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恋だとか愛だとかに模範解答はありません

作者: しましまに

 それはいつもの日常。

 ケンカした弟を置いて近くの公園に行くと、鈴のような高い音が植え込みの中から聞こえて、何だろうと屈んで見てみた。

 そこにいたのは綺麗な金茶の毛並みをした子猫。青灰の瞳に私を映して、にあと鳴いた。

 とてもとても可愛い子猫。

 そして。


 そして時が過ぎると、子猫は、深い青い瞳の男の子になった。

 うん?


 猫って忙しい時に限って足元にまとわりついて、踏んじゃいそうにならない?

 おねだりは可愛いくって、つい絆されそうになるけれど、でもホントは面倒っていうか邪魔っていうか、なんでこんな時ばっかりって思うのよね。

 今、まさに私はそんな状況で。

「もぉ、あっちに行ってて」

 足元ならぬ腰にぐるりと腕が回されて、背中にべっとりと張り付いた物体は、私の不機嫌そうな声に怯みもしない。

「いやだ」

 猫のくせに猫じゃない彼は、ちゃんと言葉も理解するし話しだってできる。ただ言うことを聞かないだけで。

 とっても邪魔なんだけどな。手元が滑って、包丁で指を切ったらどうするの?

 いやそれよりも、コンロに掛けられた中華鍋の油がいい具合に熱せられて、そろそろコロッケを放り込みたいんだけど。

「ジョ、じゃなくて沖矢君。お姉さんは次、油使うから危険だよ、はい離れて離れて」

「すうは、すうであって俺の姉さんじゃない」

 きゅっと腕の力が強くなって、やめて、耳元でしゃべらないで。くすぐったい。

「もぉ、ちょっと学いるんでしょ。がーくー、たーすけーてー」

 この状況には関係ないが、弟の名前は学と書いてがく、私は数と書いてすうという。二人合わせると数学なんて笑えない名前なのは、祖父が数学者になりたかったからだ。結局家業を継いだけれど。

 ひょいとキッチンを覗きこんだ弟は、私と背後に取ついた人物をゆっくり瞬きしながら見て、深く息を吐く。

「姉ちゃん、俺には無理。いいじゃん、いつもの事だろ。なあジョシュ」

 全然助けにならないことをぬかす弟に、むっとしてしまう。

「実の姉を助けない弟なんて。このままお姉ちゃんを見捨てるなら、夕食のコロッケ、学の分無しだから」

 低い声で脅しをかけてようやく弟は、大きく育ち過ぎた猫の襟首をつかんで、私から引きはがした。

「なんで、すう。ねえ」

 まるで鳴き声みたいに、私の名前を口にする猫は、雑誌から抜け出したように背が高く端正な顔立ちをしているくせに、その深い青い瞳は潤んでいて。

 う、なぜだか私が悪いことをしたような気分。

 可愛いだなんて、かわいそうだなんて、思わないんだからね。

 固くそう思っていたのに、揚げたてのコロッケは、弟より大きいものにしてしまう私だった。


 初めてジョシュに、おっと間違えた、沖矢君に会ったのはもう小さな頃。

 にあにあ鳴く子猫を抱っこした彼は、植え込みの陰に隠れるようにしていて、生え際は黒いのに毛先は綺麗な金髪で、深い青い瞳と白い肌をしていた。

 腕に抱いている猫ととても似ていて。

 見慣れない容貌にぽかんと見つめてしまった私だったが、威嚇をされてしまい、少しずつ後ろに体を下がらせた。

 今なら、複雑な事情で日本にやって来た彼はとても怯えていたのだと分かるから、見て見ぬふりをして家に帰ってしまっただろう。

 でも当時の私は、後退して威嚇されない距離を取って、芝生の上に腰を下ろした。

 子どもの頃の私って、自分でもばかなの?と思う。

 最初は珍しくて猫や男の子を見ていたが、ぽかぽかした陽気だし、ただ座っているだけだと退屈になってしまいウトウト始めるし、じゃあ帰れよと自分自身に突っ込みたい。

 それでも、ふと気が付くと私と子猫と少年の距離が少し縮まっていて、青い瞳でこっちを見ている。

 私がへらりと笑うと少し遅れて、彼もピンク色の唇を上げて、小さく笑んだ。言葉が通じない私達だったけれど、猫を互いにそっと撫でると、なんとなく心が通じるようで不思議。

