イオの受難編・②
オリュンポスの山の頂上に建つ、大神殿。
その中央の空いた玉座の隣の、黄金の椅子に腰かけた彼女は、
「な、なんという侮辱ですかっ………!!!!」
バリンッ!!! と、持っていたグラスを粉々に割る!
全身に金銀、宝石のアクセサリーを付け、手にはセンスを持ち、そして背中から煌びやかなクジャクの羽を生やした彼女――――ゼウスの奥方として大神殿に君臨する、《豊穣》と《出産》の女神、ヘラである。
「女王であるこのワタクシに、こんな仕打ちが、あってたまるものですかっ!!! ねえ、貴方もそうお思いでしょう、ヘパイトス!」
「はっ、その通りでございます、ヘラ様」
ヘパイトスと呼ばれかしずいているのは、彼女とはうって変わってみすぼらしい格好に、顔を無骨な鉄仮面で覆っている男神である。
「何年も姿を見せないと思っていたら、あんな人間の小娘とちょめちょめしていたとは! なんという恥知らずの、痴れ者め!」
「…………ヘラ様、申し上げたいことがございます」
「……あら、なんでしょう? 答えなさい」
「はっ、ちょめちょめは、さすがに古い気がいたします。せめて、イチャイチャと…」
「おだまりっ!! そんなことは聞いていない!! 貴方は本当に、ワタクシの《ケツの毛を抜く》のがお好きなようね」
(いやいや、そんな趣味ございません!! 変態ですかっ!!! それも古いし下品な言葉です! おっしゃるなら《揚げ足をとる》とか、もっとオブラートな言い回しで……)
――――とせわしなく思考しながらも、ヘパイトスは口を閉じ、頭を下げて、
「はっ、申し訳ございません、ヘラ様」
「ふんっ、使えない、下僕ね。それで、言いつけていた物は、もう完成していて?」
「と、言いますと?」
「すぐに察しなさい、このウスラトンカチっ! 貴方に作るように命じていた、イチジクの実を象った、新しい耳飾りよ。もちろん、出来ているわよね……?」
「はいっ。今朝方、完成いたしました。イチジクの実には、地中海の真珠を使っておりますので、必ずやお気に召すかと……」
「さすがは《鍛冶》を司る神だけあるわね。貴方の物作りの天分だけは、ワタクシも、オリュンポス十二神に連ねるに値するものだと、常々思っているのよ」
「お褒めの言葉、ありがとうございます。それをお付けになって、ゼウス様とご対面なさるのですか?」
ヘラは少しドキッとし、
「えっええ、そうよ。別にあの男に久しぶりに会うのが嬉しくって、おめかしするわけではなくってよ! そこのところを、心得違いすることは許しませんよ!」
と、そっぽを向く。
「……は、はい」
「そっそれでは、今すぐあの男をここに連れてきなさい! アルゴスと共に…!」
と、ヘラは背についているクジャクの羽を摘み取ると、自立しはばたき、一匹の怪物になる。
「…………」
それは二足歩行の巨人で、口がなくしゃべれない。
「え!? ヘラ様は行かれないのですか?」
「なっ!! わ、ワタクシが行ったら、まるで早く会いたくて、駆けつけたようじゃないッ!!! そ、そそそそんなわけないでしょ! このオタンコナスっ!!!」
「は、はい……」
ヘパイトスは努めて、ヘラの顔が真っ赤に上気していることに、気付かぬフリをした。
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【第二話】 「パパは、ディーテのパパだよぉ~。二つの意味で!」
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ゼウスとヘルメスに続けて会ったことで、神というのはみんな美形なのだと、イオは思っていたのだが、…………この女神と出会い、彼らが真の《美》とは決して近くはないのだと、すぐに思い直すこととなった!
美しき均整のとれた顔つきに、薄く透き通るレースのドレスの下には、くびれた腰つきに、たわわな胸元、ウェーブがかった黄金の髪をたらし、髪飾りの真っ赤な薔薇さえも、彼女の自身がかもし出す魅力の前にはかすんでしまう。
彼女以上に、《美》を現存させる神などいるはずがない。彼女の名を、イオは出会った瞬間に確信した―――――
「《美》の女神、あ、アフロディーテ様……」
「はーいっ、そうで~~す! きゃはわわわあ~パパ~~!! ひさしぶりぃ~。パパが全然遊びに来てくれないから、ディーテ、チョ~さみしかったよぉー」
と、アフロディーテはゼウスの首に手を回し、頬に唇を添わせる。
(あっっれれれれぇぇ………………???)
