イオの受難編・①
天を貫くかのような、いと高き山、オリュンポスの山。
そこには古来より、ギリシアの神々が住んでいるとされていた。
その山頂を目指し、一人の女官が険しい山道を登っている。
「はあっ はあっ はあっ――」
薄衣な神官の服装を着た女性は、足を止めて、息を整える。
汗をぬぐい、顔を上げるが、山の頂上は雲を突き抜けた先にあり、視認することすらかなわない。
彼女の顔に、疲れきった諦めの表情がにじみ出る。
そんな時――雲の上から、不思議なメロディが聞こえてくるのに気付く。楽しげな、しかしどこか気を焦らせるようなメロディ――
(これ、笛の音――?)
と、彼女が空へと耳を傾けると……同時に、天空が赫々と光る!
目がくらむような稲光!!
彼女のすぐ近くに、まさしく、その言葉の意味のまま、《青天の稲妻》が落ちてきた――!!!
ズガガガァガーッン!!!! 雷鳴と共に落雷の衝撃が、彼女の体を震わせ、
「あっ!!」
足場が崩れ、真っ逆さまに落ちていく。ギュッと目をつぶったその彼女を、そっと、誰かの両手が抱きかかえた。
「え…、え、ええっ!?」
目を開き、女官は呆気にとられる。
「大丈夫かい、麗しのレディよ。危うく君を巻き込みそうになった、ぼくの愚かな采配を、どうか許してくれないか? 君があの場にいると知っていたなら、例え避雷針が一面に設けられていようとも、ぼくは雷となってあの場に現れようとはしなかった」ベラベラベラ…
目の前には、金髪金目の美青年がいた! 彼女はその超絶美青年の腕に抱かれた形で、ゆるやかに、山の麓へと降りていく。
「え、ええっと……???」
彼女の動揺を感じて、青年はふっとほほ笑みを浮かべ、
「心配はいらないさ。君がどういう目的で、山頂の大神殿を目指していたのかは知らないが、ぼくに出会うということ以上に、この山に来る目的なんて存在しない。だからこのままぼくの腕の中で、下界までの自由落下を楽しんでほしい」ベラベラベラ…
見当違いの回答を口にする。
「君のその厳かな服装を見る限り、君が我らの内の誰かを信仰する、神聖なる職業に付いていることは明白だね。それが、出来ればぼくであってほしいと思うのは、ぼくの過ぎたわがままかな? ――おっと、これは失礼したよ、麗しのレディ。まだぼくの名を君に明かしていなかったね。なに、君もよく知る名高い神さ、天を操る雷神、《オリュンポス十二神》を束ねる王、ギリシアの最高神、ゼウスさ、よろしく」
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【第一話】 「全ての女性の願いを叶えるのが、最高神たる、このぼくだからね!」
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「自己紹介もすんだ所だし、どうだい、麗しのレディ。より長く愛を語り合うためにも、ぼくと婚礼の儀を結ばないか?」
と、スタッと着地する。この間、わずか5秒弱。
(えええ――!!!?? 会って5秒で告られたよ!! 人生初のプロポーズが、これだよっ!!! って、ゼウスって、えええっ――!!!???)
自身の想像をはるかに超えた出来事の連続で、頭がパンク寸前である。
ゼウスはそんな彼女をそっと、地面に下し、
「それではレディ、よろしければ、君の名を私に教えてくれないかい? いつまでもただの普通名詞では失礼にあたるだろう」
「あ、…………は、はい! 先ほどから、失礼しました」
と、急いで片膝をついて頭を下げ、最敬礼する。
「わ、私めはペロポネソス半島の、アルゴスから来ました、ヘラ神殿に仕える女官であります、イオと申します。ほ、本当に…」
「いえいえ、やめてくれ」
と、ゼウスはイオの手をとり、さっと立たせる。
「女性をひざまずかせるなんて、ぼくには出来ないよ。ヘラ神殿のイオというのだね」
「はい、何なりと好きにお呼び下さい」
「そうかい、ではハニー」
「…………」
「遠いところからよく来たね、ハニー。さあ、ぼくの住まいを案内しようか、ハニー」
「…………で、出来ればイオとお呼び下さい」
「そうかい? ふふっ、恥ずかしがり屋だね。それとも、愛称は結婚後までとっておきたいタイプかい? では、イオちゃんと呼ぼう」
「イオ、ちゃん……ですか?」
(こ、このお方が、本当にギリシアの最高神である、ゼウス様なのですか???)