 その彼が、大好きな沖矢先生の息子になったと知ったのは、しばらく後の事だった。


 子猫のような男の子は、私と弟との幼馴染に、沖矢 ジョシュになった。


 一家で小さな工場を営む家の長女として生まれた私は、真面目ないい子だった。

 少なくとも誰かに疎まれているなんて思いはなかった。

 けれどもそれは自分自身の評価にすぎなかったと知ったのは、もうすぐ卒業を控えたある日の教室で。

「雄島さん、あんた嫌われてるよ」

 そう言われた。

 今は違う高校に通っているが、中学3年の当時はクラスメイトだった。

 彼女の言葉の意味も、冷たい目線を向けられる理由も分からなくて、言葉に詰まってしまい、ただただ友人の顔を見つめた。

「なんでって顔してるけど、それって分からないふり?それとも、天然に鈍いの?」

「え」

 夕暮れの教室には私と友人しかおらず、窓から差し込んだ夕日の欠片が彼女の表情を隠してしまう。だから笑っていいのか怒っていいのか、分からなくて。

「沖矢君の事、って言えばわかるでしょ?」

「ジョシュ?」

「そう。幼馴染の立場を利用して、あんた他の女子が近づかないようにしているでしょ?」

 彼女の言葉に息を飲んだ。

「そんなこと」

「もうすぐ私たちは卒業よね。だからその前にって告白している子、たくさんいるよ、私もそうだけど。なんて断られるか、あんた知っているの?」

 私、知らない。

「ジョシュはただの幼馴染で、近づかないようになんて、そんな」

「これ以上女子に嫌われたくないなら、もう少し考えた行動したら?名前を呼び捨てなんて、他の誰も

していないでしょ?」

 これで会話は終わりとばかりに鼻で笑った彼女が、私の横を通り過ぎる一瞬、小さな声で囁いた。

 釣り合うとでも思っているの、と。


 彼女からの鈍いとか嫌いとかの言葉に落ち込み、なんでそんな事言われるのと憤慨し、じゃあどうしたらいいのと振り返り。少しの涙と共に導き出した解答は。

 結論、彼は私の特別じゃない。学と同じ、二人目の弟。

 対策、行動には細心の注意を、そして、二度と名前では呼ばない。


 高校に入ったばかりの頃は良かったな。

 単に、家から一番近い公立校を選択したのだけど、教室に入ってみれば同じ中学の子は誰もいなくて、心細くもあったけれどほっとする自分もいて、女子の目を気にせずにいられた。

 だのに、その秋に沖矢君が同じ高校を志望してると知って青くなり、そりゃあもう、お前は担任かっていうくらいに必死で止めた。

「ね、考え直そうよ。ここより良い高校だって合格範囲内じゃないの」

「ここより良い学校って、そこにはすうがいないけど?」

 いやいやどんな基準なんだ、それ間違っているから。

「ね、沖矢先生だって他の高校勧めていなかったかな。先生は何て言っていた?」

「相変わらずすうは先生先生って。あいにく、その先生はどこでもいいと言ってたけど?」

「だって先生はお義父さんじゃない」

 声のトーンが低くなって目を眇めて睨まれる。ううん、先生の名前を出すのは失敗したようだ。

「ね、もう一回よーく考えようよ。そうしたらお願いを聞いてあげなくもないかな」

「それ、なんでも?本当に?」

 ハンバーグでも豆ご飯でも、ええ、リクエストに答えようではないか。

 うんうん頷くと、彼は少し考え込んで青い瞳を向ける。駄目押しとばかりににっこりして、もう一度頷いて見せた。

「じゃ良く考える」

 良かったこれで平穏な高校生活が送れる、と安堵して胸を抑える。

「その代わり、願いを叶えてくれるんだよね。ね、すう?」

 ええっと、なんか笑顔、黒いような?


