動かすことで、気が晴れる。」

 「部屋の中で歩いたら?」

 「それじゃあまりに退屈だ。」

 「どこへ行ったって、珍しいものなんかに出会えないよ。」

 「目に見えるものしか考えてないから、そう言う。人には嗅覚というものがある。どの町にも固有の匂いがある。微妙に違う。いろいろな空気を吸う。そこに楽しみがある。」

 「血の匂いの町って、ある?」

 「すぐ、死を連想する。」

 「あんたが、人の死に縁があるっていうから。」

 「なあ。」

 「あ?」

 「やめろよ。」

 「なにを。」

 「死ぬのを。」

 「好きにさせてよ。」

 「やめろ。」

 「うるさい。」

 「生きな。」

 「なんで。」

 「死んで欲しくない。」

 「あんたにそう言われても、全然うれしくない。」

 「そうか。」

 「もう、帰ろっと。」女は、立ち上がる。振り返り、「ついて来ないで。あんたといると、疲れる。」ダッシュで走って行った。

 「ど」こへ行くのか、と訊こうとしたが、既にかなりの距離のところへ行ってしまったので、そのまま追わなかった。



8.


 トレンチコートの男は、その日の午後、薄暗い、廃業直前という雰囲気の喫茶店で遅いランチを取っていた。

 携帯が震える。出ると、黒コートの声で「生きてたか。」

 「死んで欲しいか?」

 「いや。もう少し、生きててくれ。いい話があるんだ。久しぶりに、でかい仕事が入りそうだ。詳しいことが分かったら、また連絡する。」

 「今この時点で分かっていることは、それだけか。」

 「んん。なんか、もんくあるか?」

 「んなら、かけてくるなよ。」

 「いや、ほんとに可能性大なんだ。ひさびさの儲け話だ。期待しててくれ。」

 「あ、そ。」とだけ言って、電話を切る。近ごろは、この種の期待が裏切られなかったことはない。

 

 鬱の日。

 長い午後の時間を、なにもせずに過ごす。

 黴臭いアトリエに戻る気にもならない。だから、町中を歩く。無目的に、ただ歩く。あの女の言う通りだ。同一空間における同一事物の移動にすぎない。実に退屈だ。車があれば、いっそ遠くへ行くんだが。だいぶ前に売ってしまった。いくらにも、ならなかったな。売らなきゃ、よかった。

 へとへとだよ。

 歩き疲れる度に喫茶店に入る。コーヒーで腹がゴボゴボだ。

 日が沈む。とっとと沈め。夕食を食う気にもならない。しかし、食わずに寝る訳にもいくまい。

 なるべく静かそうな、客の少なそうなダイニングバーを探す。だいたいその手の店は、脇道の奥まった所にある。

 あった。

 洋風の店の作りだから、ビールと簡単な食事にありつけるだろう。下手な居酒屋より安く済みそう。

 誤算。人が多い。しかも若いのがいっぱい。にぎやか。やめようか。でも、ドアを開けて、足を踏み込んじゃった。このまま出て行ったら、怪しい人だ。仕方ない。幸いカウンター席が空いてるから、独りでも気楽にいられるだろう。

 カウンターの端に座る。生ビールを飲む。飲んでしまってから、珍しいベルギーのビールがあることに気付く。それも飲む。そして、若い割に、しっかりした感じの女性店員に、良いつまみになる料理はないかと尋ねる。なんとかの炭焼きを勧められる。食す。うまい。女性店員に、ワインなんぞ、いかかでしょう、などとそそのかされる。ボトル1本はきついよ、と答えると、グラスでお出しできます、などと言う。それなら、と飲む。これも、いける。調子に乗って飲む。ちょっと他のワインも試してみたい、などと言ってしまう。結局、ボトル1本分は飲むことになる。後はよく分からん。いいかげん、飲んだり食ったりして、そろそろ会計を、という段になり、料金を聞いて、はたと重大な事実に思いが至る。金が、無かった。小銭程度しかない。

 黒コートの野郎、素直に金を渡さないから、こういうことになる。さて、どうするか。考える余地はない。

 黒コートに電話する。こういう時に、出やがりゃしないんだよな、あいつは。ったく、こういう時に限って、と苛々していると、「なんだ。」と、黒コートの渋い声。

 「俺は、ある店にいる。すぐ金を持って来てくれ。そうしてくれないと、無銭飲食になる。頼む。」

 「つけで飲め。」

 「初めて入った店だよ。場所を教えるから、すぐに来い。すぐだぞ。」

 「おめえって、ほんとに。」と、ぐずぐず言い出したが、相手もこっちの所持金のない状況を思い出して、ようやく危機感を共有する。結局、「すぐ行くから、待ってろ。」

 電話のやりとりは、店員に聞かれている。店員、「大丈夫ですか?」

 「逃げやせん。じきに金が来る。」

 ぬるくなったビールを飲みながら待った。

 40分後、黒コート、到着。「日々の食費ぐらい、持っててほしいな。」来るなり、もんくを言う。

 「持たせて欲しいな。」

 「ここは俺が払う。」

 「なんか、一杯飲め。でかい仕事が入るんだろ。」

 「その話は、あとだ。」

 結局、ふたりで深夜まで飲む。

 どうやって帰ったのかな。弱くなったもんだ。店を出た時と、アトリエまで帰る道中の記憶がない。

 もう朝だ。また服を着たまま寝ている。寝間着になるものを何か、買わなきゃならんな。

 それはそうと、問題は解決したんだろうか。内ポケットに手を入れて、財布を取り出す。中を見ると、万円札が4枚。微妙だ。黒コートがくれたのだろうが、まさに取りあえずの金でしかない。自分で、なんとかしなけりゃならんというわけだな。

 もう一度、寝直そう。



9.



 午後。

 トレンチコートの男は、再び女の部屋のドアの前に立つ。

 ノックする。

 数分後、女がドアを開け、「来ると、思った。」

 「そう?」

 「上がんなさいよ。」と、女が言う。

 「いいのか?」

 「ん。暴れないでね。」

 靴を脱いで部屋に入る。狭い。全体で6畳くらいだが、バスルームが部屋の中に張り出していて、使える空間は4畳半程度。シングルベッドが部屋の大半を占めていて、ファンシーケース、本棚、戸棚、小さなテーブル(座卓、というべきか)、訳の分からない大きな箱、その他こまごまとした物たちで、足の踏み場もない。

 「こんな所にいて、平気か?」

 「て?」

 「閉所恐怖症だろ?」

 「帰ったら、すぐ窓を開ける。」

 「なるほど。」

 「座んなよ。」

 と言われ、様々な物を掻き分けて座るスペースを作る。椅子はない。床に直に座る。

 女は、相変わらずゆったりした、面妖な服を着ている。なにやら、ごそごそと、本やら書類やらの積み重なったあたりから、一枚の紙を取り出すと、「ほれ」と、テーブルの上に置く。地図の写しのようだが、手書きでうねうねと太い線が書き込んである。

 「これは?」

 「人に、あまり遭わずに歩ける町の散歩コース。」

 信じ難い、とトレンチコートの男は思う。他者が自分のために何かする、ということがあり得るとは。「調べてくれたのか?」

 「うん。」

 「俺のために?」

 「まあね。」

 「そうか。」

 女もトレンチコートの男とテーブルを挟んで座る。

 下の道路を行く車の音以外、特に物音もない。

 「今日も、散歩する?」と、女。

 「いや、散歩はもういい。それより、俺は金を稼がにゃならん。経済的危機にあるんでね。」

 「誰か、殺すの?」

 「殺しの仕事が無い。なにか、他の事をせんと。」

 「なにする?」

 「何がいいと思う?」

 「焼きいも屋さん。」

 トレンチコートの男は、女を見つめる。

 「二度目だ。」

 「なにが?」

 「焼きいも屋をやれ、と言われたのが。俺は、焼きいも屋に向いているのか?」

 「知らない。」

 「芋は、やだな。」

 「んじゃ、他のもの、売れば?」

 「俺と契約しないか?」

 「は?」

 「モデルになれ。」

 「私は、背が低いから、無理。」

 「違う。ファッションモデルじゃない。絵のモデルだ。」

 「絵?」

 「うん。幸い、俺には画家の知り合いがいる。俺はそいつのアトリエに住んでるんだ。俺がその画家に君を売り込む。どうだ。」

 「絵のモデルって、なにするの? ぼうっと座ってりゃいいの? 裸になるの?」

 「そりゃ、知らんよ。画家次第だろう。裸を求められたら、嫌か?」

 「別にいいけど。儲かるの?」

 「実は、それも知らん。モデル料の相場なんて、俺は知らんのだ。でも、職業として成立しているんだから、そこそこ儲かるんだろう。」

 「面白いかな。つまんなそうだな。でも、やったことないから、やってみても、いいかな。」

 「やってみな。」トレンチコートの男は、早速、黒コートに電話をかける。「出ない。」

 「なにか面白いこと、ないかな?」と、女。

 「俺に訊くな。」

 「じゃ、誰に訊こうかな?」

 「それも俺に訊くな。」

 「薬とか、扱ってない?」

 「何の薬だ?」

 「トリップする薬。LSDとか、そういうの。」

 「その種の薬か。持ったこともない。」

 「あんた、秘密の裏社会とかに通じてるんでしょ。」

 「秘密の裏社会? なんじゃ、それ。」

 「私たちの知らない世界。未知の世界。」

 「そんなもん、ないよ。俺はただ殺しの依頼を受ける。それで殺す。それだけ。依頼者は普通の人たち。別に秘密の世界なんぞ、ありゃしない。」

 「つまんない。」

 「仕方ない。」

 「どこか、この世とは違う別の世界、行きたい。」

 「行けるなら、誰でも行ってるだろうな。夢見るな。」

 「行っちゃった人もいるかも。帰って来ないから、知らないだけかも。別の世界がないなら、なんか大惨事が起こらないかな。隕石の衝突とか、地上の火山がみんな一斉に噴火するとか。でも、分かってる。どうせ私の生きているうちに、この世にドラマチックなことなんか起こらないってこと。」

 「そうさな。なんていうか、その、この状況を打破するものが必要かもしれんな。突破口というか、なにか、そういうもの。」

 「突破口、探して。」

 「俺に言うなよ。」そう言いながら、考える。そうか、突破口か。この女のために、なにか「突破口」になるものを、見つけられたら。

 携帯が震えた。黒コートからの電話。

 「仕事の話だ。ちょっと来い。」

 「例の話か?」

 「そうだ。」

 「すぐ行く。」携帯を納めて「行かにゃならん。」

 「行ってらっしゃい。」

 「電話番号、教えてくれんか。」

 女は、一瞬のためらいの後、「あんたの携帯貸して。」手渡すと、携帯どうしをひっ付けて、操作する。

 女の番号が登録された携帯を受取り、「君の名前は? なんて名で登録した?」

 「死にたい人。」



10.


