第六章 幽霊よりも怖い物
(結局、レイの過去は分からなかったな)
亜矢は、考え事をしながら放課後の廊下を歩いていた。やっぱり生命力をレイに吸われているのか、少しフラフラする。そして案の定人とぶつかった。
「ああ、ごめんごめん」
「いいえ。ちょうどあなたを探してた所だから」
楽譜を持って微笑んでいたのは、ヒメカだった。窓から斜めに降りそそぐ夕日に照らされた彼女は、妙に落ち着いた表情をしていた。騒がしい廊下の中で、亜矢と彼女の周りだけ時間がゆっくり流れているようだった。
「亜矢。あなたがレンタゴーストさんね」
亜矢はギクッと体をこわばらせた。
「ど、どうしてそれを?」
「どうしても何も。何も関係のない人があの日たまたま音楽室にいたとは思えないもの」
「まあ、そりゃそうよね」
正体がばれた照れ臭さに、亜矢は腕を組んでヒメカから目をそらせた。
ヒメカが何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回した。
「で、噂の幽霊はどこ?」
レイが亜矢にしか見えないモードで姿を現し、自分の胸を指差すと「姿見せた方いい?」と聞いてきた。
「今、奴を出すのはやめておきましょう。こんな所に着物姿の男が現われたら目立って仕方ないわ」
レイにも聞かせるつもりで亜矢は言った。
「じゃあ、後で会わせてよ。絶対よ?」
少しスネたようなヒメカの口調だった。
「ええ、わかったわ」
幽霊の秘密を共有したからか、なんだか仲間意識が出てきたみたいで、二人は顔を見合わせて笑った。
「私ね、やっぱり音大付属を狙う事にしたわ」
「へえ、いいじゃない。その方が、浦澤も喜ぶと思うわよ」
ヒメカのピアノを誉めた時の、浦澤の自慢気な笑顔を思い出した。
そして音楽室で聴いたヒメカの見事な旋律も。
言葉にするとチープでクサくてたまらないが、浦澤は夢にむかってがんばるヒメカが好きなのだろう。それなのに、彼のために自分の魅力を下げたのではもともこもない。
「あれから、浦澤君と話合ったの」
亜矢にというよりは、自分に語りかけるようなヒメカの口振りだった。
「いやがらせされたのはさすがに少し腹がたったけど、私の事を思ってのことだものね。浦澤君は、待っててくれるって言ったわ。私が卒業するまで。もっとも、志望校に合格しないと話にもならないけど」
ヒメカは肩をすくめた。普通の人ならわざとらしくなりそうなその仕草が妙に似合っていた。
レイがふわふわと亜矢の近くまで漂ってきた。
「なんのかんのいってお似合いのカップルじゃないか。恋人と一緒にいたいから夢を諦めようとした奴と、恋人の夢のために好きな女をフろうとした奴と」
ズキッと亜矢の頭と胸が痛んだ。なんだか、鼓動が速くなった。
私達はどうなのだろう? 本当に私はレイに騙されて生命力を吸われているのだろうか? そして私は彼を消すための道具を隠し持っている。
(バカバカしい。私達は恋人同士じゃないのに。やめやめ!)