見た目は普通の(ものすごい)美形青年にすぎない。しかし先ほどの雷といい、山の中腹からの着地といい、神にしか出来ない御業である。
「それで、イオちゃん。君はわざわざテッサリアの地まで、何用で来たんだい? もちろん、ぼくに会うことが第一目的であったことは、疑うまでもないことなのだが、それにしてもアルゴスからここまでは、いささか遠すぎる。神の足だと2時間はかかるッ!」
「人の足だと2週間はかかりましたよ……!」
「うむ。だが、安心したまえ。次からは君がこの名を呼ぶだけで、ぼくが直々に馳せ参じよう。2時間なんて待たせやしない、わずか2秒で着いてみせるさ。それが出来るのが、最高神たる、このぼくだ!」
と、イオの手を握り、瞳をまっすぐに見つめて、
「だから、結婚しよう!」
(かるいっ! かるすぎますっ!! 会って5分で2回目のプロポーズですよっ!!! あれ!? だいたいゼウス様には、私が会いたいあのお方が……)
と、大きな疑問が浮かび、思わず口をつく。
「あ、あのゼウス様?」
「なんだい、イオちゃん?」
「ここに来た目的なんですけども、実は、私にはお会いしなければならない神様がおられるのです」
「ああ、そうなのかい? ぼく以上に君が必要としている神がいるなんて、それは少し妬けるね。一体誰に会いたいんだい? 誰でも顔パスで会わせてあげるよ。だから、ぼくと結こ…」
「では、ゼウス様の奥方に会わせて頂けないでしょうか?」
ゼウスは、その言葉に一瞬固まる。
「ゼウス様との夫婦の契りを結ばれた、天界の女王、そして私の神殿の守護神でもあらせられます、ヘラ様に、私は会いに来たのです」
と、イオは深々と頭を下げた。
***
「――――最初の兆候は今から10年前、私はまだ子どもで、その時の様子は後から聞いたことなのですが、アルゴスでその年に生まれてくる赤ん坊が、ことごとく流れてしまったのです」
イオは続けて言葉をつむいでいく。
「《安産》の神であらせられる、ヘラ様の神殿があるこの地で、このような変事が起こったのは初めてのことでした。しかし真に奇妙で恐ろしいことは、これからが始まりだったのです。……その次の年から、どの女性達も子を授からなくなったのです。
街の人々はすぐにヘラ様がお怒りであることを感じ、何度も祈りを捧げましたが、ヘラ様が耳を傾けて下さることはありませんでした。
以来10年に渡り、アルゴスでは赤ん坊は生まれていません。このままではアルゴスは、人の住めぬ地になってしまいます」
顔を上げ、ゼウスにすがりつくように訴える。
「私は何故、ヘラ様がそこまでお怒りになっているかを知りたい!! そして出来るならば、その不満の解決に、お力をお貸ししたいのです!!」
「あ~~うん、そうね~~…、うん……、どうしようか……」
といかにも、あっちゃ~という風に、ゼウスは額をおさえて、うずくまっている。
(明らかにしどろもどろに、困惑している!! 視線が縦横無尽に動きすぎです!!)
――――とその時、山の上から、またも笛の音が聞こえてくる。しかし今度は、静かでも、どこか存在感の強い曲調、まるで自分の居場所を知らせているかのような調べである。
ゼウスも笛音に気付き、その方を向いて、立ち上がる。
「おお! ちょうどよく来てくれたようだ!」
一陣の疾風が吹き、二人の目の前に、一人の神が駆け抜けてきた!