 黒コートは、自ら吐き出した煙草の煙に巻かれながら待っていた。

 オープンテラスのある店なのに、敢えて暗い店内の隅っこの席にいる。トレンチコートの男が店内に入るや、「ここじゃ、まずい。」と、店を出た。

 ふたり、曇天の中に沈む灰色の町を、しばらく歩く。

 黒コートは、小さな古い貸しビルの開放されたままになっている入口から入り、階段を上る。2階は空き部屋。トレンチコートの男も続いて入ると、部屋の中には薄汚い丸テーブルと安っぽい椅子が2脚。他には何もない。黒コートは椅子の汚れに構わず座り、トレンチコートの男は手で埃をはらってから座った。

 「悪くねえ話だ。」黒コートが切り出す。「俺は800万ふっかけてやったが、それで頼むって言いやがるんだ。一人殺って800だぞ。」

 「うそ八百じゃないのか?」

 「冗談言うねえ。そいつは本気だ。そいつは愛人を殺ってほしいんだ。」

 「愛人殺しに、800払う奴はいない。」

 「それが、いるんだ。世間知らずな奴でな。世間の評判じゃ、腕の良い外科医だそうだ。」

 「腕の良い外科医なら、自分で殺せるだろ。」

 「ばか言うんじゃねえ。外科医だからって人を殺せるってな理屈はねえぜ。とにかく、そいつは、女に死んでほしがってる。」

 「理由は?」

 「重荷になってるんだそうだ。その女の要求がエスカレートしていて、このままじゃそのうち金に困ろうってんだ。」

 「別れりゃ、いいだろうが。」

 「そう簡単にいくなら、苦労はねえ。女てのは、ほんと厄介なもんだ。男が本気で女に死んで欲しいと思うのは、あり得る話だぜ。」

 「そんなもんかね。でも、たかが愛人一人に800はないだろ。」

 「世間知らずなんだよ。だいたい医者ってのは、世間知らずで、金銭感覚狂ってるのが多い。」

 「そこに付け込んだってわけか。」

 「可愛くねえ言い方しやがる。そこが俺の腕じゃねえか。あなたには、なんの御心配もおかけしません。悠々と普段通りにしていてください。後は私どもが、あなたの知らないうちに厄介者をこの世から消してさしあげますってなもんだ。」

 「やな稼業だよ。」

 「女の顔の分かるものとか、立ち寄る場所、資料は後日渡す。しっかり前金ももらった。」

 「ほんとか。いくらだ。」

 「300。」

 「嘘だろ。300?」

 「嘘じゃねえ。受け取った。」

 「ほんと300か。信じられん。」

 「いいカモだろ?」

 「まったく。じゃあ、くれ。」

 「は?」

 「くれよ。金。」

 「え?」

 「え、じゃないだろ。金くれ。」

 「そうはいかねえ。」

 「なんでだよ。」

 「道具を買うんだよ。」

 「道具って、女ひとりに、んなもん要るのか。」

 「女が銃で殺されりゃ、どっかのやくざの仕業と思われる。この殺しを外科医と結び付ける発想は誰もしねえ。」

 「銃を使うってのか。」

 「ああ。」

 「銃を使う仕事は、久しぶりだ。」

 「もう、入手の手はずは付いてる。手回し良いだろ。」

 「嬉しい。銃はいい。アメリカ製のリボルバーを用意してくれ。」

 「ドイツ製を用意する。」

 「リボルバーの方が、使い勝手がいい。」

 「だめだ。オートマチックを使え。」

 「なら、ベルギー製が、いい。」

 「ブローニングか。なんで?」

 「見た目にかっこいい。」

 「見た目で選ぶな。」

 「おれに似合ってる。」

 「ドイツ製が手に入る。それでやれ。」

 「なら、シグ・ザウエルにしてくれ。」

 「ヘックラーが手に入る。」

 「シグ・ザウエルがいいよ。」

 「贅沢言うな。」

 「ヘックラーか。あの、ポリマーフレームの軽いやつか?」

 「そうだ。ポリマーフレームの軽いやつだ。」

 「ところで」と、トレンチコートの男は声を低めて、「ポリマーフレームって、どういう意味だ?」

 「なんだよ。知らずに言ってたのか。」

 「うん。」

 「そうか。」

 黒コートは、足の近くの埃の中を、小さな虫がもそもそ這いずっているのを見つめる。

 「おい。」と、トレンチコートの男。

 「ああ?」

 「だから、何なんだよ。」

 「何が?」

 「だからさ、ポリマーフレームって、なんなんだよ。」

 「実は、俺も知らねえ。」

 「なんだ、お前も知らずに言ってたのか。」

 「ああ。」

 「あほくさ。」

 「そんなもんさ。資料が揃い次第、また連絡するぜ。」

 「ところで、金は?」

 「なんだ?」

 「金くれって。」

 「だから、銃を買うって言ったじゃねえか。おめえ、アルツハイマーか。」

 「銃の入手に300も要らないだろが。少し俺に渡す余裕はあるだろ。」

 「この前、やったじゃねえか。」

 「ありがとう。でも、たった4万じゃ、やっていけない。一文無しなんだぜ。くれよ。」

 「わあったよ。いくら欲しい。」

 「100でいい。」

 「100円?」

 「殺したろうか。」

 「10で、どうだ?」

 「よく、そういうケッチイことが言えるな。せめて30は出すだろ。」

 「じゃ、20だ。今日は持ってねえ。今度渡す。」

 「20なんて、じき無くなるよ。」

 「無くなったら、また渡す。いいじゃねえか。信用しろい。」

 「じゃ、取り敢えず20だ。ところで、話は変わるんだが。」

 「なんでえ?」

 「あの画家の野郎だ。」

 「画家? 誰のこったい?」

 「俺の大家だよ。といっても家賃は払ってないから、大家でもないが。俺の住んでるアトリエの。」

 「ああ、あれか。あれが、どうしたい。」

 「あの画家に絵を描かせたい。女の絵をね。彼女をモデルに。」

 「は? 何の話だ?」

 「彼女をモデルとして働かせたい。」

 「彼女って」と、少し考える。「誰だ?」

 「ほら、つい最近まで殺しのターゲットだったやつ。知ってるだろ。」

 「あの女か。いったい、なんの義理で。」

 「義理もへったくれもない。あの女を働かせたい。」

 「どうして?」

 「理由はどうでもいい。モデルをやる気になってる。やらせたい。実は、もう女に約束したんだ。モデルにしてやるって。あの画家に描かせるってな。」

 「は? ばかか、おめえ。んで、それを俺に言ってどうしろってんだ?」

 「画家と話を付けてくれ。もちろん、タダじゃないぜ。プロのモデルとして扱えってね。」

 「んなこと、俺、知らねえよ。」

 「そう言うな。話付けてくれ。そうじゃないと、俺の顔が立たない。」

 「んな、ばかな。ああ、そうかい、そうなのかい。ばかばかしいが、しょうがねえ。んじゃあ、あの絵描き野郎には俺から話しとこう。」

 「ありがたい。」

 「とにかく、連絡を待て。」

 ふたり、外へ出ると、小雨がぱらつき出した。傘を持たないふたりは、お互い挨拶もせず、てんでに立ち去った。


 その夜。トレンチコートの男は、小さな問題に取り組んだ。「小さな」というのは、客観的に見てのことで、本人は大いに悩んだ。

 所持金は4万円。近いうちに20万円が入る。今夜の食事は、どうする?

 また、あの店に行って、ビールと、うまいワインでも飲もうか。でも、そんなことをしたら、あっという間に財布が軽くなる。たちまち困窮するのは目に見えている。ここはセーブすべきか。しかし、近いうちに20万円入る。財布が空になるころには、補給がある、というわけだ。いいかな、少しの贅沢は。なあに、大した出費にはならないだろう。1万円もいくまい。万円札が4枚から3枚になる。大した問題か。しかし、酔うと「はしご」したくなる可能性もあるな。なにしろアルコールというのは、気を大きくさせる作用がある。一度飲み始めると、ついつい飲み過ぎて、財布が空、ってなことを何度か経験した。ここは誘惑に負けずに、20万円入るまで謙虚に過ごすべきか。丼ものでも食って済ませば、わずか数百円の出費で済む。大きな違いだ。そんな僅かな出費で満腹できるんだから、賢明な人間なら、そっちを選択する。

 結局、男という生き物全般に共通の性質に従って、トレンチコートの男は賢明な人間にはならなかった。

 また、若い割りに聡明な感じの女性店員を相手に、カウンターでビールを飲む。

 「モデルって、やったことあるか? ファッションモデルじゃない。絵のモデルだ。」

 「絵のモデルですか?」女性店員は素っ頓狂な声で言う。「いえ、やったこと、ないです。」

 「モデル料の相場は、いくらくらいなのかね。知らんかね。」

 「さあ?」と言うや、興味無さそうに奥へ引っ込んでしまう。

 「誰か、知らんかな。」と、独り言。カウンターから彼女がいなくなると、話し相手がなくなる。黙々と飲んで、食うしかない。

 しばらくすると、彼女が出てきて、「インターネットで調べたんですけど、だいたい1日3時間で1万円くらいだそうですよ。」

 「なにが?」

 「モデル料の相場ですよ。ヌードか着衣かで違うようですけど、着衣だと、もうちょっと安いみたいです。」

 「インターネットで、そんなことが分かるのか。」

 「ええ。美術モデル料の相場、と打ち込んで検索したら、出てきました。」

 「ふん。そうか。」なんか、最近、いろんな人が、いろんなことを調べてくれる。「それにしても、1日で1万円。そんなもんか。」

 「でも、たった3時間の労働ですから、割はいいかも。」

 「3時間で、1万円か。そうか。」ワインをぐっと飲む。さらにぐっと飲む。気持ちが良くなり、「君は、脱ぐのは平気か。」などと、女の子をからかったりしているうちに訳が分からなくなった。一通り食って飲んだ挙げ句、「飲み足りない。」と言って近所のバーを紹介してもらい、そこへ行く。モルトウイスキーをストレートで何杯か飲んだまでは記憶があるが、次に目覚めたのは臭いベッドの上だった。

 「また、やっちまった。」内ポケットをまさぐって財布を取り出す。点検。

 万円札が1枚しかない。後は千円札が2枚。「どうした?」一夜にして、どうして、こんなにお金が減った?