亜矢は、ヒメカに不審に思われない程度に軽く首を振った。
「ねえ、本当にあとで幽霊を見せてよね。話も色々聞きたいわ。実は、明日、両親がいないのよね」
ヒメカは彼女にしてはめずらしく、いたずらっぽい笑顔を浮かべた。
亜矢の部屋に並べられた、歯ブラシにブラシにタオル。
「まさか、本当にヒメカの家に泊まる事になるなんてね」
言いながら、亜矢はパジャマをバッグ詰め込んだ。一泊するだけなので荷物は少なくて、少ない荷物ですみそうだ。
「まあ、ヒメカに聞けば、何かあの骨董品屋の事について分かるかも知れないしね」
「お泊り会か! 女の子って感じでいいな!」
亜矢以外の女の子の家に行けるのが嬉しいのか、レイは少しテンションが高い。ヒメカの家に泊まるのはレイのためでもあるのにのんきなものだ。
「あれだろ? 好きな男子の話とかで盛り上がるんだろ?」
「大丈夫よ。そういう話になった所で、幽霊に告白されてさ~』なんて絶対に言わないから」
お気楽なレイに、亜矢はジトッとした視線をむける。
「わ、分かってるよ。別にそこは期待してないさ」
「それに、恋バナなんて大抵すぐ終るわよ? 大抵は先生や友達の悪口大会だから」
レイが大げさに両耳を塞いで首を振る。
「やめてぇ! 壊さないで男子の夢」
「ふん、女に対する変な夢を捨てることね。ん?」
何か、カサカサという音を聞きつけて、亜矢はぴたっと手を止めた。嫌な予感を感じつつ、音源に顔をむける。案の定、壁に動く黒い物。
にぶく光る体。ぴくぴくと動く触角。おそらく人類が現れた時から嫌われているであろう生き物。
「出やがったな、ゴキブリ!」
手元の雑誌を古い号だと視界の隅で確認してから、丸めて棒にする。
「おお、勇ましいな」
「母さん働いてて父親はいないしね。こういう事も一人でやんなきゃなんなかったのよ。くそ、この家庭内害虫め!」
ミスした攻撃が、リモコンを直撃してテレビのスイッチが入る。
『ニュースの時間です』
アナウンサーの落ち着いた声が逆にイライラする。丸まった雑誌の端は、不思議なくらい当たらない。
「この、この!」
「へたくそ」
貸してみろ、というように、レイは亜矢の手ごと雑誌をつかもうとした。自分が幽霊なのを忘れていたのだろう。当然、半透明の手は亜矢の手を擦り抜ける……はずだった。
まるで手袋をはめるみたいに、レイの右手が亜矢の右手に入り込む。亜矢の意志とは関係なく、腕が持ち上がった。
「え! 何、ちょっと……!」
畳に叩きつけられた雑誌の棍棒が、ゴキブリを叩きつぶした。
そこでレイは初めて自分が亜矢の手を操っているのに気がついたようだった。驚いたように、手を広げる。ポトンと雑誌が落ちる。
レイはつぶれたゴキブリには目もくれず、新しい機械を試すように亜矢の手を開いたり閉じたりした。
「ま、やめ……」
亜矢は、右腕に力を入れてレイを振りはらおうとする。けれど、込めたはずの力はどこにもひっかからずに抜けていく。
「おおう、すげえ。触れる」
手がゆっくりと持ち上がり、亜矢の頬に触れる。
嬉しくて仕方ない、というようにレイはクスクスと笑みをもらした。
「暖かい……温度を感じたの久しぶりかも」
長い指が、輪郭をなぞり、耳をかすめて登って行く。そして手ぐしで短い亜矢の髪をゆっくりとすいていく。
「いやあああ!」
自分でも驚くほどの大きな悲鳴。それが魔法を解く呪文になったように、亜矢の体が自由になった。
ようやく取り戻した手を、祈るように組んで胸に押しあてる。心臓が物凄い勢いで鳴っていた。足が、軽く震えている。
さっき、完全に手はレイに乗っ取られていた。自分が動かそうとしていないのに体が動く恐怖。
ひょっとしたら、手だけでなく体全体を乗っ取る事もできるかも知れない。その気になれば、レイは亜矢を殺す事もできる。亜矢の手を操って、首をしめて。でなければ刃物で手首を切って。
「なに? どうかした?」
亜矢の、あまりの動揺ぶりに、レイは驚いているようだった。きょとんと首をかしげている。
「指輪に戻って」
出した声は、自分でもびっくりするくらい冷たかった。
「はあ、なんで? 俺、なんかした?」
付けっ放しのテレビから、アナウンサーの冷静な声が聞こえてくる。
『今日未明、八戸市の十ヨウイチさんが行方不明になったとの連絡が八戸警察署に入りました』
「指輪に戻って。いいから早く!」
「は? だからなんで……」
そこで、レイは言葉を切った。気付いたのだろう、亜矢が本当に怯え、怒っていることに。
『……金庫が開けられていることから、警察は事件と失踪の両方から捜査を……』
「わかったよ! 戻ればいいんだろ、戻れば!」
理由も言わずに怒りだした亜矢にレイはいらだったようだった。
「わけわからねえ」と毒突きながら、レイは姿を消した。
「……」
レイがいなくなった空間を、亜矢は長い間眺めていた。頭の右隅がズキズキと痛んだ。そう、レイは幽霊なのだ。どんなにらしく見えなくても。なんだか、その事を今初めて知った感じだった。
急にガランとした部屋で、ニュースのアナウンスが響き続けていた。
『コンビニエンスストアに強盗が入り、店員が……』