序章
序章
のたり、まったり、ゆらゆらと、なすがままに身をゆだね、なにもかもが安定したあるべき姿で存在し続ける時間の概念さえ存在し得ない世界。寒くもなく暑くもなくお肌にはちょうど良いであろう湿度、何だか母親のお腹の中に抱かれているようなおだやかで落ち着いた場所。
言葉では言い表せない光に満ちあふれて幻想的なその世界に一本のザクロの木が生えている。真っ赤な実をたわわに実らせたその根元には、血を流したような真っ赤な果汁が広がっており、不規則に裂けた外皮から赤い果肉が飛び出し辺りに散乱している。
どこからともなくやってきた一羽の始祖鳥が音も立てずにザクロの木にとまって実をついばんでいる。辺りには何もない。いや、何もないように見えるが蜃気楼のように幻影が現れては消えている。ここは心に浮かべた幻影が実態となって現れる場所。その意識が強ければ強いほどはっきりとした実態となる。そうここは現実世界ではない。魂の世界、死者の世界、人間界と対比すれば天上界と表現すべきか。
ザクロの実をついばんでいる始祖鳥が何かの気を感じ顔を上げた瞬間、子供らしき形をした意識と目が合った。その子は唇の前に左手の人差し指を立てて始祖鳥に目で合図をしている。始祖鳥はザクロの実を三つ取って投げてよこした。コロコロと転がるその実は彼らの足下で止まった。始祖鳥は何もなかったかのように再びザクロの実をついばむ。
いつの間に現れたのか、子供と思われる意識が三つと建物らしき物体がそこにある。子供たちもまた実態はないが人間の形をした気がある。言葉は発しない。いわゆる空気の振動による音の伝播はないが、心で会話をしている。
足下に転がってきたザクロの実・・・いやそれは裂けた外皮から飛び出した脳みそや脳漿、見るも無惨に砕けて原型が解りずらいが明らかに人間の頭だと理解できる。彼らはそこに自分たちの姿を見た。
一つの魂が、かすれた心の声で叫ぶ。
「アギちゃん、よそうよ。怖いよ。」
「おい、シュウよ、こんなモノは幻影さ。心にやましさがあると怖いモノが見えるのさ。」
「怖い怖いと思ってたら幽霊を見るのと同じさ。」と、いわゆる幽霊であるアギが同じく幽霊である供に言うのも説得力に欠けるが、彼もまた自分の幻影を見たのかそれを振り払うかのように一つのザクロを始祖鳥めがけて蹴り返した。
アギの生きていた時代にサッカーがあったとは思えないが、彼は華麗なループシュートで始祖鳥を捉えた。始祖鳥は咄嗟に体を捻り嘴で見事にキャッチ。その瞬間ザクロは砕け散った。もう一丁!と叫びながらアギは再びシュートを放った。今度はドライブシュートだったのか鋭い弧を描いて幹にあたって砕けた。
続けて放ったシュートはレーザービームのような鋭い線を描きながらも始祖鳥にはかすりもせず遙か頭上の枝で破裂した。
始祖鳥はしたり顔で何も無かったかのようにザクロの実をついばんでいる。アギはニタリとして踵を返した。と瞬間ザクロの実が始祖鳥に降り注ぎ止まっている枝から落ちそうになった。かろうじて踏みとどまった始祖鳥は、怒りと供に何か伝えるために心の声を発したが彼には届かなかった。
アギはなんの躊躇いもなく建物とおぼしきモノに進んでいく。
「アギちゃん、よそうよ。見つかったらまた地獄行きになるよ。もう少しで生まれ変われるんだよ。また千年遅くなるよ」
「大丈夫だって。ここの管理人、いつもぼ~っとしてたじゃないか。いい加減なやつだから解りっこないって。おれ、今度こそここの秘密を暴いてやるさ。」
「でも、前にこれが現れてから900年くらいたってるよ。」
「あの管理人がいるかどうかも解らないし、そもそも管理人の目を盗んでゲートを通り過ぎたはいいけどいつのまにか真っ暗になって、気が付いたら地獄の管理官の前にいたんだよね。」
約900年前、シュウは生まれ変われる直前にアギにそそのかされて冒険をしたばっかりに地獄での100年間を過ごすことになり、更に1000年間の生まれ変わり禁止令と再教育システムの受講が義務づけられたのである。天上界では時間的概念がないため便宜的に人間界のそれを使用している。また罪と言う概念もないため、罰を与えるシステムも決まったものはなくその判定の基本は善という本質である。つまり全ての思考と行動について自分や廻りにどれだけ有用な影響を与えたかを評価するのである。例えば、悪戯をすると被害者は迷惑を被るが、加害者は廻りに迷惑をかける事を経験しその行為に対する判断基準が得られる。経験が後に有用になればそれは善であるという考え方である。天上界には悪は存在しない前提である。
「ねえ、げんちゃんもアギちゃんを止めてよ」
「無理だね!あいつがこれと思ったら猪突猛進だからな。」げんちゃんと呼ばれるその意識はしかし困ったようにつぶやく。
「ここは天上界で第一級の管理区域だからなあ。もし見つかったらみんなで楽しい地獄ツアーってところカナ!」
「いや、もしかしたら地獄よりも厳しい何かが待ってるのかもな・・・さっき始祖鳥が最後に言ってた言葉が気になるところだが・・・」と振り返ってみると、先程まで実をついばんでいた始祖鳥はザクロの木と供に跡形もなく消えている。ゲンは一瞬考え込んでいたが、
「だが、俺もここは見ておきたいんだよなあ!ここには何かがあるはずなんだが、それがどうもモヤモヤしててどうにも気持ち悪いんだよな・・・」と恐怖よりも好奇心が勝ったつぶやきを漏らした。
シュウには始祖鳥の言葉が届いたかどうかわからないが、
「ゲンちゃん、アギちゃんを止める手立てを考えてよ!」と泣きそうな心の声で訴えている。
「そうだよな、何かトラブルがあった場合の逃げ道は作っておいた方が良さそうだな!」
と聞こえないようにつぶやいたのだが、シュウが「逃げ道って何?」と聞いてきた。心の声であるため気をゆるめると相手にそのまま聞こえてしまうのだ。
「ああ、心配するなシュウよ。俺にはおまえ達が900年前に失敗した原因の推測がついてるんでな。俺に任せときな!」
自称、戦略家、名参謀、世が世なら国の一つや二つこの手に掴んでたんだがな・・・とうそぶいているゲンであるが、人間界では確かに歴史に名を残す戦略家の・・・時もあった。
シュウは、「僕は止めてって言ってるのにゲンちゃんまで、もうどうなっても知らないよ!」
と人ごとのように叫んでいる。
三人が侵入しようとしている実態とも幻影ともつかないモノは葬儀場である。ここは魂の生死を司る天上界の機関であり生は下界からの出戻り、死は下界へ生まれ変わる場所である。つまり生死は表裏一体であり死は別の世界への生、人間が考える宗教の一つ仏教で言うところの輪廻転生とも言える。
人間界の葬儀場は天上界へ誘う入り口であり、決して戻れない一方向の不可逆的な門であるのに対し、天上界の葬儀場は可逆的な門である。が、そこには彼らが興味を抱く何かが隠されていることは確かである。
ゲンはそれを薄々感じているようで、アギは理屈ではなく本能で何かを感じているようである。
ただ、それは人間界のみならず天上界、宇宙全体に影響する大いなる力であるのだが、彼らにそれが解っているとは思えない。
一つところには存在せず常に場所を変え現れては消える。大いなる力を持つが故に、その存在を明らかにすることはできないのである。