 飲んだ時って、こうなるもんさ。人類の長い歴史の中で、繰り返されて来たことにすぎない。

 ま、いいか。早く20万円もらえば済むこと。

 それより、ここのところ風呂に入ってない。この涼しい季節でも、そろそろ身体が臭い出す。これ以上の無精は危険だ。しかし、このアトリエにも、なんか小さなシャワーがあるようだが、長年使用されていないようで、どうにも不潔で、使う気になれない。

 取り敢えず、外見を取り繕って、外界に出る。



11.



 風呂に入る、というからには、着替えを買わねばならない。

 下着と靴下だけでいい。最低限にとどめよう。とはいえ、これまで、この種のことをほぼ全面的にカミさんに頼ってきた。どこ行きゃ買えるんだ?

 ま、いいさ。困った時はコンビニだ。

 近所のコンビニへ。トランクスと、シャツと、靴下は、あった。ズボン下がない。ったく、なんでも揃うのがコンビニじゃないのか? 年寄りは来るなってことか? という、ひがみ根性は、やめよう。たまたま無かっただけさ。

 買った衣類を入れたビニール袋を片手にぶら下げて、町中を歩く。かっこ悪いな。俺のダンディズムに反する。こんな行動を平気で取るようになったら、殺し屋として終わっているな。

 長い徒歩と地下鉄による移動、さらに徒歩の後、再び女の部屋のドアの前に立つ。ノック。

 数分後、女が顔を出し、「また、来た。」

 「邪魔か?」

 「邪魔。」

 「帰ろうか。」

 「上がんなよ。」

 「いいのか?」

 「うん。」

 「ありがたい。」

 相変わらず、足の踏み場の無い地帯に踏み込む。本人は、不自由しないのかな? 何か践んで怪我でもしないのかな?

 「今日は、折り入って頼みがあるんだ。」

 「なに?」

 「風呂、貸してくれ。」

 「図々しいおっさんだな。」

 「駄目か?」

 「ま、いいか。勝手にやって。」

 「ありがとう。」

 「私に裸を見せるなよ。」

 「分かった。」

 トレンチコートの男、バスルームに入ろうとすると、

 「ちょと待った。」女が慌てて代わりにバスルームへ。「その前に、トイレ行っとく。」

 確かに、トイレ付のバスルームで誰かが風呂に入ると、他の者はトイレが使えなくなる。相方が風呂から出るまでトイレを我慢。安いホテルで2人で泊まると、よく経験する苦痛だ。

 静かな部屋だから、女の放尿の音が聞こえてしまう。本人は気にしてないのかな?

 「おまた。」と言って出て来る。

 久しぶりの風呂。バスタブに湯をはる。湯気でむせそうになる。湯がこぼれないように気をつけながら身体を沈め、暖まったら髪を洗おう。シャンプー勝手に使っていいかな? 訊こうか。いや、ま、いいだろう。石鹸もいいかな? いいってことにしとこう。シャワーカーテンを、ちゃんとバスタブの内側に入れて、湯を抜いて頭と身体を洗う。ん? タオル持ってなかった。足拭きマットを敷いて下が濡れないようにしながらバスルームのドアまで行き、少し開けて、「おおい。バスタオル貸してくれ。」

 「はあ? 今、なんて言った?」

 「タオル貸して欲しいんだよ。」

 「贅沢言うな。」

 「身体を拭くものが必要だ。」

 「ちょい待つ。」

 女は、床に置かれた長持ちめいたプラスチックの箱の中に手を入れて、なにやらごそごそ探す。やがて、所々擦り切れ色の褪せたタオルを取り出すと、バスルームのドア目がけて投げる。トレンチコートの男は、床に落ちたタオルを拾い上げ、ドアを閉めて身体を拭いた。買って来た下着を着て、ズボン下は穿かずに直接ズボンを穿いて服を着る。バスルームの中で服を着たんで、汗で下着がべと付く。バスルームから出て、「ありがたい。生き返った。」

 女は、テーブルの上に本を開いて読んでいる。

 「ありがと。」と言ってトレンチコートの男がタオルを返すと、女はそれをひっつかんで、間髪を入れず、脇に置いたバケツみたいなゴミ箱に放り込んだ。

 「捨てるのか。」

 「あんたの身体を拭いたタオルで、私の身体を拭けと?」

 「それが嫌なら、雑巾にすれば良いのに。」

 「そんな、面倒くさい。」

 「ところで、モデルの話だが。」

 「ん?」と、顔を上げる。

 「なんとかなりそうだ。じき連絡があるだろう。」

 「やっぱ、脱ぐの?」

 「その方が、モデル料が高い。」

 「あ、そ。」また、本に目を落とす。

 「なんの本だ?」

 「興味ある?」

 「ない。」

 「アルフレート・クービンの小説。」

 「そいつは何者だ?」

 「変なおじさん。」

 「どんなストーリーだ?」

 「はちゃめちゃ。」

 「なんで、そんなもの、読むんだ?」

 「他にすることないもん。」

 「俺は小説なんて、読まないな。何のために読むのか、分からん。んなもん読んで、面白いか。」

 「あんた、職業柄、推理小説とか読みそうだけど。」

 「作者が勝手にでっち上げた事件の犯人が誰だろうと、俺の知ったことか。」

 「犯人探しだけが楽しみじゃないよ。殺人の動機がどうとか、こうとか。」

 「だったら、なおさら嫌だ。俺にとっちゃ日常だ。殺しの動機なんて、みんなつまらん。何聞いたって驚かんよ。所詮、どうでもいい話ばかりだ。」

 「でしょ? 世の中、どうでもいいことばっかでしょ。」

 「そうだな。そうかもしれん。」

 「じゃあ、死んだっていいんだ。」

 「いいけど。駄目だな。」

 「どっちさ。」

 「いや、俺は小説を読むのがつまらん、と言っただけだ。人生諸事全般にわたって、どうでもいい、とは言っていない。」

 「全然読んだこと、ないの?」

 「なんか、若いころ、人の勧めでなんか読んだ覚えがあるが。最後まで読めなかった。退屈で、途中で投げ出した。」

 「小説ってね、ちょっと面白い、と思うこともある。」と言いながら、彼女は床に落ちている紙切れを拾う。それを、ばしっと男の目の前に置き、四囲を見回し、足元から鉛筆を拾い上げて紙の上に置く。

 「なんか、書いてごらん。」

 「なにを? 絵か?」

 「文章だよ。ばあか。」

 「どんな文章だよ。」

 「好きなこと。」

 「だから、なんて書けばいい?」

 「んん。例えば、男が歩いている。とか。」

 「なんで、そんなこと書かにゃ、ならんね。」

 「いいから、書いてごらん。」

 「ふん。」と言いながら、鉛筆を持ち、「どこに書く?」

 「適当。」

 「こんで、いいか?」取り敢えず、紙の真ん中あたりに、「男があるいている」と書く。

 「どんな男?」

 「なにが?」

 「その男は、どんな男さ?」

 「知るかよ。お前が書けっていうから、書いただけだ。」

 「想像してごらん。」

 「だったら、俺みたいな男。」

 「トシ老いた、と書き加えて。」

 「失礼な。初老の男だ、ばかもの。」

 「じゃあ、そう書いて。」

 トレンチコートの男は、「男があるいている」の上に、「初老の」を書き加える。

 「どこを?」

 「は?」

 「どこ、歩いてるの?」

 「どこだろうと、その男の勝手だ。」

 「それだけじゃ、その人、どんな所を歩いているか、分かんないじゃない。部屋の中? 町の中? 山の中? 海岸の波打ち際?」

 「それも書けってか?」

 「うん。」

 「そうさな。」少し考えて、「列車を降りて、プラットホームを歩いている、ってのはどうだ。」

 「んじゃ、そう書けば。」

 「ふむ」と、トレンチコートの男は、「男が」と「あるいている」の間に、挿入の記号を入れて、「列車を降りて、プラットホームを」と書き加える。

 「天気は?」

 「へ? 天気?」

 「晴れてんの? 曇ってるの?」

 「雨だ。雨の中、歩いてんだ。」と言いながら、紙の端っこに、「雨の中」と書く。

 「読んでごらん。」

 「これをか?」妙なこと、させやがる、と思いながら「雨の中、初老の男が、列車を降りて、プラットホームを歩いている」と、読み上げる。

 「どう?」

 「どうって、なんだよ。」

 「目に浮かばない? 映画みたいに、頭の中に、男がひとり、列車を降りて、雨の中を歩いている姿が浮かぶでしょ。」

 「そう書いたからな。」

 「不思議でしょ?」

 「全然。」

 「面白いって。白い紙に、鉛筆で文字を書き連ねただけだよ。なのに、生きた男が一人現れて、動き出す。」

 「ふん。そんなもんかね。」

 「紙とペン。それだけ。それだけあれば、世界を創造できる。ひとりの人間の壮絶な一生だって書ける。」

 「そんな風に思えるなら、小説でも書いたらいい。」

 「うん。書いてる。でも駄目。小説って、書き始めるのは簡単だけど、完成させるのは難しい。」

 「そういうもんか?」

 「書きかけの断片は、いっぱいあるよ。でも、書き上げたものは、ひとつもない。」

 「根性の問題だろ。」

 「能力の問題。」

 「そうかね。」この女の発想には、どこか問題があるな、と思いつつ、携帯を取り出し、黒コートを呼び出す。「なんだよ。」と、不愉快そうな声が応える。

 「あれは、どうなったね?」

 「まだ資料が揃わねえ。こっちから連絡するよ。」

 「仕事の話じゃない。画家に話はついたか?」

 「んなこたあ、後でいいだろ。」

 「急ぎだ。頼む。」

 「なんで急ぐんだよ。」

 「なんでも急ぐんだ。」

 「わあったよ。」電話は切れた。

 「歩くか?」女に尋ねる。

 「眠い。あんた散歩したきゃ、勝手に行って。」と、彼女はあくびして、腕を枕にしてテーブルにうっ伏した。すぐに寝息を立て始める。

 つまらん女だな。

 それはそうと、ここじゃ何もすることが無いな。なんか無いかな。散らかり放題の周囲を見回し、雑誌を取り上げた。美術に関するものらしい。「なんだ、絵に興味があるんじゃないか。」ページをめくって見てみる。知らない画家の絵やら評論やらが並んでいる。「なんじゃ、こりゃ。」妙な写真に目がとまる。

 それは、荒野になにやら奇妙な物体が置かれている写真。奇妙な物体とは、どんなものかといえば、とにかく奇妙な物体というよりほかにない。うねうねと曲がりくねった金属製の棒かパイプのようなものが、荒涼とした枯れ野にのたうちまわっている。写真のキャプションには、某の作品、とだけ記されている。

 「おい。」と言って、雑誌の背表紙で、女の頭を小突く。

 「あにさあ。うるさいなあ。」むくっと顔を上げる。

 「おい、これ。こんなんが芸術なのか?」

 「ああ? あ、これ? インスタレーションじゃない。」

 「近ごろじゃ、こんなものが芸術なのか?」

 「近ごろ? 昔からあるよ。」と言って、再び寝る。女は、鼾をかき始めた。

 「風邪引くぞ。」さっき女がタオルを取り出した箱の中を引っ掻き回して、厚手のタオルケットを取り出し、女の背中に掛けてやる。

 静かな部屋に、女の微かな鼾だけが続く。

 仕方ないな。どっか行くか。

 

 女の部屋を出て、町の中を彷徨い歩く。近ごろ、こうした状況が多いな。目的もなく町を歩くって、楽しくないな。

 バス停のベンチに腰掛ける。バスを待つ訳じゃない。ほかに金を払わずに座っていられる場所がないから仕方がない。こうしてみると、町ってのは、無目的に動き回る人間に対して冷たいな。ただ座って時を過ごす、という場所がない。誰もが目的をもって動いている。大勢が歩いているのに、みんなちゃんと目的がある、行き先を持っている。これは驚くべきことだな。

 ぼうっとしていると、携帯が震えた。黒コートが、「さっきの絵描きの話だけどな、おめえから直接交渉してくれや。いま一緒にいる。」という。

 場所を聞いて、そちらに向かう。



12.