 彼の要求通り、受験までの勉強を見ることになってしまった。

 本当はうちのリビングで勉強するつもりだったのに、強硬な却下を受けて結局、私の狭い部屋で開催。

 同じく受験生である弟も誘ったのに、部屋に近寄りもしないとはどういうことなのかな。おい。

「というか、私が家庭教師する必要なんてないでしょ」

「そんな事ない。数学は好きだけど国語苦手だし。すうと反対?」

 ええそうです、私、数学苦手ですけど。ぶつぶつと文句を言いながらも、小さな机を挟んで、開いた問題集とノートを見つめ合って。

「頭、ぶつかるよ?」

「うん」

「もう少し離れてもいいよ?」

「うん」

「うんうん言うだけでちっとも直っていないんだけどな、沖矢君?」

「すう、なんで俺の事、ジョシュって呼ばないの?」

 顔を上げると、思いのほか近い距離に青い瞳があって、身を引きそうになるのをなんとかこらえた。ここで動揺を見せたらまるで意識しているみたいで、そんなの悔しい。

「大人になったから」

「大人、ね。てっきり誰かに何か言われたのかと思ったけど」

 ふっと軽く息を吐きだしてにやりと笑う彼は、過去の経験から大人びた思考と雰囲気を持っていて、そうと知っていても、私の方が年上だよねと言いたくなった。

「誰にも何も言われてない。けど、ジョシュって呼ばれたくないっていう噂は聞いた」

「それは、俺は、見た目こうだから。さらにこんな名前じゃどうしたって日本人に見えないのが嫌なだけ」

 すうは呼んでいいのに、そう言って瞼を伏せる。小さく漏らすような声。

「俺、日本人が良かった。こんな金髪じゃなくて黒い髪で、黒い目になりたかった」

 ゆっくり瞬く、吸い込まれそうな青い瞳。

「すうと同じに」

 …そうしたら。


 そうしたら、私は、どうしていただろう。

「今のままでいいと思うけど?」

「すうは、いいの?」

「う、ん。ニアみたいで、私はいいと思う、けど」

 今はもういない、黒と金茶色をした公園で出会った子猫のニア。そしてニアに似た、子猫の様な男の子。

「じゃあ俺、このままでいい?すう?」


 いや確かにこのままでいいと言いました。言いました、が。

「なんで私と同じ高校に合格しているの…」

 考え直すことを条件に勉強を見ていたんじゃなかったのか、何だったんだあの時間は。がっくりとうなだれた私の背中に突き刺さる弟の一言。

「ばかだな姉ちゃん。あいつは計算高いんだよ?」

「人聞きの悪いこと言うなよ、学。ちゃんと考え直した、けどその結果、やっぱりここを受験しようと思っただけ。なあ、すう。合格祝いは?」


 にっこり笑顔で無理矢理合格祝いをもぎ取り、いやいや、これはもう忘れるんだった。

 学校内では親しくしないという約束を交換条件にして、毎日お弁当をせっせと作る私。

 うちは母親も働いているので、家事は分担制。

 朝食は母が、昼の弁当は私が担当し、弟の分も当然作るつもりでいたから、沖矢君の分を作っても負担はない。

 沖矢君の家は父子家庭だから。

 彼の実の母親は、彼を連れてはるばる日本にやって来て、沖矢先生と再婚する筈だった。

 私は先生が大好きで、好きすぎて将来先生を支える看護師になりたいと思う位だったので、結婚すると聞いてそれはもうショックを受けた。

 けれどもその母親は何も言わずに、日本から逃げるように出て行ってしまった。彼を一人置き去りにして。

 もう言葉にならない。

 事実を知ったからには、私にできることって何だろう、毎日考えて考えて。

 そしてその解答は。


 以前より平穏な学校生活では残念ながら無くなってしまったが、学年が違うので幸い校舎が別れていた。全校集会とか行事の際に、注意深く顔を合わさないようにしていれば、まずまず平和と言える。