ゼウスはアフロディーテを抱き返し、彼女を膝の上に置いて、その場のソファーに座る。
「さみしい思いをさせて、すまなかったね、ディーテ。ぼくも君に会いたくてしかたなかったよ。どうだい、元気にやっていたかい?」
「うん! パパが用意してくれたこの別荘、ディーテ、とっても大好きだよぉ。――――あ、でも、パパのことを思うとね、ここが、時々、すっごくイタく感じるの……。ねえ、パパ、お願い。ディーテのイタイとこ、優しくさすって…」
「ああ、もちろんさ。ここが痛かったのかい…」
と、ディーテの胸の谷間へと手を伸ばし…
「ちょっ、ちょっと待って下さいッ!!! 何をやってるんですかっ、あなた達は!!?」
イオの怒声で、ゼウスは手を途中で止めて、
「うん? 見ての通り、愛するディーテの痛い所をこうして…」
「って、普通に女神様の胸を揉もうとしないで下さい!!! 私たちは、ヘラ様から身を守るために、ここに隠れに来たんじゃないんですかっ!!?」
ヘラに勘違いされたと、知るや否や、ゼウスとイオは、オリュンポスの山の麓にある、アフロディーテが別荘として住んでいる、この洞窟へとやって来たのだった。
***
「ヘルメス様もどこかへ行ってしまわれましたし……、これからどうするんですか、ゼウス様?」
「そんな心配しなくても、全てをぼくに委ねていれば心配ない。ヘルメスが、逃げきるために必要なモノを手に入れて、戻って来てくれるんだ。
だからぼくらは、ゆるりとヘルメスの帰りを待ってばいいのさ。さあ、イオちゃんも、ここに座ればどうだい」
と、両手を広げて、自分の空いている片膝を示す。
「けっこうですっ!!」
そのやり取りに、アフロディーテは可愛く頬をふくらませて、
「む~~、今日はパパ、ディーテのためだけにつくしてくれなきゃ、やだぁ! せっかく会いに来てくれたんだからぁ。…………っていうか、あの子だれなのぉ」
アフロディーテにじっと見つめられて、イオはドキッと心臓が高鳴り、頬を赤らめる。
(ううっ……、き、綺麗すぎますっ。見つめてくるお姿も、か、可愛い美しいですっ)
「パパが答えなくても、ディーテ、だいたいわかっちゃうんだけどね…」
「はははっ、ディーテにはすべてお見通しの様だね」
「うん。パパの新しいセフレでしょ」
「そうだよ」
「ちがう!」
《セフレ》の意味はわからなかったが、背中を駆け巡った悪寒に従って、イオは脊髄反射で反対の声を上げる。
「断じて違いますっ! 一度たりともありえませんっ!」
イオは直感を信じて、絶対拒否!!!
「うむ、イオちゃんはいつまでたっても、心を開いてくれないね。ぼくらは運命を共にしている、パートナーではないか」
「だいたい、どなたのせいで、こんな状況になったと思っているんですか!!?」
「――――そのことについては、本当にすまないと思っているよ」
と、頭を下げる――――片手でアフロディーテの首元をまさぐりながら。
「ぃやぁん。パパ、くすぐったいよぉ~。いやぁっ」
「…………謝られているようには、全く思えないのですが……」
疑問になっていることが浮かび上がり、ぼそぼそと、
「…………あ、あの、今さらながら、つかぬことをお聞きしますが、ゼウス様とアフロディーテ様は、どういったご関係なのですか……?」
「うん? パパは、ディーテのパパだよぉ~。二つの意味で!」
「え、二つ!?」
パパに《父親》以外の意味があることを、イオは知りもしないが、何故か、その意味は知らないままで良い気がして、イオは口を閉じる。
「ディーテの母は、ぼくらオリュンポス神族の先祖にあたる、ティターン神族の天空の女神、ディオネという美しき女性さ。ぼくより二百年は先に生まれているはずなんだが、自身の年さえもはっきりと悟らせないほど、なんとも神秘的な魅力にみちていてね。…………出会ってすぐに恋に落ちたよ」
「ふふっ。ディーテ、そうやってママのこと褒めるパパも大好きだよぉ」
と、アフロディーテはゼウスの膝上で、ちゅっちゅと、愛の乱舞。
「…………では、そのディオネ様が、ヘラ様以外の結婚された4人の中の御一人なので…」
「はははっ、違うよ。彼女とは結婚していないから、別の愛人さ」
「一体、あなたには何人愛人がいるのですかっ!!?」
ゼウスはキリッと、イオを睨んで、
「イオちゃん、今のは少し無礼じゃないかい?」
「え!! あ、すみませ…」
「何人ではなく、何十人さ! いや、もしかしたら百を超えていたかもしれないな!」
「Hした人数が数えきれないなんて、さっすがパパ! ディーテも《性欲》の神として、パパに負けない、愛の狩人になるよっ!」