 画家と黒コートは、「画廊喫茶」の看板を掲げた小ぎれいな店の中にいた。

 トレンチコートの男が入って行くと、画家はあからさまに嫌そうな顔で迎える。

 トレンチコートの男は、黒コートの隣の席に座るや、「金は?」

 「ほいよ。」と、黒コートは、少しふくらんだ小さな紙袋を手渡す。

 トレンチコートの男は、「ありがたい。」とコートの内ポケットにしまう。

 画家は、そのやりとりを胡散臭そうに見ながら、トレンチコートの男に、「なんでも、モデルのエージェントになられたそうで。」

 「うん。女の子だ。描いて欲しい。」

 「生憎なんですが、人物画を描く予定は無くて。」と画家が言うと、

 「さっき、ここに出展する絵を描く予定だって言ってたじゃねえか。」と、黒コート。

 「いや、ここに出す絵は風景画でしてね。風景画と決めているんで。」

 「裸婦にしてくれ。予定を変更して。」と、トレンチコートの男。

 「いや、もう決めてますんで。」

 「いいだろ、おい。」と、黒コート。「風景画じゃなきゃあいけねえって理由でもあるのか?」

 「いや、別にいけない訳じゃ」

 「なら、話は決まった。今度の画題は裸婦だ。」黒コートが強引に誘導する。

 「でもねえ。絵ってもんは、私自身に描こうって意欲が湧かなきゃ駄目ですからね。今度は風景画にしようという気分だった訳で。」

 「会えば、描きたくなる。」と、トレンチコートの男。

 「は?」

 「その女に会えば、描きたくなる。」

 画家は苦笑しながら「んなことは、ないと思いますよ。」

 「いや。会ってみろ。納得する。」

 「いや、そんな。」

 「よし、行こう。」と、黒コート。「会いに行こうじゃないか。これから。お前の」と、画家を指差す「車でな。」そう言うと、さっさと立ち上がる。トレンチコートの男もそれに続く。

 「あなた方、そんな。」と言いつつ、画家は仕方なく一緒に外に出た。

 店から少し離れた場所に画家の車が止めてあった。小さなセダン。3人、それに乗り込んでトレンチコートの男の案内で走り出す。


 十数分後、3人の男が女のドアの前に立つ。

 トレンチコートの男がドアをノックする。返事が無い。さらにノックする。返事無し。

 黒コートが廊下に設置された電力メーターを見て、「動いてねえ。居ねえんじゃねえのか?」

 3人、エレベーターで下がり、外へ出る。トレンチコートの男は女の部屋の窓を見て、

 「窓が閉まってる。居ないってことだな。」

 「分かるのかい?」と、黒コート。

 「うん。あいつは部屋に居るときは、必ず窓を開けるんだ。」携帯電話を取り出し、女に掛けてみる。

 「携帯の番号を知ってるのか。そういや、ずっと家に帰ってねえだろ。かみさんからは電話は掛かって来ねえのか?」

 「俺は以前、黙って2ヶ月くらい家に帰らなかったことがあるが、その間、かみさんから電話なんか一度もなかった。」

 「いい女房だな。大切にしろよ。」

 「出ないな。」携帯をしまう。

 3人、再び画家の車に戻る。しばらく走ったところで、トレンチコートの男、「おい、止めろ。いた。」

 歩道を女が歩いている。初めて出会った時と同じような服装で、足早に歩いて来る。「あのコですか?」画家は女のすぐ側で車を路肩に寄せて止めた。女は気付かずに車の脇を通り過ぎて行く。

 「あれだよ。どうだ?」と、トレンチコートの男。

 画家は、女の歩く姿を無言で見つめる。

 トレンチコートの男は車から出て、「おおい。」と呼ぶが、女は無視して歩き続ける。追い掛けながら、「おい、待て。おい。」

 ようやく気付いて女は振り返った。

 「あ? なに?」

 「画家を紹介しに来た。」

 そのやりとりの間に、黒コートと画家は車を降りて女の前に揃い立つ。

 黒コートが、画家を示して、「あんたを描く人だ。」

 「いや、まだそうと決まった訳じゃ。」と、画家。

 「なにか、支障があるのか?」と、トレンチコートの男。

 「いや、別に」と言いながら、画家は黒コートとトレンチコートの男を交互に見る。

 「気に入ったろ?」と、トレンチコートの男。

 「え、ええ。まあね。そうね。」と画家はごにょごにょ言って最後に「はは」と力無く笑う。

 「モデルを依頼するんだろ?」と、黒コート。

 「う、うん。まあ、お願いします。」

 女は、戸惑いながら「あの、こちらこそ、よろしくお願いします。」と意外に素直な態度で画家に挨拶をした。

 「んじゃあ、早速アトリエに行こうぜ。そこに車が止めてある。一緒に行こう。」と黒コートが言うと、女はさすがに「え?」という顔をして、「あの、でも、私は、とりあえず帰りたいので。」と、逃げ腰に。

 画家も、「そんな、むちゃ言わんで下さい。今日の今日というのは、私も準備が必要だし。」

 「そうか。なら、後日、連絡する。」とトレンチコートの男が言うと、女は安心して、「じゃあ、私はこれで。」と、画家に軽く会釈してから踵を返してとっとと去った。

 トレンチコートの男、再度「気に入ったろ?」と、確認。

 画家は肩をすくめた。


 3人、画廊喫茶に戻って、軽い食事を取りながら語り合う。

 「で、どうすんだ? 描くんだろ?」黒コートが詰め寄る。

 「ええね、まあね、仕方ない。描かせていただきます。」と、画家。

 「モデル料は、1日3時間のポーズで、日額2万円だ。」と、トレンチコートの男。

 画家は考えて、「ちょっと高いですね。」

 「妥当な額だ。それだけの価値はある。」と、トレンチコートの男。

 結局、画家は不承不承ながら承知した。翌日からトレンチコートの男の住んでいるアトリエで、午後の光の中で描くことに決まる。

 3人、解散した後、トレンチコートの男は携帯で女に時間と場所を教えた。



13.



 午後。

 トレンチコートの男の意識に、女との会話の記憶が蘇る。状況を打破する突破口。そんなものが、あり得るのかな。そういや、妙なインスタレーションとかいうものがあったな。あんなものが芸術ってもんかね。ところで、芸術ってもんなら、人の意識になんか働きかける力はあるはずだが。

 少しの考察の後、トレンチコートの男は、家具屋を探し求めて彷徨い歩いた。家具を売っている店は意外と少ない。俺は、なんでこういう類いの事柄に対する知識が乏しいのかな、と思いながら歩く。ままよ、とデパートに入ってみる。家具のコーナーに行き、店員に、

 「ドアって、売ってないかな。」

 店員、意表をつかれた態で、「は? ドアですか?」

 「そう。ドアだ。」

 「どんなドアですか。」

 「ドアっつったら、ドアだ。普通のドアだ。扉だよ。」

 「はあ。玄関ドアですか。それとも、室内に使うもので?」

 「それは考えてなかった。ドアなら、なんでもいいんだが。」

 「玄関に使われるものか、室内で使うものかで、だいぶ違いますが。」

 「どっちが安い?」

 「そりゃ、室内用ですが。室内用でよろしかったですか?」

 「そうしよう。」

 「カタログ持って参りましょう。」と、いったん奥に引っ込んで、薄汚い冊子を持って戻る。「ご家庭でお使いですか? オフィスですか?」と訊きながら、ページをめくる。

 いろいろと質問するやつだな。ドア1個買うのに、ややこしい話だ。

 「なんでも、いいんだよ。いっぱしのドアなら、それでいいんだ。」と言ってから、少し考えて、「できれば、運搬が楽なのがいい。」

 店員の額に皺が寄る。妙な客だな、と思っていることがあからさまに分かる。

 「運搬が楽? それでしたら、アルミ製のがいいですね。ドアノブの形は、どんなのが?」

 「ドアノブ?」そんなこと、訊かれるのか。「いや、どんなんでも、いい。」

 「鍵付きですか? 鍵は要らない?」

 うわ、そんな質問項目もあるのか。「ええっと。要らない。」

 「窓はあった方が?」

 うわあ、ドアっていろいろある訳だ。「うん、まあ、なくていいよな。」

 「ええと、それでしたら。」と言いながら、店員がカタログのページをめくっているのを傍で見ていると、実にシンプルなドアの写真が目に留まった。ただの板にドアノブが付いているだけの単純なものだ。

