我に牙を剥くなど千年早い
今宵も郊外の森に少女の声が木霊した。
「次は二連でいきますわよ!」
「ああ。遠慮せず打ってこい」
風のように疾駆するマリーの連続蹴りを、俺は目に魔法力を留めた“魔眼”できっちり捉える。
魔王化した腕で払うように防御。二撃目の蹴りを打撃のそれから切り替えて、俺の腕を足場にするように踏み台にして、マリーは高く飛んだ。
天高く昇った月に、彼女の猫耳尻尾のついた半魔族化したシルエットが浮かぶ。そのまま今度は空中を“蹴る”と、マリーは再び森の闇の中へと吸い込まれるように消えた。
魔眼で探っても姿が見えない。さすが暗殺が得意分野と自負するだけのことはある。
俺は数日でマリーと組み手が行えるようにまでなった。マリーは大分手加減しているようだが、魔王の力を一部とはいえ解放させるだけで、学園の劣等生な自分とは能力的に別人だ。
かすかに背後から気配を感じた。腕から足に魔法力を移動させ、瞬時にその場から飛び退くと、次の瞬間――
マリーの首を刈るような上段回し蹴りが、その場で空を斬った。
「今のは少し本気でしたのに、それを避けるなんて流石ですわ魔王様」
「良い教師のおかげだな」
蹴り足を宙でぴたりと止めて、マリーは「は、恥ずかしいですわ」と声を上げた。
ゆっくり足を降ろしながら彼女は俺に告げる。
「魔王様……ずっと防御の訓練をなされていますが、そろそろ攻撃の訓練もよろしいのではありませんか?」
組み手は基本的に防御のみで、マリーの攻撃を受けることに集中した。
魔王の力は正直……自衛のために使うにしても強すぎる。
「今はこれで良い」
「わたくしに遠慮なさっているのですか? わ、わたくしは……魔王様の与えてくださる痛みなら、むしろ喜びですわ。仮に魔王様の手にかかって死ねるなら、それは二番目に幸せなことですもの」
魔族全体の価値観かマリーだけのものかはわからないが、極端すぎるだろ。
「ちなみに、一番はもちろん魔王様とのけ、けけ……はうわあぁ」
両手て頬を包むようにして、マリーは腰の辺りをくねらせながら悶絶する。尻尾も激しく左右に揺れた。
「約束成就のため……魔王様! わたくしをその力で屈服させ、蹂躙してくださいませ!」
言うやいなや、マリーは俺に牙を剥いて襲いかかった。
先ほどまでの訓練の雰囲気ではない。闘争本能に火が付いた、まさしく野獣のようだ。
「クッ……仕方あるまい。相手をしてやろう」
現状でどこまでできるのか。試すにはうってつけの機会かもしれないが……相手は魔族とはいえ女の子だ。
迷う俺にマリーは猶予を与えない。獣の腕と化した彼女の指先に、鋭利な爪が月明かりを煌めかせていた。彼女が振るう腕の軌道を魔眼で観る。ただ視界に入れるのではなく、つぶさに観察するよう意識すると、風よりも迅いマリーの攻撃を見切ることができた。
フックのような大振りな一撃をかいくぐり、彼女の懐に入ったところで……俺は動きを止める。
「どういたしましたの魔王様? わたくしの腹部はがら空きですわよ」
「あ、ああ……その……だな……」
「申し上げた通り、魔王様にでしたらこの命を捧げると心に決めておりますから」
まるで聖母のような笑みを浮かべながら、彼女の腕がそっと俺の背中に回されて……そのまま爪が背骨から肉をそぎ取るように切り裂いた。
「――ッ!?」
「さあ、わたくしとダンスをいたしましょう?」
学園の制服には防御魔法がかかっていて、激しい剣術の訓練でもほつれることさえ無かったのだが……マリーの爪は紙でも切るように易々と切り裂き、俺の背中をえぐった。
熱い。痛い。
「あぁん♪ 魔王様の血がしたたっておりますわね」
鮮血に濡れた爪をマリーは愛おしげに舐める。
「やってくれたなマリー」