 一緒に登校や下校をねだられたけれど、優秀な彼は特別クラスで、朝夕の補習のため時間が合わない。断る理由を考えずにすんで、一般クラスで良かったと思えたのは初めてだった。

 中学より人数が圧倒的に増えたというのに、高校でも彼は立っているだけでも目を引く存在で。

「彼女がいるらしいよ」

「当然か、だってかっこいいもんね」

「お弁当、毎日彼女が手作りしているんだって」

 …違います。

 噂なんてあてにならない。


 沖矢先生は町の開業医さんだ。

 事務さんと看護師さんだけの小さな医院の先生をしている。

 毎日とても忙しそうで、私はいつしか汚れた床やトイレの掃除や雑用のお手伝いをしていた。

 看護師志望だからです、でも本当は、大好きな先生の近くにいたかったから。


 ある日、頂いたお仕事も終わり、そろそろ帰ろうかと裏玄関に向かうと、大きな猫がそこにいた。なんで猫って靴の上に座るのだろう、ああ靴つぶれちゃう。

「すうコーヒー飲みたい、淹れて」

 そう言うと、大きな猫は玄関隣にある階段をするすると登っていく。

 医院の二階は住宅スペースになるので、しばらく立ち入っていないのだが、彼の声は微妙にいつもと違っていることに気が付いて、躊躇しながらついて行った。

 たどり着いたリビングキッチンで、勝手に戸棚を漁り、カップとフィルターを準備する。冷蔵庫に保存してあるコーヒー豆は開封するとふんわりいい匂い。

 大きな猫は床に座り込んで、ソファに背を預けるようにして、立てた膝の上に頬を乗せてこっちをぼんやり見ていた。

 これはあれだな。

 彼の行動とか表情とか声音とか、そこから導き出される問題は何か考えて、そして自分の取れる次の行為を模索する。

 人生って数学的。

 私は苦手だけれども。

 大きめのカップに注いだコーヒーを置いて、私は彼と斜めの位置になるようソファに座った。長くなりそうなので、自分のカップと保温ポッドも準備して。よし。

 猫舌の私はふうふうと息を吹きかけつつ、コーヒーを口にする。む、この豆おいしいな。

 気だるげに身じろぎした猫は、ほんの僅かにこちらに身を寄せて、時折深いため息をついたりじっと見つめたりしている。

 ぼんやりすることにも飽きると乱雑なテーブルに手を伸ばし、本の合間にあった綺麗な海のポストカードが目についた。

 その光るような深い青は彼の瞳と同じ。

 きっと、これを送って来た人も、この色に彼を思い出したのだろうと、容易に想像がついた。


 うとうとしていた私の手にそっと触れるものがあって、目を開くと、猫が頭を押し付けてきた。はいはい撫でろと。

 ゆっくり髪を梳くと気持ち良さそうに瞼を閉じて。残念だ、本物ならきっとごろごろ喉を鳴らすところ。

「すう」

 代わりに優しい声。よしよし。

 差し出されたポストカードには見慣れない文字が美しく綴られて、ずっと昔に見せてもらった写真を思い出した。

 輝くような金髪に魅惑的な笑顔を振りまく美女、彼の母親を。

「大丈夫」

 一体何が大丈夫なのか自分自身でも分からなないまま、囁くように言い、猫の頭を撫でる。

 海の向こうから、たまに、本当にたまに届くポストカードは毎回いろいろな消印が押されており、それを手にすると彼は情緒不安定に陥る。

「今回は、一緒に住みたいだって」