 「あ、これでいいよ。この簡単なの。」

 「これで、よろしいんで?」

 「うん。いくらだ?」

 「2万3400円です。」

 「ところで、それは、それだけで自立するのかな。」

 「は? じりつって、なんですか?」

 「つまり、何も無い空間に、そのドアを立てておけるのかな?」

 「何も無い空間に、立てる?」

 「そうだよ。家の壁に設置するのではなく、空間に立たせておくんだ。」

 「あの、何にお使いですか?」

 「ドアを空間に立たせるんだ。」

 「そんなことして、どうするんです?」

 「俺の勝手だ。」

 「へ?」

 「俺は、ドアを立たせておきたいんだ。」

 「はあ。」と、店員は、トレンチコートの男の顔を見つめる。数秒間、複雑な表情で考えてから、「それなら、ドア枠も必要ですね。」

 「あ、そう。なら、ドア枠もな。」

 「ドア枠は、別売りになります。」

 「それは、いくらだ。」

 「お待ちください。」と言って、店員は、かなり時間を使って、カタログのあちこちを調べ、「1万円ほどですかね。」

 「じゃあ、それもくれ。」

 「お取り寄せになります。」

 「なに?」

 「店頭にはございません。ドアパネルも、ドア枠も、お取り寄せになります。」

 「ここに無いのか。」

 「ええ。メーカーから取り寄せないと。」

 それなら、そうと、早く言え。「なら、いいよ。こういうもんは、どこに行きゃ買えるのかな。」

 「いや、お取り寄せならできますが。」

 「いいんだよ。すぐ欲しいんだ。どこで売ってる?」

 「さあ、大規模なホームセンターとかでしたら。」

 「その、大規模なホームセンターとやらは、どこにある?」

 すると、店員は、例えばと言って、いろいろ地名を述べて説明する。トレンチコートの男は、全部頭に記憶して、デパートを出た。

 さて、順番に当たっていくか。一番近い店から。とはいえ、遠い。車を売るんじゃなかった、とつくづく思う。まあ、いいか。金が入ったんだから。タクシーに乗ろ。

 2000円近いタクシー代を使って、店員に教えてもらったホームセンターへ。

 広大な店内でまごまごしたくない。早速店員をつかまえて、「ドアは、売ってるかな?」

 「ありますよ。どんなドアです?」

 もう、何を訊かれても怖くない。デパートで得た知識を活用する。「室内用。アルミ製。鍵は無し。ドアノブの形は、どんなんでもいい。窓は要らない。ドア枠も一緒だ。」

 どうぞ、こちらへ、と案内される。カウンターに座らされ、カタログを見せられる。

 「カタログは、いい。ここにあるのを、持って帰りたいんだ。」

 「でも、ドアは取り寄せになります。」

 「え? ここに無いの?」

 「ええ、普通、ドアなどの建具は、取り寄せになります。」

 なんだ、ここもか。

 「店頭で、買える店はないのか。」

 すると、店員は、直接販売している店は、どこと、どこ、と説明し始めた。再び頭に記憶して、店を出る。

 なんか、ドア1個買うのも、簡単じゃないな。

 郊外だから、タクシーも拾えない。広大な駐車場を横切って道路へ。他に人なんか歩いてない道を、とぼとぼ歩く。足の筋肉が悲鳴を上げ、心臓が苦しくなり、汗で背中がじっとりするころ、ようやく市街地に到達。そこでタクシーを拾って、教えられた店に行く。もう日没が近い。

 「ドアを売ってくれ。」疲れきった声で、店長に言う。

 「ドア? どのようなドアでしょう?」

 「室内用。アルミ製。鍵無し。窓無し。ドア枠も一緒。」

 「うちのドアは、全部木製です。」

 「へ?」

 「うちは、木製ドアの専門店です。うちで扱っているのは、全部無垢の木で作られたものでして。」

 また、ややこしい店を教えられたもんだな。他へ行こうかな。でも、既に気力が萎えた。

 「軽いか?」

 「は?」

 「私で、持ち運べるかな。」

 「まあ、アルミほど軽くはないですが。物によっては、そう重くもないですよ。どこにお使いですか?」

 「それは訊かないでくれ。単純なやつでいいんだ。」

 店長に案内され、いろいろな商品を見る。どれも高い。結局、サイズが小さくて、ドア枠付で6万円で買えるものがあったので、それに決定。

 「タクシー呼んでくれ。」

 「でも、お客さん、これは普通の車には乗せられません。」

 「持ち帰りたいんだよ。」

 それなら、と、店長は店の軽トラックで届けよう、と言ってくれた。

 トレンチコートの男が助手席に乗って道案内しながら、寝ぐらのアトリエへ。礼を述べて別れ、トレンチコートの男はドアを持って階段を昇る。重い物ではないといっても、部屋に着くころには息が切れた。

 しばらくベッドに横たわり、休憩。


 目が覚めると、深夜だった。腹が減ってる。例の聡明な女性店員がいるダイニングバーは確か深夜までやっていたな。身体中が痛むが、難儀しながら外へ出て、タクシーに乗る。

 カウンターに座り、女性店員相手に、「ドアを買うってのは、意外と楽じゃない。」などとくだを巻き、ワインをしこたま飲んで早朝まで過ごす。どうやって帰ったか覚えていないが、次に目が覚めたのは昼だった。



14.



 今日は、画家が女の絵を描く日。

 ベッドに横たわりながら、腕時計を見る。やばい。

 もうすぐ、連中が来る。

 あせって、起き上がり、立ちくらみ。直ってから、部屋を見回す。昨日買って来たドアが、包装紙にくるまれて、部屋の中に放置されている。隠さなきゃ。

 だだっ広いワンルームに、洗面台、炊事場、トイレと小さなシャワーがあるだけの部屋だ。隠す場所がない。

 仕方なく、あちこちに置いてあるキャンバスを集めて壁に寄り掛け、その背後にドアを隠した。

 ところへ、階段を人が昇って来る音がする。入口の鍵がはずされ、画家が入って来た。肩から重そうな画材入れを下げている。トレンチコートの男は、無言で画家を迎え入れる。

 「どうも。」と言いながら、画家は床に画材入れを降ろし、窓のカーテンを開いたり閉じたりする。光の加減を見ている様子。

 トレンチコートの男は、椅子に座って画家の動きを見ながら不意に、「悪いが、ここのシャワーを使えるようにしてくれないか。」

 「使えますよ。ちゃんとお湯が出ます。」と、画家はトレンチコートの男の方を見ずに、淡々と作製準備をしながら答える。

 「いや、きたなくて、使う気にならない。」

 「洗えば、使えます。」事務的に言う。

 自分で洗えってことかい。

 画家は、イーゼルを立てて、下塗りを施したキャンバスをセットする。画材入れから、なにやらガラス瓶を取り出して、粘り気のある液体を金属製の壷に入れる。とろっとした液体が注がれると、微妙な匂いが漂う。その様子を見ていると、人が階段を昇って来る音。重そうな音だ。

 「邪魔するぜ。」と、黒コートが現れた。

 「お前も来るのか。」

 「ああ。画家を紹介したてまえ、責任がある。」

 「女の裸を見に来たんだろ。」

 「悪いか。」黒コートは、椅子を一脚ひっつかんで、トレンチコートの男と並んで座る。

 準備は整ったようで、画家はベッドに腰掛けて煙草を吹かし始めた。

 約束の時刻を少し過ぎている。

 「あいつ、来るんだろうな。」と、黒コート。

 「来るだろう。やる気はありそうだった。」

 少しして、階段の軋む音。ゆっくりとした、かすかな音。ドアが静かに開いて、女がこわごわ顔を見せた。

 「入んなよ。待ってた。」と、トレンチコートの男。

 女は不安げに部屋に入った。いつものショルダーバッグを下げている。

 3人の男に取り囲まれた態で、女はじっと立っている。

 「モデルは、初めて?」と、画家。

 「ええ。」と、女は弱々しい声で答える。

 「じゃあ、椅子に座ったポーズがいいな。」と言うや、画家は部屋の壁際に椅子を置く。「長時間、じっと同じ姿勢のまま動かないというのは、意外と苦痛ですよ。大丈夫ですか。」

 「あ、はい。頑張ります。」なんだか殊勝な態度だ。

 「3時間ということなんで、1時間ごとに短い休憩は入れますが。早速で恐縮ですが、始めましょう。」と、画家は自分の椅子を用意する。

 「はい。」と言いつつ、女は、咄嗟にトレンチコートの男の顔を見る。

 トレンチコートの男、無言のまま両手で自らの上着を脱ぐような仕草をして見せる。

 「あの。ここで脱ぐんですか?」と、女。

 「ごめんなさい。別室がないので。」と、画家。

 「あ、そうですか。」女は、ゆっくりとベッドの脇まで行って、肩からショルダーバッグを降ろし、ジャケットを脱いでベッドの上に置く。そして、Tシャツの裾に両手を掛ける。ふと、トレンチコートの男と黒コートの方を見て、「あのさ。あんたたち、向こうを見ていよう、とかの気づかいは、ないの?」

 「心配するな。俺たちは、もう役に立たねえ老人だぜ。」と、黒コート。

 女は、数秒間、無表情で男たちを見つめる。そして、一息、小さな溜め息をつくと、2人の男に背を向けて、一気にTシャツの裾をめくり上げた。背中に黒いブラジャーのベルトが見える。女は、両手を背中にまわして、ブラジャーのホックをはずすと、片手でベッドの上にブラジャーを放り投げる。靴を脱ぎ、靴下を脱いで裸足になってから、淡々とした動作で腰のベルトを外す。デニムのパンツのチャックを降ろして片足ずつ脱ぐと、黒いパンティ1枚の姿になった。女は、両手をパンティに掛けて脱ぎかけたが、そこで動作を止めてトレンチコートの男と黒コートの方を振り返った。物言いたげな表情で男たちを見つめるが、2人の男は相変わらず無言で無反応を決め込む。女は、顔を背けると、素早くパンティを脱ぎ降ろし、憤然とした動作でパンティをベッドの上に投げ付ける。そして、画家の用意した椅子に向かって大股で歩いて行った。

 画家は、女が椅子に座ると、立ち上がり、女の目の前に行って、ポーズについて指示し始めた。女は、真剣に指示を聴く。時々、画家が女の腕を取ってポーズを付けたりしている。画家が小声で何か言うと、女は、うんうん、と頷く。

 その様子を見ていて、トレンチコートの男は、ほのかな嫉妬を感じて戸惑った。

 画家が自分の椅子に戻り、作製に取り掛かった。女は時間が止まったように、じっと静止している。

 黒コートがトレンチコートの男の方に身を傾けて、「例の話だが。」と、小声で話し掛けた。

 「ああ?」女の方を見たまま答える。

 「資料だ。」と黒コートは、内ポケットから茶封筒を取り出し、トレンチコートの男に渡す。「ターゲットの写真、全身のが4枚、上半身が2枚、顔のアップが3枚。いろんな角度で撮られてるから、特徴はつかめる。依頼者は3日後に彼女をリゾートに誘う。海岸だ。地図が中にある。依頼者は自分は後から行くと言って、女に先に行かせる。だが、依頼者は行かない。女は昼ころには現地に行く。そこで殺るんだ。」

 「銃は?」

 「明日渡す。」

 「車を手配してくれ。できれば、今夜か、明日の朝。」

 「明日の昼以降になる。」

 「朝欲しい。下見に行きたい。」

 「下見なら、あさってでもいいだろ。明日の朝は無理だ。」

 「じゃあ、あさっての朝でいい。銃の受け渡しは?」

 「あのおっさん」と、画家の背中を指差し、「絵を描くのに2日かかるそうだ。明日もここで会える。」

 「分かった。」


 その日、午後の長い時間を、女の白い肌を見ながら過ごした。



15.



