プロローグ
プロローグ
燦々と降り注ぐ太陽。青々とした葉を広げる木々。空に高々とそびえ立つ工芸品のような入道雲。
窓の外の光景を見て、詩的な表現で好意的に受け止めてみる。……駄目だ。いまいち。机に頬杖をついて、小さくため息をつく。
清掃業者に刈り取られていく雑草。ユラユラと陽炎を立ち上らせる熱気。肌に突き刺さる有害な紫外線。洗濯物を取り込まないといけないのかと焦らされる積乱雲。
うん。こっちの方が僕には合っている。
蝉の声と草刈り機のデュエットが耳に付く。窓一枚隔てているおかげで大した音ではないけれど。
窓の外は灼熱地獄だというのに、教室の中は至って快適だった。エアコン様様だ。僕達の時代には教室にエアコンなんて物はなかった。あったとしても情報処理室だとか、職員室くらいのもので、職員室に行っては「先生だけずるい」と文句を言ったものだ。だから夏といえば、窓を全開にして、うだるような暑さと蝉の声に顔をしかめながら下敷きを団扇代わりに涼むのが普通だったのだが、今の時代はほぼ全室冷暖房が完備されているらしく、窓を開けず、締め切って涼むのが普通らしい。蝉の声もあまり聞こえず、勉強するにはもってこいの環境だ。
学校は勉強をするところだから、勉学に打ち込みやすい環境作りは必要だろう。しかし……これは快適すぎやしないだろうか。今の子が羨ましい。
改築されて綺麗になった校舎を見て、僕はそう思った。
「みぃ~や~びちゃんっ」
横から声をかけられ振り向く。が、頬に何かが当たり、途中で止まった。横目で見て、犯人を特定する。
「春音、何をしているんですか」
「んふふっ。引っかかった」
半眼で彼女、二羽春音を見る。
艶やかな黒髪を後頭部でまとめ垂らした、いわゆるポニーテールをユラユラと揺らして隣の席に座る春音はニシシと笑っていた。クリンとした大きな瞳はお母さん譲りでとても愛らしい。いつもニコニコと笑顔の絶えない彼女は、まさしく目に入れても痛くない我が自慢の娘だ。
「ぼーっと外なんか見て、どうしたの?」
「特に何も。昔見た光景だな、と思っただけです」
春音が首を傾げて外を見る。しばらくして「なるほど」と呟いて視線を戻した。
「校庭を見下ろすなんてこと、学校に通ってないとそうそう見ない光景だよね」
その通り。教職に就いたりすれば話は別だけど、大多数の大人は社会に出ればこの光景を見ることは極端に少なくなる。事実、短大を卒業して十七年。低い位置から校庭を見ることはあっても、上から見下ろすことは、授業参観などの催し物のある時しかなかった。感慨深くなるのも当然だ。
「いつも明るいパパが物憂げな顔をして外を見てたから心配したよ」
「僕だって常に気分が高揚しているわけじゃないんです。今日の晩ご飯は何にしようとか、明日のお昼のお弁当は何にしようとか、春音のブラウスのボタンが取れていたから、付け直さないといけないなとか。これでもいろいろ考えてるんです」
日頃の家事を思い出し、指折り数える。春音のお父さんとして、そして専業主夫として、やるべきことはたくさんある。それなりに重労働なのだ。ただし、もちろんそれらは自分の娘や息子にしてやるのだから、今まで一度も苦痛だと思ったことはない。
「えへへ。いつもありがと」
春音の素直な感謝の言葉に心が癒される。まったくいい娘を持ったものだ。長男の孝典も、これぐらい素直なら……まあ、今は遅い反抗期のようだから、仕方ないと言えば仕方ない。思春期には誰だってあることだ。むしろ順調に育っていると喜ぶべきだ。……でもやっぱり邪険にされるのは正直なところ、心にくるものがある。
ちらりと教室を見回せば、少しずつ教室に人が戻ってきていた。時計を見ると、お昼休み終了まであと十分を切っていた。
「地京さん。次の数学のレポートやってる? 良かったら見せてほしいんだけど……」
走り込んできた柏井さんが僕の席の前に座り、手を合わせた。毎度毎度この子は……。
「もうすぐで試験だというのにそれでいいんですか? 赤点取っても知りませんからね」
呆れつつも、机に広げていたノートを彼女に渡す。
「ありがとう! 地京さん愛してる!」
柏井さんが両腕を広げ、僕の頭を抱きしめた。引き寄せられた頬にむにゅっと柔らかな感触が伝わってきて、それ゛が柏井さんの胸だと理解すると、頭の中が一瞬にして真っ白になった。
「それじゃ、ちゃっちゃと写すわね」
パッと離れた彼女は背を向け、机に向かった。僕の様子には気付かなかったようだ。
「パパ。顔真っ赤だよ」
「……知ってます」
そっと耳打ちしてくれた春音から顔を背け、頬に手を当てる。熱い。
いくら相手が女の子とはいえ、年端の行かない子の胸に触れて緊張するというのは、さすがに純情すぎるだろう……。ガックリと肩を落とし机に突っ伏す。木材の天板が冷たくて気持ちいい。
五限目開始まであと五分を知らせる予鈴が鳴る。廊下側から複数人がバタバタと走る音とさっきの柏井さんと同類の会話が飛び交う。
授業参観でもないのに、どうして僕がこんなところにいるんだろう。喧騒を耳に、ふとそんなことを思う。
私立永国高等学校。街の中心部から少し外れた、長閑な田園風景の広がるところにある進学校だ。広々とした校舎と校庭、静かな環境と治安の良さに定評があり、某雑誌に掲載される「子供を通わせるならここ!ランキング」に毎年名を連ねる、親御さんも安心な優良校だ。また当の受験生諸君からも、街から離れていながらも校門出てすぐそこの駅から電車一本で街の中心部まで行けるという交通の便の良さで人気のある高校でもある。
その駅も昔は無人の券売機があるだけだったのに、今じゃ自動改札口があるらしい。時間の流れを感じる。
校則では常時携帯するようにと決められ、しかし誰もが携帯していない生徒手帳をスカートのポケットから取り出す。ここだけはいまだレトロな手帳型で、磁気カードではない。
表紙を捲る。
『総合学科 S48018 地京雅』
地京は僕の旧姓。雅は本来の名前から取っている。手帳に貼られた証明写真には永国の女子制服を着た女の子が写っている。先月までの僕とは似ても似つかない姿。強いて言えば僕の母のアルバムに写っていた昔の母がこんな顔だったと記憶している。
我が子の春音には負けるが、なかなかに可愛らしい子だと思う。親馬鹿? 親とはそう言うものだ。
「パパ、自分の写真を見つめてどうしたの?」
「春音は可愛いなと思って」
「……どうして春音なの?」
こうして平日昼間にも我が子と一緒にいられるのはとても嬉しい。が、それがまさかこうして、一度卒業した高校にもう一度入学し、さらには我が子と机を並べて授業を受けることになろうとは誰が思うだろうか、いや思うまい。
体を起こし、再び窓の外へ視線を向ける。真上に上った太陽が大地を熱し、景色をユラユラと揺り動かす。
この今の状況も、陽炎が見せる幻だったら良かったのに。
そんなことを考えて、僕、元主夫の三十八歳、二羽雅則は憂鬱な気分になるのであった。