 ははと口だけで笑って、聞こえない程の声を吐き出す。

 聞かせたくなかったのかもしれないので、置いて行ったくせにくそったれ、という言葉はスルーしましょう。

「今までの愛してるって文句よりマシかもな」

 こんな時、ドラマの主人公や小説のヒロインは優しい言葉をかけるのかもしれない。

 でも、私の中のどこにもそんな言葉は存在しなくて。

 ただ傍にいるだけ。

 いつもそう。

「すう」

 甘えた声で呼ばれた名前は、私のものと思えないくらい甘くて。そんな甘さには耐えられない。

「私がお母さんだったらよかったね、そうしたら」

 そうしたら、ぎゅっと抱きしめてあげられたのに。

 本当は私、彼の母親になりたかった。たくさん愛情を注いであげたかった。

 けれども、釣り合わないんだって知ったから。

「は…すう、が、母親なんて、絶対いやだ」

 しんみりしていた雰囲気は彼の本気で嫌がる声に、ぱっと払拭された。

「そんなに嫌がらなくてもいいでしょ」

「絶対に、い、や、だ」

 ぷいと背けられた顔、横にある耳は真っ赤に染まっていて、どれだけ力を込めて嫌がっているんだか。

 ほんと、猫って可愛いのに可愛くない。



「すう、俺、別れないから」

 はい?


 三年間頑張った成果、私は看護系の公立大学に合格した。県内とはいえ校舎は交通の便が悪くて、寮に入ることになったが、やっと受験から解放されたことが嬉しかった。

 明日は卒業式。

 自室に戻ると、夕食を食べ終わった後に姿を消した大きな猫は、なぜか私のベッドで身を丸めて眠っていた。屈んでいても長い足先がはみ出している。

 あの高校受験以降、許可した覚えもないが、猫は私の部屋で勝手に寛いでいる。

 まあ猫だし。

 仕方ないとため息つくと、青い瞳を向けてありえないことを呟いた。

 はい?

「別れないって、え?」

 猫のくせして何言っているの?

「だから俺はすうと別れない」

「それ大学についてくるって意味じゃないよね。いや女子寮だし無理。沖矢君だってあと一年高校あるよ?」

「なんでそんな返しするの、すうは。キスもしたのに」

 箱に入れて、それをさらに箱に入れ何重にも封じたはずの記憶がぼんと音を立てて飛び出す。

 彼の合格祝いに強請られたキスはどう言葉を尽くしても諦めてくれなくて。


「誕生日のお祝いには駄目でも、高校の合格は一生に一度。だからいいよね?」

 誕生日なんて365日に1回巡ってくるじゃないか、その度キスをするなんて、普通の日本人の感覚にはあり得ません。

 確かにそう言っていたけれど。

 ああ言ってもこう言っても、大きな猫には全く通じなくて、長々とした口論にいい加減嫌になって、その頬にそっとキスをしたのだった。


「あっ、あれは。だって、今更そんな昔のこと」

「あれからすうは、俺の彼女なのに。それなのに忘れたふり?」

 彼女なんて。そんなつもりじゃ。

「それとも、分からないふり?」

 いつかどこかで聞いたフレーズに無意識に体が固まった。

「俺は弟じゃないし、ニアでもない。知っているよね」

 音もなく大きな体を起こし立ち上がる。たかがそんな動きに、私はどうしてしまったのか急に怖くなって一歩後退りした。

 ここにいるのは弟でもなくニアでもなく、じゃあ、誰?