 翌朝。

 トレンチコートの男は、久しぶりに早起きした。

 少し寝不足。部屋中に油絵の具の匂いが充満して、よく眠れなかった。

 さて、今日も昼過ぎから彼女の勤めが始まる。その前にやっておきたいことがある。

 あのドアは自立できるかな。昨晩、隠した場所からドアを取り出し、包装紙を破り取る。ドアを枠ごと部屋の真ん中に立ててみる。

 一応、立つ。しかし、ちょっと突ついただけで倒れそうだ。

 細工が要るな。ドア枠に、簡単な脚でも付けようか。

 材料は、あるな。古くなったキャンバスがある。明らかに、もう使われそうもないから、勝手に解体しよう。布を破いて、枠だけにする。角の接合部を力任せに引っ張ると、取れた。これで材料はできた。

 道具は?

 金槌と、木槌が床の隅にころがっている。釘はあるが、短いものばかりだ。長い釘が必要だな。それから、のこぎりも要る。

 仕方ない。金物屋に行くか。昨日、ホームセンターに行った時に、買っておけば良かった。ついでに、レンタカーの手配もしなければ。殺しに使う車は間に合わないから、自力で調達する必要がある。この付近にレンタカー屋さんなんか、あったかな。

 ま、いいか。適当に探そう。

 外に出る。やみくもに探すのは不効率だ。こういう時、パソコンとか携帯端末とかを持っていれば便利だろうに。なんで、俺はそういう類いのものを持ってないかな。まあ、要らんからだな。俺の仕事には。

 十数分歩いたところで、金物屋らしきものを発見。入ってみる。

 のこぎりと、長めの釘を数本買って、この辺にレンタカー屋はないか、と尋ねる。すると、店の人は、意味深げな表情を見せて、無言ですぐ向かいの建物を指差す。見ると、レンタカーの看板。

 「ありがとう。」と言って店を出たが、気まずい。なんで、気付かなかったかな。そろそろ俺の認識能力はあぶないのかな。こうした認識能力の衰退は、殺し屋としての職務遂行能力に、重大な支障になるのかな。

 道を渡り、レンタカー屋に行く。軽トラックを借りて、運転して巣に帰った。

 作業開始。キャンバスの枠を解体した木材のうち、長いのを2本、ドア枠の地面に接する端に当てて、釘を打ち付けて固定する。これが脚。これだけでは不安定なので、別のキャンバスを解体して、同じ長さの木材を4本作り、それぞれ両端を斜めに切り落とす。そいつらを、ドア枠の垂直部分と脚との間に三角形に渡して補強にする。

 ドアは、ずいぶんと安定して自立するようになった。

 少し持ち運び難くなったが、脚付きのドアを持って苦労して階段を降りる。ドアは表に止めた軽トラックの荷台に乗っけて、出発。

 しかし、どこへ?

 どこか、このドアを設置するのに、ふさわしい場所はないか?

 とりあえず、車を走らせながら、考える。

 廃工場なんか、どうかな。あの女に連れられて行った工場群の中に、適当な廃工場は、ないかな。

 港の方に向かう。

 こうして考えると、町の中には、さりげなくドアなんか置いておける場所なんぞ、そうそうないことに気付く。田舎なら、そこらへんに訳の分からん物を放置しておいても、誰も咎めやせんだろうに。都会ってのは、なにかと厄介な所だ。

 港に近付き、工場やら倉庫やらが目に付くようになる。車の速度を落として、廃工場を探しながら走る。工場地帯は、道路が広くて、車をころがしながらウロウロ探索するのが容易な場所だ。しかし、廃工場なんて、ないな。さんざん走り回り、工場地帯のはずれに出る。

 あった。

 明らかに操業していない。入口は車止めもなく開放されていて、誰でも侵入可能になっている。中の建物は、窓ガラスがことごとく割れ、入口の前に錆びた鉄扉がべたっと倒れている。建物の中は真っ暗。車を近づけてみたが、静かで人の気配がない。

 トレンチコートの男は、車を敷地内に乗り入れる。中庭のような場所に車を止め、降りて周囲をうかがう。確かに廃工場だ。

 そこで、荷台からドアを降ろして、置いてみた。

 軽トラックに乗り、少し離れた場所まで移動して、ドアを眺めてみる。

 だめだ、こりゃ。

 良くないな。

 違和感が無さ過ぎる。

 ここに妙なドアがあっても、さして奇妙な状況ではない。あり得る光景でしかない。まるで驚きがない。

 やっぱ、「なんで、こんなとこに、こんなドアがある?」という驚きがなければ、意味が無い。

 ここは、やめにしよ。

 ドアを荷台に乗せて、出発。

 再び、町の中を車で彷徨う。

 どんな所がいいのか?

 いっそ、街路に置いてみては? あるいは、公園とか? いや、たちまち、誰かに撤去されてしまうだろうな。

 やはり、郊外へ行くしかないか。

 町の中心部に背を向けて、車を走らせる。

 ずいぶんと走ったころ、比較的幅の広い川が視界に入る。橋を渡りながら、あ、そうだ、河川敷というのは、どうだ?

 橋を渡り終えて、左折する。堤防の上の道を行ってみる。

 いいかも。広々としている。河川だから誰かの管理下にあるのだろうが、2、3日、なんか妙な物が放置されていても、見逃されそうな雰囲気。

 しかし、河川敷ってのは、こうして見てみると、意外と人の手が入っていて、そこいらの公園と変わらないな。子供らが球技なんぞしている所は、駄目だね。

 もっと、上流へ行ってみようか。

 次第に人工的な環境では無くなっていく。周囲の住居もまばらになり、田舎の雰囲気に。

 ん? ここは、どうだ?

 郊外というより、原野に近い。町の近くに、こんな所があったのか。

 曇天の空の下、薄茶色の葦が一面に茂っている。

 車を止めて、降りてみる。穏やかな川の流れの音。ほのかな土の匂い。

 ドアを荷台から降ろす。そのまま持ち運んで、葦の原のまっただ中に置いてみる。

 気に入った。これで、いい。

 ドアをそのまま放置して、車に戻る。

 町に戻り、レンタカーを返して軽い食事を済ましてトレンチコートの男がアトリエに帰った時は、既に画家の絵描きの作業は始まっていた。

 相変わらず、黒コートが部屋の隅に陣取って裸の女を見ている。

 女は器用に、昨日と全く同じ姿勢でじっと椅子に座っている。

 「どこ、行ってた?」トレンチコートの男が黒コートの隣に座ると、黒コートが訊く。

 「散歩だ。」

 「道具だよ。」と、黒コートの男は、よれよれの皮のブリーフケースを手渡す。ずっしりと重い。「予定どおり、明後日だ。」

 「分かった。」


 2時間後、画家の深く長い溜息が静寂を破った。画家は椅子の背に脱力した様子でもたれ掛かり、「お疲れさま。」と言う。

 女は、ゆっくり立ち上がって伸びをすると、自らをモデルに描かれた絵を見に行った。裸のまま、じっと熱心に見入る。そして、納得した表情を浮かべると、裸体を少しも隠そうとせずにベッドの脇まで歩いて行き、服を着始めた。

 「いい絵が描けたかい?」と、黒コート。

 「私は、いい絵しか描きません。」と画家が答える。

 「ぬかしやがる。」

 女は、「んじゃね。」と言って、ショルダーバッグを引っさげて、さっさと出て行った。

 画家は素早く後始末をして、描いたばかりの絵を持って去ろうとする。

 「モデル料。」と、トレンチコートの男。

 「え? あ、そうでしたね。」画家は言いながら、もそもそとズボンのポケットから財布を取り出し、「2日ですから、4万円ね。」と、トレンチコートの男に札を渡して出て行く。

 「じゃあ、明後日。成功を祈る。」と、黒コートも去って行った。


 トレンチコートの男、独り残って、ベッドに腰掛ける。ブリーフケースを取り上げる。中から銃を出した。角張った小さな銃。こんなんで、人が死ぬんだ。ベッドに寝転がりながら、銃の匂いを嗅ぐ。

 「この匂いが好きだな。銃はいい。」


 その日の夜は、また例のダイニングバーで飲み食い。仕事の前々日だから、気楽に飲める。ので、再び飲み過ぎて正体不明で帰った。

 翌朝目覚めた時、二日酔いで頭が痛いので寝直す。と、床にころがった携帯電話が不機嫌な音をたてて震え出した。

 手探りで電話を探しあてて、耳に当てる。黒コートが、「車を届ける」と言って、場所の説明を始めた。「30分後には着く。受け渡し場所に行ってくれ。」

 仕方ない。起きるか。

 しかし、このシャワー、本当に使えるのかな。ちょっと出してみる。確かにお湯は出る。

 しかし、足元がきたない。しばらくお湯を出しっ放しにしたら、きれいになるかな。試みに、しばらく湯を出し続けたら、部屋中に湿気がこもった。しかし、一応、使えるみたいだ。

 近くのスーパーまで行って、替えの下着を二揃いと、石鹸とタオルを買う。コンビニじゃ駄目だ。ズボン下がない。これだけの買い物にひどく手間取る。人を殺すより面倒だ。

 帰ってシャワーを浴びて、服を着る。ドライヤーを買い忘れたので、髪はタオルでごしごし拭いて、少し濡れたまま外出する。

 指定された場所まで徒歩で。裏通りを行き、薄汚いビルの裏側を見ながら路地を行く。階段を昇り、石畳の舗道を抜けると、人通りの少ない道に出る。路肩に青い小さなハッチバック車が止まっていて、その脇に、先日、製薬会社の車を持って来た男が立っていた。

 「また、お前か。」

 「なにか?」

 「いいよ。鍵よこせ。」

 「ほうら、また。なにか忘れてる。」

 「このたびは、車を手配してくださって、どうも、どうも、ありがとうございましたっ。」

 「怒りながら言うなよ。」

 「礼は言ったぞ。」

 すると、男は鍵を手に持って差し出す。ところが、受け取ろうとすると、男は手を引っ込めて、「この前の車ね」、と言う。

 「あの水虫の車か?」

 「あんたが路上に乗り捨てて放置したままだったんで、私が回収に行く羽目になりましたよ。」

 「ん? あ、そうか。そうだったな。」

 「詫びは?」

 「はあ?」

 「普通、こういう場合、ご面倒をお掛けしました、って言うんじゃね?」

 まじまじと男の顔を見つめる。殴ろうか? 蹴とばそうか? いや、面倒は起こしたくない。

 「それは、どうも、ご面倒をお掛けしましたっ。」

 ようやく男は鍵を渡した。

 車に乗り込み、怒りを込めてドアを閉じると、「この仕事が終わったら、必ず、絶対、あいつを殺してやるんだ。」

 適当に走って、止めやすい場所に車を止める。

 明日の仕事の資料は持って来た。中身を見る。写真がぞろっと出て来る。あまり美人じゃないが、そこそこ魅力的な女だ。地図を見る。広域図と、詳細図の2種類。現場は遠いな。高速道路を使って、片道2時間近くかかりそうだ。

 これから行って、現地を見て帰ると、戻りは夕方になる。どうしよう。どっちを先にするか。先にあの女に、あれを見せてやろう。車を走らせ、女のマンションへ向かう。



16.