「やあ、ダディ。さっきは危ない所だったね。……あれ、そちらのお嬢さんは誰?」
イオにも一目で、彼が神であることはわかった。美しく逞しい顔立ち、そしてその耳には羽が生えていたからだ。
彼の姿を見るや否や、ゼウスはすっかり元気を取り戻し、大きな身ぶりで歓迎する。
「さっきは君の素晴らしい合図のおかげで助かったよ。こちらのお嬢さんは、今日、わざわざぼくに会いに来て下さった、イオちゃんさ。先ほどぼくからの求愛を受け入れてくれてね。今日から、君の六人目の母上になる娘だよ、ヘルメス」
「わーさっすが、お父さまっ! やるじゃん」
(ヘルメス!!)
その聞き覚えのある高名に、イオは思考を巡らせる。
(ゼウス様やヘラ様と同じく、オリュンポス十二神にまつられし、風の神! 人間同士が交流できるようにと、ギリシア中に《道》を作りあげてくださった神でもあると聞いたことがある…!! って、)
「だ、誰が誰の母上ですかっ!!?」
「イオちゃんが、ヘルメス及びぼくの子ども達のさ。血は繋がっていなくても、ぼくと結婚するのだから、家族の絆が繋がるのは、至極自然のことだろう?」
「わたしがあなたと結婚する前提が、至極自然じゃないです!!! そ、それに、つっ妻が六人目って、どういうことですか!?」
イオの質問に、横で聞いていたヘルメスが噴き出して、笑う。
「そのままの意味だよ、お嬢ちゃん。ダディには、正妃であるヘラ様を入れて、今で5人の奥方がいるんだ。あ、ちなみにおれは、この5人以外の別の愛人から生まれた子なんだけどね」
「…………!!」
絶句!! イオはあまりの事実に血の気がなくなり、茫然自失!!
「…………に、人間同士では、結婚は御一人とだけですよ」
「神様同士でもだよ。ダディが別格なだけ。ね、ダディ」
「うむ。ぼくは皆を、わけ隔てなく愛することが出来るからね。モーマンタイさ!」
「まあ、今ではヘラ様以外は愛想つかして、ダディからは離れていっちゃったけどね」
「ふっ、ヘルメス、ぼくの哀しみの棘を押すのはよしてくれ。どれだけの女性が去ろうと、ぼくの心は彼女達の思い出で満たされているのさ。それに、君のような、素晴らしい子達にも恵まれているしね」
「ダ、ダディ……」
感極まって抱き合う男神二人をよそ目に、イオの胸中には、最悪の仮説が浮かび上がって来る。それを全力で否定しながらも、口から洩れでる。
「も、もしかして、それでヘラ様は怒って、人間を八つ当たりで不妊にしちゃったとか~? あはははっ、もちろん違いますよねー?」
「はははっ! 間違いなくそうだろうね! 10年前といえば、ちょうどアルゴス王の娘、ダナエとの一夜のアバンチュールがあったころさ。父親に捕らえられていた、彼女を救いだし……、うむ、そうだ! たしか、雨粒をしのぐために入ったヘラ神殿の中の、彼女の座像の前で、情熱的に抱き合ったな……」ベラベラベラ…
「うわっー!!! 私たちの神殿で何をやってるんですか、この方!!!」
ヘルメスも、10年前の出来事をありありと思い出しながら、
「ああ、あの黄金の雨になって、城に侵入したっていう女の子かっ! そういえば、ヘラ様、人間の娘に嫉妬して、全人類を絶滅させるって、騒いでたっけ? ぼくが上手く言いくるめていないと、あの国も今はもう、亡くなっているんだよ」
「いつもヘルメスには迷惑をかけるな。ぼくはそれから怖くて、大神殿には帰っていないからね。…………そうか、もう10年もヘラの顔を見ていないんだな」
しみじみと、ゼウスは明日への方を見つめる。
「か、感覚がぶっ飛び過ぎて、ついていけません……!!」
「うむ、アルゴスで起こった出来事については、本当に悪い事をしたよ。お詫びとして、ぼくが君に、とびきり愛らしく優れた子を授けようではないか。今、ここで!」
と、イオの頬に手を伸ばす、が! 彼女はとっさにその手を弾いて、
「わ、私じゃないですっ!! 子を求めているのは!! だいたい私はそういうのは、まだ…!! って、何でそんな話になるんですかっ!!?」