「わ、私は沖矢先生がす」

「嘘だ」

 怒ったような低い声で、被せるように唸る。ぎらりと光る眼は肉食獣を思わせて、怖い。

「嘘って、そ、んな」

「すう、聞いて。俺、俺はずっとすうが」

「だ、だめっ」

 切なげな声音、その先を聞きたくなくて、その口を両手で塞いだ。掌にもごもごと動く唇を感じて、慌てて手を放し、身を引いた。

「すう」

「沖矢君いいの?全部言ったら、聞いてしまったら終わっちゃうよ?」

 心地よいとは決して言えないけれど、その視線に胸がきゅっと疼くけれど、それでも傍にいられる関係が終わってしまう予感に、私は戦く。

「それでも?」

 ずっと離れない視線に私は合わせることもできない。綺麗な金色の毛先、長い指しか見れない。

「それでも」


 きっぱりとした口調に続く告白は、痛み出した頭に響くがんがんした音にかき消された。いや、単に聞きたくなかっただけかもしれない。

 他の言葉を無くしてしまったかのように、私は俯いたまま、ごめんと繰り返した。

 そうして何度も何度も同じ事を言っている内にふわりと風が動いた気がして、恐る恐る視線を上げると、そこには誰もいなかった。

 いつもの私の部屋。

 もう一度ごめんなさいと呟いて、その日は涙を止めることができなかった。


 あの涙にくれた日も、日々過ぎ行くと、胸を締め付けるような感情は次第に落ち着いて、なるべく思い出さないよう回避していた。

 大学中に、学から、彼が母親の実家に戻るため退学することになったと連絡があっても、実習を言い訳にして、見送りにも行かなかった。

 あんなに日本人になりたいと言っていた彼が、外国に行く決心をしたのは、私のせいだろうか。

 息すら辛く思えても、忙しい日々をこなすには立ち止まっているわけにいかなくて。

 時間は過ぎ去るものだから。


 もう二度と会えないかも、と考えていた彼に再会したのは、学に言われて成田まで車を出した時だ。

 夜勤明けで長時間の運転、慣れない処に加えて混雑した駐車場と、いらいらの元がてんこ盛り。

 そんな中、背の高くない弟の後ろに現れた素敵な外国人カップルの片割れが、彼だった。

 もうもう全然気が付かなくて、背が高い男の人がひょいと屈んで、にやりと笑った顔が近づいた。そして。

「すう?」

 そしてようやく、彼だと分かったのだった。


 離れていた数年の時間は、私たちの関係を変えるだけの効果があったのだろうか。

 いや、外見だけはびっくりするほど変わっていたけれど。その色気、モデルか。

 だけれども、関係はそうはいかない。

 だって、どんなことになっても学は学なように、弟は弟。そして沖矢君もまた弟なのだ。

 第一、綺麗な彼女を連れてきたしね。

 そう思っていた。


 思っていたのに、ええっと、なんでこんな事に?

 体調を崩した彼女を見て欲しいと頼まれて、彼らの宿泊するホテルに訪れた。帰ろうとすると、お礼だとバーに連れていかれた。

「いとこだよ、日本に行きたいって言うから一緒に来ただけで」

 おいしいカクテルを御馳走され、ついつい杯が進んでしまい彼の言葉なんて聞こえやしない。

「嫉妬した?」

 すっかり酔っぱらうなんて私らしくない事をやらかしたら、気が付けばベッドの上。

 さらには、彼に押したお…いやいやあれは夢だから。

 早朝、まとわりつく腕から青くなって震える足で逃げ出して、いやいやいやこれも夢のはず。

 幾日かの後、またもや夜勤明けでふらふらして帰ったら、にっこり笑顔の大猫が、私の親と結婚の話をしているなんて事も、全部全部、夢なんだから。

 だってその場に沖矢先生もいたなんて、逃げ場が無さ過ぎて、夢にしたって悪夢すぎるよ。

 ああ私、白昼夢を見るなんてなにか病気になったんだろうか。それとも働きすぎか。ため息交じりの学の声も遠くに聞こえる。

「前にも言っただろ、計算高いって。あいつは何もかも計算しつくして動く男なんだって、いつになったら分かるのさ」

 

「人生は数学的なんだろ?すう?」


 幼馴染の方程式に、恋だとか愛だとか、そんな解答は無いはずです。

 ましてや猫ならぬ、猫かぶりになんて。


「さて解答は?」


拙い文章を読んでいただきありがとうございました。

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