 「まあた、来やがった。」と、女が迎える。

 「いけないか?」

 「上がんなよ。」

 「ギャラだ。」と、女に2万円を渡す。

 「あ、ありがと。このために来たの?」

 「見せたい物があるんだ。出掛ける準備をしてくれ。」

 「ふうん。」と考えてから、「取り敢えず、あがんなよ。」

 トレンチコートの男が部屋に入ると、女は、ぶかぶかの部屋着を脱いだ。下はパンティ1枚。裸を見せたのだから、もう気にしない、という訳か。デニムのパンツをはいて、ブラジャーを装着する。床の上の衣類の山の中からシャツを引っ張り出して袖を通し、部屋に張られたロープにぶら下がっているハンガーからジャケットを取って羽織る。

 ショルダーバッグを引ったくって、「行けるよ。」

 2人、外に出て、階段を降りる。

 「寒くないか?」トレンチコートの男が訊くと、

 「平気。てか、昨日と、おととい、寒かった。あの先生、気が利かなくって、私が鳥肌立っているのに、部屋を暖めないんだから。」

 それには、気付かなかった。「すまん。」

 「いや、あんたじゃなくって。」

 「だが、すまん。」

 トレンチコートの男がマンションの前に止めた車に乗ろうとすると、

 「車、買ったの?」

 「借りたんだ。明日の仕事に使う。」

 女を助手席に乗せて出発。郊外に向けて車を走らせる。

 女は、いつになく上機嫌だった。拳でドアの縁を叩きながら、鼻歌を歌ったりして。

 「親はいるのか?」と、訊く。

 「もう、この世の人じゃない。」

 「両方とも?」

 「父親の方。母親は、知らない。」

 「離婚でも?」

 「らしい。よく知らない。」

 この話題は、やめよう。

 「まだ、死にたいか?」

 「うん。でも、仕事見つけようと思う。」

 どうしてそんな気持ちになったのか、訊きたくなる。でも、質問攻めは、良くないな。しばらく勝手に歌わせておこう。


 ほどなくして、例の河川敷に到着。

 わざと、ドアを置いた地点から少し離れた所に車を止める。

 「降りよう。」

 ふたり、車を降りて、薄茶色の葦原を歩く。

 遠くに小さくドアが見えて来る。トレンチコートの男は、その方へ真っ直ぐに進む。女は、ただ付いて行く。

 ドアのすぐ近くに着いたころ、「これ、なに?」と、女。

 「通ってみな。」

 「あ?」

 「いいから、通ってみな。」

 女は、訝しげにドアを見つめる。そして、ドアの前まで行き、ドアノブに手を掛ける。一瞬、考えてから、扉を開く。単に、葦原が続いているだけ。そっと通り抜けて、反対側に出る。トレンチコートの男の方を向いて、「なに、これ?」

 「突破口。」

 「は?」

 「突破口だよ。」

 「これ?」女は、振り返り、あらためてドアを見つめる。そして、無言で、きちんと扉を閉める。

 「インスタレーションだ。俺の作品。」と、トレンチコートの男。

 「インスタレーション。」女は、つぶやく。

 風が一陣、葦を騒がせた。女は、うつむき加減に、「つ、つまらん。」

 「ん?」

 「え、いえ、ごめんなさい。でも」と再びうつむき、「つ、つまらん。」

 「駄目か?」

 「突破口って、もしかして。」女は、トレンチコートの男の目を見る。「非常に、くだらないけど、でも」と、視線を落として、「ありがとう。」

 女は再びトレンチコートの男の目を見る。男の顔は、満足げだ。

 「さあ、行こう。」と、トレンチコートの男。

 ふたり、車に戻る。「今日は、少しドライブに付き合ってくれ。仕事の下見に行きたい。」

 高速道路をゆっくり走る。途中、サービスエリアで食事をして、午後の遅い時間に目的の海岸に着く。


 確かにリゾート地には違いないが、リゾートビーチと言うには、いささかしょぼい。一応、砂浜が広がり、背後に白いホテルが建っているが、なんとなく陰気だ。

 既に海の季節ではなく、人は少ない。ウェットスーツを着込んだサーファーが、ちらほら波間に見える程度。

 地図を取り出す。海岸に沿って、貸別荘がいくつか並んでいるはずだが。

 「あった。」

 百葉箱みたいなコテージが、数件、かたまって建っている。そのうちのひとつ、砂浜に突き出て建っているのが、明日の仕事場になる。

 近付いて、様子を見よう。

 車を降りると、潮風の匂い、波の音。

 女は、訳も分からずに付いて歩く。傍目には、貸別荘を借りに来たふたりが、物件を見に来ているような態だろう。

 誰もいない。周辺に人の気配がない。オフシーズンという訳だな。

 コテージの周囲をひと回りして、出入りできる場所を確かめる。表に玄関と、横っ腹に勝手口みたいな扉がある。他に出入り口は無い。アルミサッシの窓にはカーテン。カーテンさえ閉めておけば、外から中が見られる気遣いはない。建物の作りは安っぽいから、音は外部に筒抜けだろうな。波の音も静かなものだから、発砲したら、付くにいる人には聞かれる。仕事を終えたら、とっとと立ち去らねば。建物の中には入れるかな。できれば、間取りが知りたい。玄関を試してみる。鍵が掛かっている。勝手口にまわってみたが、やはり施錠されている。諦めよう。

 女は、トレンチコートの男の行動を終始黙って見ていた。

 ひととおり下見を終えて帰ろうとすると、女が、「ここで誰か殺るの?」

 それには答えず、「お前、パスポート持ってるか?」

 「去年の春、台湾へ行ったばっかしだよ。でも、なんで?」

 「こんなところへ来たら、本当のリゾートビーチへ行きたくなった。」

 「モルディブとか? あんたは、持ってるの?」

 「まとまった金ができたら、どこか外国へ行こう、と思いつつ、虚しくパスポートの更新を続けてるって訳だ。」

 「本物持ってるの? あんたの職業だと、偽造する職人とか、知り合いがいるんじゃない?」

 「合法的にパスポートが取れるんだから、偽造する必要はない。偽造といや、フィリピンに行くと、そこで長く滞在するビザを偽造してくれる友人がいる。」

 「は、便利な友人。」

 「うん。フィリピンで、のんびりするのも、いいな。」

 女は、興味なさそうに、鼻歌を歌い始めた。

 ふたり、車に戻る。日没が近い。

 帰りも女は上機嫌だった。マンションの前で車を降りる時、女は、振り向きもせず、「じゃあね。」と明るく言ってロビーに入って行った。

 今夜は、飲まない。明日は久しぶりに銃を使った仕事をする。



17.



 朝。

 空一面に、ぶ厚い鉛色の雲が広がっている。リゾート向きの日ではない。殺し向きではあるが。

 実包の装填は、昨夜のうちに済ましておいた。

 双眼鏡も買った。

 ドライヤーも買ってある。ぬかりはない。シャワーを浴びよう。

 携帯の電源は切っておく。大仕事の前は、いつもそうする。理由は特にない。ジンクスみたいなものだな。

 さて、身体を洗って、身支度を整えて、出発。


 高速道路を安全運転で。途中、サービスエリアで軽い食事をして、海岸に着いたのは正午に近かった。

 例のコテージが見える場所に車を止める。そこからコテージまでの距離は、およそ100メートル。双眼鏡で見てみる。

 カーテンは全部閉まっている。建物の中の様子は分からない。

 ターゲットの女性は、まだ来ていないのかな。

 しばらく眺めていると、つばの広い帽子を冠り、派手な柄のワンピースの上に短いコートを羽織って白いボストンバッグを持った女性がコテージに近付いて行く。双眼鏡で顔を確認。間違いない。

 女性は、コテージの表のドアの鍵を開けて、中に入って行く。「行動開始。」車を降りて、一旦コテージの反対方向へ行き、大きく迂回しながらコテージへ。片手には、銃を入れたブリーフケースを持っている。

 勝手口にまわる。鍵が掛かっている。銃を取り出し、グリップの尻でドアの窓ガラスを叩く。簡単に割れた。手を差し入れて、鍵をはずし、中に入る。

 狭いキッチンの中で、最初に目に入ったのは、大柄な初老の男がコートを着たまま床に倒れている姿。男の身体の下には血溜まりができている。息はしていない。まさかと思いつつ、近付いて見る。どこからどう見ても、黒コートだ。

 「どうして、お前が、ここに?」

 建物の中は異様に静かで、人の動く気配がない。銃を構えたまま、そっとリビングに入ってみる。誰もいない。建物の一角が仕切られ別室になっている。あの女性は、中に居るのか? ドアノブに手を掛けるが、思い直して、思い切り蹴り開けた。ドアを蹴る音が派手に響いて、その後に蝶番の軋む音が続く。

 ベッドが2つ。そのうちのひとつの上に、さっきの女性がうつ伏せに倒れている。そこにも大きな血溜まり。まだ新鮮な血液だ。しかし、近付いて顔を見ると、既に瞳孔が開いている。

 女性が建物に入った後、建物から出た人物はいない。

 どこにいる? 黒コートと、俺のターゲットを殺った奴。

 ベッド越しの壁に、白い木の扉がある。ウォークインクローゼットだろう。中に居るな。話は早い方がいい。トレンチコートの男は、木の扉に向けて、適当な場所を狙って銃を一発撃った。