顔を真っ赤にして、大声を上げる。
「もう最悪ですっ!! なんですか、最高神様って、自分勝手すぎますっ!! 妻がいるのに他の子に言い寄るなんて!! これじゃあ、ヘラ様が可哀想です!!」
「そんなに彼女のことで、思いつめなくていいさ。彼女は彼女で、この状況を楽しんでいるし……、それにどうしてもストレスが溜まった時には、人間などを痛めつけて発散しているしね」
「私たち人間はもっと可哀想だーーー!!!!!」
思わず涙が流れて来て、しゃがんでうずくまる。
「…………ど、どうにか、ならないんですかっ。これだと、私、本当にここまで来た意味がありませんっ。私はどうなってもいい、だからせめてアルゴスの皆さんと、ヘラ様を救ってください」
「泣かないでくれよ、イオちゃん……。こればかりは、ぼくといっても…」
イオは顔を上げ、涙で滲んだ瞳で見上げて、
「もし救って下さるなら、なんでもしますっ! ――――私は、あなた様にこの身を捧げます」
ゼウスは一瞬きょとんとし、すっと笑みを浮かべて、
「それは、却下だよ。イオちゃん」
「えっ?」
「願いと引き換えに、女性に言い寄るなんて、ぼくのポリシーに反する。レディには何の憂き目も負わせずに、ぼくに恋をしていただかないと」
「……ほ、他に守るべき、ポリシーはないんですかっ!?」
「もちろん、あるさ!」
とイオの腕を掴んで、立ち上がらせる。
「女性をひざまずかせ、あまつさえ泣かせるなんて、ぼくのポリシーに大いに逆反する! わかったよ、君の情熱に根負けだ。君と共に、ヘラに会いに行こう。全ての女性の願いを叶えるのが、最高神たる、このぼくだからね!」
「え……」
「ということで、ヘルメス。今まで、色々と世話になったよ。ぼくが亡くなった後の、主導者については、十二神で決めてくれ。さようなら」
「さよなら、ダディ。おれは、今までずっと言えなかったけど、ダディの息子として生まれて、本当に、誇りに思って…」
(そ、そんな今から、戦争へと向かうみたいに……!!!)
その後、30分近くに渡り、父と子は最期の言葉を語り合い、きつく抱き合って、別れをしのんだ。
そして――
「さあ、行こうか。イオちゃん」
イオへと手を差し伸ばす。イオは、その手を見つめながら、これから起こるであろう試練を思い、そして……
(私が、ヘラ様を説得してみせる!! 待っていて、アルゴスのみんな!!)
「はいっ!!!」
と、手を強く握り返す。天からは、二人の旅立ちを祝福するかのように、色鮮やかな羽根が舞い降りてくる。
「きれい……」
辺り一面が、華麗な羽根に包まれて、イオはぼそりと呟く。
しかし正面のゼウスとヘルメスに顔を向け、彼らが尋常ではなく冷や汗をかいていることに気付く。
「ど、どうする、ダディ?」
「う、うむ、これは大変、困ったことになったね、はははっ」
「ど、どうしたんですかっ!?」
「うーむ、イオちゃんは知らないようだが、これらの羽根は、クジャクといってね、ヘラの聖鳥のものなんだ。ヘラはよく、ぼくを監視するために、この羽根をオリュンポスの山頂から降らせている」
降り注ぐ羽根についた《眼のような模様》が、ぎゅるーりと、ゼウス達を凝視するように、伝えうごく。
「そもそもぼくは、ニンフ(妖精)と遊んでいるところを目撃されそうになって、急いで逃げている途中だったのだよ。雷となって、クジャクの羽根を焼き払ってね。ヘルメスの笛の音で一足早く気付いたおかげで、ニンフたちとの楽しい一時を見られずにはすんだのだけれども、」
ゼウスは深くゆっくり息をついて……ふっと笑う。
「残念ながら、君をヘラに会わせることは、到底不可能になってしまった。それより一刻も早く、君はヘラから逃げないといけない!」
と手を合わせて、ペコリと首を傾げて、
「彼女は、君がぼくの新しい愛人だと、勘違いしたようだ。このままじゃ君が、ヘラに殺されてしまうよ。ごめんね」
こうして、イオの受難の日々が始まった。
【イオの受難編・つづく】
こんなノリで続きますが、よしなに