きっと本来の魔王にとっては、可愛い飼い猫に引っかかれた程度の事なのだろう。
入学以来、訓練やレナとの剣術の特訓で生傷は絶えなかったが、命の危険を感じるような致命傷は無かった。
熱い……熱い……熱い熱い熱い熱い。
まるで身体の中に溶鉱炉が出来たみたいだ。両腕が魔王のソレへと変貌する。トゲのような鱗に覆われた竜の如き姿だ。
いや、腕だけじゃない。足も胴体も……全身が竜となる。背中の傷もふさがっていた。
そっと自分の顔に触れてみると、元の形ではないというのだけは手触りで理解できた。
マリーがブルリと震える。
「ま、魔王様が復活なさいましたわ!」
何を言ってるんだ。俺は人間だ。
心の中で強く否定した。だが、そんな気持ちさえも、胸の内に燃え上がった黒い炎に焼かれて消し炭になる。
マリーが再びこちらに飛びかかった。
「もっと、もっと魔王様らしくなってくださいませ!」
彼女の大振りな攻撃に身体が咄嗟に動く。獣毛に覆われた手首をぐいと掴んで投げ捨てた。マリーの身体は森の巨木に叩きつけられ、衝撃で大樹の幹が折れて倒れる。
それだけで終わらなかった。俺を中心に周囲の草木が枯れ果てる。まるで命を吸い上げるようにして、俺の肉体に魔法力が満ちていった。
「――ッ!?」
声にもならない悲鳴をあげ、地面に伏すマリー。俺は……その哀れな姿に――
“我に牙を剥くなど千年早い”
そう、心の中で呟いた。圧倒的な力で他者を蹂躙する快感が脳を震えさせる。
あのマリーを容易く退けたのだ。ゆったりとした足取りで、倒れたままの彼女の前に歩み寄る。
「……ハァ……ハァ……ううっ……」
うめくマリーに俺の口は勝手に動いた。
「どうした? 苦しいか?」
マリーは俺の問いかけに応える余裕さえないらしい。
「そうか。では……」
“今すぐ楽にしてやろう”
俺の魔眼が一瞬先の未来を俺に見せつける。
彼女の頭を踏み砕く。その最後の時にマリーは怯えるのではなく、笑っていた。涙をこぼしながら笑っていた。歓喜と絶望を同時に味わっているような、その表情に――
ゾクリとした寒気が背筋を駆け抜けて、胸の内から湧き上がったどす黒いマグマのような殺意は霧散した。
マリーの隣にそっと膝を突き、彼女の身体を抱き上げる。
「ごめんマリー……加減ができなくて」
「あら……あら……まるで魔王様ではなく、タイガ様のような口振りですわね」
マリーはどこか残念そうな表情を浮かべた。
気付けば彼女を抱き上げる腕も、元通り人間のものだ。
「ん……あ、ああ。我としたことが迂闊であった」
マリーは口を開くのもやっとという感じだ。
「本当に……魔王様は変わってしまいました……のね」
力無く呟くと、マリーは俺の腕の中で頭を垂れた。呼吸はあるが、その身体はまるで糸の切れた操り人形のようにぐったりとしている。
しかも半獣人の姿のままだ。
「まずいな。ど、どうしよう」
彼女を背負って行ったとして、このまま学園の敷地に入るのはまずそうだ。
まだ月は高い。しばらくこのまま、彼女の意識が戻るまでじっとしているしかないか。
しかし……さっきまでの自分が信じられない。
自分の生命の危機に身体だけじゃなく、心まで魔王になりそうだった。
いや、あれは危機を脱するためって感じじゃなかったな。
力を振るうことに喜びを感じていた。蹂躙することを楽しんでいた。
俺……心まで魔王になりかけてないか? もしかして、魔王の力を使えば使うほど……。
勇者への道が遠のくどころか、魔王へのレールを敷かれてしまった。自分の手のひらに視線を落としながら、そんな事を考えた。
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