 直後、「待った。撃たないでくれ。」と、扉を開けて一人の男が飛び出す。まだ若い。両手にべったりと血糊が付いているのを隠そうともしない。

 「依頼者を教えろ。お前の依頼者が、どこの何者かを教えたら、生かしといてやる。」

 「医者だ。」若い男は、心底脅えてござい、という態で、震えながら媚びるような表情で答える。

 「外科医だろ。知ってる。俺が知りたいのは、名前と住所だ。」

 男は、あっさりと依頼者の名前を明かした。住所までは知らないと言い張ったが、その外科医が経営している医院の場所は素直にしゃべった。

 「どしろうとめ。」トレンチコートの男は、引き金を引く。若い男は床にころがった。

 銃声を誰かに聞かれた可能性が高い。とっととこの場を離れなければ。


 勝手口を開けて周囲を見回し、人の目がないことを確認して歩き出す。

 車に戻り、ゆっくりと走らせる。高速道路を経て、男から聞き出した医院のある場所へ。

 約3時間後、目的の医院を見つけた。

 道幅8メートルほどの道路に面した2階建ての小さなビル。近ごろの整形外科医院の建物は、しゃれたデザインのものが多いが、ここも御多分に漏れず、という訳か。センスの良い配色で作られた建物の窓の中は、明るい照明の光に満ちている。

 医院の向かい側の道路脇に車を止める。そこからだと玄関がよく見える。

 トレンチコートの男は車を降りて、医院の中へ入って行った。受付に、髪を染めた、場違いにセクシーな女のコが座っている。

 近付くと、「今日は、どうされましたか?」と、アニメ声で訊く。

 「診察じゃないんだ。院長先生に話があってね。」と、トレンチコートの男は答える。

 すると、女のコは、少し驚いた様子で、「お待ちください。」と言って奥へ引っ込んだ。しばらくして、出て来ると、「すみませんが、お名前とご用件は?」

 それは先に訊くべきことだろ、と思いつつ、「名前は言えない。ぬきさしならない重大な用件で来たと伝えてくれ。」

 女のコは、困った顔をして再び奥へ引っ込み、数分後、現れると、「今日は診察で忙しいので、後日にして欲しい、とのことです。」

 「診察が終わるまで待つ。玄関の前の車の中に居るから、どんなに遅くなってもいい、仕事が終わったら会ってくれと俺が言っていたと伝えるんだ。俺の用件は、人の生き死にに関わる問題だとな。それから、俺のことを、思い切り怪しい人物だとも伝えてくれ。」

 「もう、そう言いました。」

 「なにを?」

 「怪しい人が訪ねて来た、と言ってあります。」

 「あ、そう。」ユニークな女のコだな。ペロペロ舐めてやろうか。

 トレンチコートの男は、車に戻る。いつまでも待ってやる。出て来いよ。

 などと思っているうちに、居眠りをしていた。目を覚まし、医院の様子を見る。まだ晃晃と明かりが付いている。再び眠る。

 コン、コン。という鈍い音で目が覚めた。

 なんだ? と一瞬、狼狽して見回す。車の後部座席の窓ガラスから、車内を覗き込んでいる男がひとり。白衣を着ている。院長に違いない。

 エンジンを掛けて、窓を開ける。院長は、眉間に皺を寄せてトレンチコートの男を不快そうな目付きで見つめる。50歳前後に見えるが、肌の色艶がいい。

 「あなたですか? 話がある、というのは。」落ち着いた声だ。

 「そうだ。」

 「では、中で話しましょう。」と、院長は顎で自らの医院を指す。

 トレンチコートの男はエンジンを切り、車を降りる。手にはブリーフケースを下げて。

 院長は、さっさと建物の中へ入って行く。

 既に診療は終わっていて、看護師たちの姿はない。さっきのセクシー女も、もう帰ったようだ。晃晃と輝いていた電燈も大半消されている。

 院長は、白衣を脱ぐと、待合室の長椅子の上に放り投げた。そのまま奥へ行く。

 廊下を経て、木の重厚なドアを開けて先に入って行く。トレンチコートの男も続いた。豪華なインテリアの応接室。

 「どうぞ。」と、院長はソファに座るように促す。トレンチコートの男が腰掛けると、

 「で、ご用件は?」

 「殺しの件だ。」

 「なんの、お話ですかね?」

 「今日、俺は指定された場所へ行った。そこで見たものは、ふたつの死体だ。俺のマネージャーと女だ。もうひとり、生きている人物がいた。若い男だ。その男から聞き出して、ここへ来た、という訳だ。」

 院長は、しばらく考え込んでから、「その、若い男、というのは、どうなったんです?」

 「三つ目の死体になった。」

 「なるほどね。」院長は、嘲笑的な表情を浮かべた。「で、確認なんですが、あなたが現場に着いた時には、既に女は死んでいたんですか?」

 「そういうことだな。」

 「じゃあ、あなたは、仕事をなさらなかった訳だ。」

 そう来るのか。「大した言い草があったもんだな。あんたは、ひとりの女の殺しを、俺たちと、あの若い男と、二重に依頼した。俺から仕事の機会を奪ったのは、あんただぜ。約束の報酬は支払ってもらう。」

 「できませんね。」院長は冷たく言い放つ。

 トレンチコートの男の額に皺が寄る。それを見ながら院長は続ける。「そもそも、あんたたちは、詐欺師だ、ペテン師だ。」そう言うと、鼻から荒い息を吐く。

 「ペテン師呼ばわりされるいわれはないぜ。」

 「いいや、詐欺だ。立派な詐欺だ。わたしはね、こういうことに関しちゃ素人だから、よく知らない。殺しの報酬の相場なんてものは、知らなかった。あんたたちは、そこに付け込んで、法外な報酬を要求したわけだ。後から知ったことだが、人を一人殺す報酬なんて、だいたい50万円から100万円が通り相場だそうだね。800万円? 冗談じゃないね。あの若い男は、80万円で引き受けてくれたよ。十分の一だな。しかも2人分だ。悪徳マネージャーさんと、女だ。」

 トレンチコートの男は院長を見つめながら、数回、息をして、「殺しの報酬に、相場なんか無い。あんたは、一度は800万円という額に納得して俺たちに依頼したんだ。契約は成立している。」

 「暴利だ。契約は無効だ。」

 「そうかい。そういう考えか。」

 トレンチコートの男は、ゆっくりとした動作で、ブリーフケースから銃を取り出した。院長は、驚愕したように立ち上がる。

 「落ち着け。座れよ。」

 当然、予想される展開のはずなのに、なぜか院長はひどく狼狽している。

 「座れっつってんだよ。」院長が呆然としながら座り直すのを見て、「ここで、あんたと論争する気はない。今すぐ、この場で500万円を支払うなら、俺は何もせずに出て行く。そして、このことはさっぱりと忘れる。しかし、払わないなら、あんたは、四つ目の死体になる。」

 「脅迫するのか。これは強盗だ。」

 「そうだよ。もんくあるか?」

 「待て。金は金庫にある。」

 「さっさと出しなよ。」

 院長は、立ち上がり、部屋の隅へ行く。そして、乱雑に書籍やファイルが放り込まれた本棚を持つと、手前に引っ張る。本棚の裏に金庫の扉が現れた。院長は扉の数字ボタンを押す。一度間違えて、やり直すと、金庫が開いた。トレンチコートの男は立ち上がって院長の背後に立つ。金庫の中には紙の箱や書類袋がころがっている。現金は、札束が2つ重ねてあるだけ。下の札束は100万円の束だが、上に乗っているのは帯が切られていて、100万円もないことは明らかだ。

 「現金は、今、これだけしかない。」院長は、震えながら言う。

 「いくらだ?」

 「180万円。」院長自身、困惑した態だ。「明日まで待ってくれ。銀行から金を降ろす。」

 「いや、待てない。」トレンチコートの男は、手を伸ばして現金を引っつかんだ。そのままコートの内ポケットにねじ込む。「残りは、どうする?」

 「小切手を切ろう。」院長は、そう言うと、デスクへ行き、引き出しを開けて小切手帳を取り出すと、机上にあるチェックライターで金額を刻印し始めた。

 そんな小切手、なんの役に立つ、と思いながらも、何も無いよりましか、と、したいようにさせておく。

 院長の差し出した小切手を受け取り、それもコートの内ポケットに入れる。

 「現金は、これだけしかないって、ほんとか?」

 「本当だ。信じてくれ。金を惜しんで命を犠牲にする馬鹿はいない。」

 「言うことだけは、筋が通っているな。」これ以上、長居しない方が良い。トレンチコートの男は、「じゃあな。」と言い、引き金を引いた。

 院長は、倒れる時、後頭部を金庫の扉にしたたか打ち付けた。痛かったかな?

 速やかに外へ。車に乗り込み、早々に走り去る。


 適当に走り回り、充分に離れた所で車を止める。既に日が暮れている。散々な一日だったな。シートに浅く腰掛け、仰向いて深い溜息をつく。

 携帯電話を取り出し、古い付き合いの故買屋を呼び出す。相手はすぐに出た。

 「小切手を買って欲しい。額面は320万円。」

 「振出人は?」

 「医者だ。」

 「名前は?」

 「いや、そいつは死んでるんだ。」

 「はあ?」

 「今、そいつの経営する医院の床で、冷たくなって転がってる。」

 「正気か? そんな小切手を買う奴はいない。」

 「無理を承知で頼んでる。」

 「無理なものは、無理だ。そんな小切手、誰も買わない。諦めろ。」

 電話は切れた。舌打ちするしか無い。思い直し、別の、登録されている番号を呼び出す。

 「なあに?」女の声。

 「切実なお願いだ。聞いてくれ。」

 「なんなの?」

 「今から俺とフィリピンに行ってくれ。」

 「は?」

 「フィリピンだ。一緒に行って欲しい。今からすぐ。」

 沈黙。お互いに無言が続く。

 「いったい、何を言い出すの?」と、女。

 「行けないのか?」再び、短い沈黙。

 「ごめんなさい。ついて行けない。」

 トレンチコートの男、無言のまま。

 「そんなこと言うなら、もう二度と電話して来ないで。」電話は切られた。



18.



 深夜、トレンチコートの男は、自宅の前に居る。

 家を出たのは、何日前だったっけ?

 まだ10日も経っていないはずだ。1年にも感じるな。

 コートの内ポケットから、現金を取り出す。180万円か。ちょっと少ない。

 ま、いいか。

 近所のコンビニで買った封筒に全部入れる。

 何か、書こうかな。「生活費の足しにしてくれ」とか。書くまでもないか。よそう。螺旋階段を昇り、入り口の前へ。中は静かだ。眠っているな。新聞受けの中に、現金入りの封筒を放り込む。しばらく耳を澄ますが、変化はない。「これで、いい。」

 螺旋階段を降りる。停めておいた車に乗り、ゆっくりと走らせる。

 見晴らしの良い所へ行こうか。近くに小高い丘になった所があったはずだ。

 車を止める。

 街は暗いな。夜景というほどのこともない。

 「これ以上、することは、何にも無い。」トレンチコートの男は、こめかみに銃口を向けて、引き金を引いた。

(了)


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