「つ、ついていけません…………!! というか、アフロディーテ様もヘルメス様も、反応が称賛に満ちすぎますっ!! 神様って、全員こんなのなんですかっ!!!?」
「うーんっ、まあ、大方の神はね……。そういえば、今日はエロス君はいないのかい?」
「うんっ。アポロンちんに呼ばれて、ニンフの森に出かけちゃったの」
「それは残念だね。彼は中々ストイックな性格だから、イオちゃんとも話があうかと思ったのだが…。それに、彼が意中の新しいニンフについて知りたいと~~」
「うんっ、エロスちゃんはね、最近ダフネちゃんにね~~」
と、そこからのらりくらりと、神々スキャンダラスでゴシップな会話が続く。内容は誰と誰が付き合ったとか、別れたとか、出来ちゃった婚とか、そんな色恋話ばかりである。
イオはぼうっーと、聞いていた。
***
日がくれかかる頃になってようやく、ヘルメスは、一頭の牛を引きつれて、洞窟の入口に姿を現した。
「やあ、お邪魔するよ。遅くなってごめんね、ダディにイオさん」
「モー」
イオは、今にも死にそうなやつれきった顔を上げ、
「…………へ、ヘルメス様、やっと……、来て下さったのですね…!!」
と、ヘルメスに駆け寄る。
「イオさんは、数時間見ない内に、えらく年老いたね」
イオは、ヘルメスが帰って来ても構わず会話を続ける、ラブラブな父娘を睨んで、
「だって、この人達の話の内容って…………、卑猥な話とか、卑猥な話とか、卑猥な話とかだけですから…!!! もう勘弁して下さいっ……」
思わずイオの目元に涙が浮かぶ。聞くのも見るのも、地獄であった。
「あれぇ? ヘルメスちんだぁー。なんでいるのぉ?」
と、やっとヘルメスに気付き、アフロディーテは声を上げる。
「ひどい言い草だなー。おれも君とダディの楽しい会話に参加させてちょうだい」
「ええぇ~~」と、アフロディーテはゼウスの膝の上を守るように、ぎゅっと抱きしめる。
「君はいつも、ダディの前だと、楽しそうにはしゃいでいるね。次はおれのデートの誘いも、是非とも受けてよ、アフロディーテちゃん」
「えぇ~ヘルメスちんって、いじわるそうだからイヤだなぁー」
「はははっ、つれないね」
「モゥー」
と、背後に引きつれた牛が、眠そうに鳴く。
「あの、ヘルメス様、ところでその牛は何なのですか?」
「ああ、これ? これがヘラ様からイオさんを逃がすための、とっておきの秘策なんだよ」
ゼウスはソファーから腰を上げ、じっと牛を見分しながら、
「うむ、いい毛並みの雌牛だね。どこで手に入れたんだい?」
「アポロン兄さんの牧場からさ。あの人はいなかったから、勝手に拝借してきたんだけどね」
(それって、泥棒じゃないんですか……?)
ゼウスはイオへと顔を向け、
「では、待たせたね、イオちゃん。十分と休憩は取れたかい?」
(いえ、むしろ、物凄く寿命が縮まった気がしますが…)
「は、はい。お気づかい、ありがとうございます」
イオは努めて大人の対応を取った。
「それは良かった。それでは今から、ヘラから逃げる為に、君の姿を少しの間だけ変えようと思う。それに必要なのが、この雌牛と、愛すべきマイ・ガール、アフロディーテさ。最初に言ったように頼むよ、ディーテ」
「はぁ~~い、まかせてね! イオちゃんはここに立っていてね」
と、イオと牛を向かい合わせに立たせる。
「え? 何をなさるのですか?」
「いいから、いいからぁ! ディーテにぜんぶ、まかせちゃって」
と、両手から白い泡が、ぷくぷくっとあふれてくる。アフロディーテはその泡を、イオの髪から頭、身体へと、全身を撫でまわし、より泡だたせる。
「でぃ、ディーテ様、何をっ!? あんっ…、そ、そこはぁ」
「うわっ、イオさんはけっこういい声だすね、ダディ。エロいね」
「うむ、けしからん。もっとやりたまえ!」
「な、何考えてんですかっ!!! あんた達はっ!!! って、えっ!! えええっ!!!!?」
全身が泡に埋もれて、視界が消えていく。泡に包まれた真っ白な世界で、イオは一瞬、くらりと意識が遠のく。
「うんっ、これでいいよぉ!」
パチンと、アフロディーテが指を鳴らすと、急速に泡が引いていき、視界が開ける。
(ううっ……、いっ、一体なんなのですかっ?)
イオは自分の体を見渡そうとするが、首がうまく回らない。
というよりか、視点がおかしい……、妙に開けているし、まるで高さが合わない。何故か四本足で立っていて、手(今は足)が上がらない…………、
「モっ…モっモモゥ~~~~~~!!!!」
イオは牛になっていた。
【イオの受難編・つづく】